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贈与の精神について思う事

以前何かのニュースで見たのだが、最近は昔に比べて中元や歳暮を送る「盆暮れの挨拶」の頻度が減っている代わりに自分自身へのご褒美と称して自ら宛てに中元や歳暮を送る頻度が増えているのだそうだ。

特に若い世代に多く見られる傾向にある「自分自身への盆暮れの挨拶(?)」。
私なんかは相手方に送ってこその中元や歳暮の意味があるのだと思うのだが、価値観の違いを若い世代の方々に押し付けてしまうと「最近の若い奴らは………」的な世代間闘争の火種となってしまう危険性があるので多くは語る事は出来ない。

それに時代の流れにより価値観も変化するのだろうから、其々が好きなスタイルでやれば良いと思う。
確かにそう思うのだが、折角、日本古来の素晴らしき習慣があるのに何だか勿体ない気がするのも又、事実である。

「贈与と互酬性の関係」の重要性については古くはマルセル・モースの『贈与論』や伊藤幹治氏、内田樹氏、平川克美氏あたりが紙幅を割いていると思うが、(もっといるかも知れない。誰の著書か忘れたけど『世界は贈与で出来ている』って本もあったか?)一番心に刺さったのは向谷匡史氏『自分の価値を高める賢いお金の使い方』の中で

人間関係の「潤滑油」を使わない手はない

と喝波した一言ではなかったか?

確かに中元や歳暮は会社の先輩や親しい友人、又はお世話になった人に送る事で更に関係性を深める事が出来る。向谷氏に言わせれば「お中元・お歳暮は若い人が送るから効果がある」らしい。

それでも人に送る事より自分に送る事が増えているのは何故か?

恐らくは
①人間関係その物が鬱陶しく感じられる事
②損得勘定が強く作用する為
              だと思われる。

①に関して言えば孤独好きな私に置いては納得出来る部分でもある。
確かに人間関係は鬱陶しい。人との関わりは人間として生を受けた以上、宿痾の如く粘っこくついて回るものである。
だが、仕事や私生活を通じてお世話になっている人に対して全く知らんぷりするのもおかしな話なので、贈与という形で盆暮れのご挨拶をしている。

②に関しては最も贈与をしたくない人が挙げる理由ではないかと思う。

先のニュースの調査結果を見ていると
「人に対してお金を使うのは勿体ない」とか「贈与したからには何かしら見返りくれ」とか「世の中はgive&takeだけど、自分から何か贈るのは嫌だね」とか
「人に贈るより自分だけが楽しめればいいじゃん」とか、色々と心の声みたいなのが聞こえてくる様な気がして妙に可笑しい。

当の本人達は全く悪気は無いと思うし、その考えが悪いとも言い切れないが、昨今のコロナ禍に置いてこういった考え方が増えている事に対して更に何かしら殺伐とした雰囲気を感じてしまうのは果たして私だけだろうか?

文藝春秋を創設した文壇の親分格である菊池寛は「私の日常道徳」の中でこう書いている。

「私は自分より富んでいる人からは、何でも欣(よろこ)んで、貰うことにしている。何の遠慮もなしにご馳走にもなる。総じて私は人から物を呉れるとき遠慮はしない。お互いに、人に物をやったり快く貰ったりすることは人生を明るくするからだ。貰うものは、快く貰い、やる物は快くやりたい。」


何度読んでも素晴らし過ぎるじゃないかと思う。こんなに臆面もなく書けるのも菊池自身がgive&takeの前に幾つものgiveがある事の重要性を十分理解しているからではないかと思う。
損得勘定に執心して物事を考えている限り、こういう表現は出来ないのではないだろうか。

不肖、私も少しでもこの考えに近付こうと努力はしているが、まだまだ未熟である。

世の中の人々が菊池寛の様な近視眼的な損得勘定を考慮に入れない剛胆な精神の持ち主ならば、もう少し救いの様なものがあるのではないかと勝手に思っている次第である。


最後までお読み頂き有り難うございました。 いつも拙い頭で暗中模索し、徒手空拳で書いています。皆様からのご意見・ご感想を頂けると嬉しいです。