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【感性は本当に鈍るのか?】神秘が死んだ、と言うと懐古心の強い大人には耳触りがいいけれど、実際のところ現代には現代の神秘が生まれている。神秘だから大人には見えにくいだけ



懐古厨という言葉がある。昔を懐かしがるばかりで、現代に適応していない、燃え殻みたいな人間、というような意味の蔑称と認識している。かなしい名前だ。
 
そんなふうに言われてしまう人が、世界に確かに実在することはわかる。
彼らにとっては、黄金時代ともいうべき「昔」がどうしたってずっと一番で、それ以降、あのころを越える高揚に出会えていないのだろう。
神秘が死んだ、と言いたくなる気持ちに、共感もできる。

ただ実際には、神秘は死んでいない。今も違う形で現れている。
それも、次々と。数えきれないくらい。

なら、なぜ見えないのか? 神秘だから、大人に見えないのか。妖精さん的なことなのか?
言い切るのは、少し早計かもしれない。
見ようと思ったら、たぶん見られる。

見える見えないの原因を押し付けられているのは往々にして、「感性の鈍り」というやつだ。

「感性というのは時とともに鈍っていくのだ。それは仕方がない」

こんなセリフを聞くときに僕たちが想像するのは、いわば日本刀のようなものではないだろうか。きらりと美しく光を反射していた刃が、経年とともに赤茶色に錆び、切れ味が悪くなってゆく映像。
しかし、このイメージに引っ張られることこそが、どうも危ういと、僕は思う。

それ、感性が鈍ったというよりも、体力が落ちただけではないか?

以前、「いろんなものを楽しむために自分のほうからピントを合わせる必要がある」という話を書かせていただいた。

ある程度年齢を重ねてくると、やらなきゃいけないことが増えてきて、過去のアーカイヴもぱんぱんに増えてきて、なのに体力は年々落ちてきて、新しいものへの理解度を高める行為に時間と体力を割きづらくなる(僕はまだ三十二だが、すでに時間の使い方が難しいなと感じている)。

結果、楽しいはずのものを楽しいと感じるためのピント調節機能が緩慢になるのではないか?
最近そう思う。

なにもかもが新鮮で、次から次に吸収したかったあのときと比べて、今の精神状態はまったく同じだけのモチベーションを保てているか?
そう自分に問いかけて、もし答えがノーなら、反省することにする。

神秘を見えない理由は、神秘が死んだからでも、自分が大人になったからでもない。ただのジョギング不足だ。
スポーツドリンクは、H2Oかキリンラブズスポーツかグリーンダカラが濃すぎなくておすすめだ。日が沈んだら走り出す。

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