見出し画像

【楽しむための資格】「映画を見るには」「漫画を読むには」「小説を読むには」ある程度の素養がいるというけれど本当にそうか?

「ジャンルを楽しむにはある程度の素養が必要」という論調をたまに聞く。

たとえば「最近の子は漫画を読めなくなっている」という話。
動画は放っておいても流れてくる受動的なメディアで、漫画は能動的にめくっていかなきゃいけないメディア。

また、漫画は独特の方法論で描かれている。
たとえばコマをどの順番で読んでゆくか、集中線やトーン効果はどんな意味をもっていて、を理解しなきゃ読めないから。


さかのぼると小説にも似た話があって、「最近の子は小説の読み方がわからない」と言われてから久しい。


たしかに、こんなふうに言われると、もっともらしく納得しそうになる。
動画よりも漫画は、漫画よりも小説は、楽しむのに努力がいるしなあと。

ただこれって、理屈としてはそこそこ正しいことを言っているのだけど、最終的な結論は、言い回しがずれていると思う。


「それを楽しむために素養が必要」なんじゃない。
むしろ逆で、他のものに染まり過ぎているから、別の楽しみかたができない、ではないか?
言い換えると「別の物の素養がありすぎる」から別のやりかたに移ることへのハードルが上がっているのではないか。


たとえば、生まれて初めてバッドエンドの物語に触れたとき、どんな気持ちになったか?
私で言うとそれは映画の『レオン』なのだけど(あれをバッドと呼ぶかの論争は置いておいて)、
見た後の感想は「楽しい」ではなかった。
ただ、「面白くない」でもなかった。

「……これで、終わり?」が一番正確な表現だった。


はじめてのことすぎて衝撃で、なにがなんだかよくわからなかったのだ。
あのとき小学生だった私は「ハッピーエンド」が当たり前だと思い込んでいた。
まさか、世の中にバッドな終わり方をする物語があると、想像さえしてなかった。


レオンの例示は厳密には「物語のジャンル」レベルの話だから
今回の「メディアの違い」の話とはちょっとずれてはいるのだけど、
「素養」問題の本質ってまさにこのあたりにあると思う。

要するに、
固定観念を持っているせいで新しい娯楽を楽しめない
である。

「本当になんの素養もない人」は、なにも楽しめないのか?
いや、まっさらな気持ちでなんでも楽しめる。


つまり大事なのは「素養をつけさせる」ことじゃない。
「固定観念による拒否をさせない」こと。

素養をつけさせようとすることは、受け手を教育しようとすることだ。
たとえば「小説の読み方」なんて教本みたいなものを出して導こうとしても、小説を苦手に思っている人たちはついてこない。
いや、多少はついてくるのだけど、その人たちは小説の読み方なんてものがなくても元々アンテナが小説に向いていた人だ。
 

そうでなく、
「なんの素養もなくていいよ、ありのまま思ったとおりでいい」
「なんだこれ? と思ったなら、その感想が正しいんだ」
「面白くないと思ったなら、それはあなたの素養がないからじゃなく、作品が単純に、あなたにとって面白くない。それだけのことだ。時間を返せよバカって言ってもいい」

そう教えた方がいい。
このとき初めて「でも、他の中にはあなたに合う面白いものも、きっとあるよ、見てみてね」に繋げることができる。

 

忘れちゃいけない。
娯楽を高尚な位置に置こうとしたとき、その娯楽は腐りはじめる。



この記事が参加している募集

サポート=投げ銭機能。投げる際にはついでにひと言コメントも書ける。 コメントに質問を添えてくれたら、質問への回答をnoteの記事にしたいと思う。