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意識と自己とは何か:決定可能な不確定性

決定可能な不確定性

私たちは、意識的に物事を考えている時に、頭の中で、一種のシミュレーションを行っています。

例えば、旅行の目的地にたどり着くために、飛行機に乗った場合と、車を運転した場合を比べるとき、頭の中でシミュレーションするでしょう。時間やコストはどうなるか、疲労やその後の旅行への影響はどうか、飛行機の遅延リスクや高速道路の渋滞リスクなど、様々な要因を加味してシミュレーションして検討します。そして、最終的にどちらを使うかを決めます。

他にも、買い物をする時に安い方の野菜を買うか、ちょっと高い方の野菜を買うか、などでもコストや料理の味などを思い浮かべるでしょう。どっちの映画が面白そうか。子供をきつく𠮟るべきか。日常的に、こうした、ちょっとしたシミュレーションを数多く行っています。

シミュレーションのためには、考慮しなければならない要素を把握している必要があります。また、その要素の特性や法則についても知っている必要があります。例えば飛行機の値段や所要時間、車を運転するとどれくらい疲れるか、トラブルや渋滞の可能性や影響度合いなど、です。

それらをすべて正確に把握できていれば、かなり精度の高いシミュレーションができます。一方で、現実には多くの要素は曖昧です。しかし、曖昧であっても、シミュレーションをしなければ思考は進められません。こうした曖昧な部分は、仮定を置いて考えるしかありません。場合によっては、複数の仮定を立てて、それぞれの状況に応じてプランを変えるようなことも必要でしょう。

さて、この曖昧な部分についてもう少し深く考えてみます。曖昧な部分には、過去に経験がないために曖昧な場合あります。何度も経験することで、予測精度を上げていけるものが多くあります。しかし、何度も経験していても、その法則が把握できず予測ができないものもまた、少なくありません。天気のように複雑なものや、人の心のようにつかみどころがないもの、ランダムな確率で決まるようなもの、など、様々です。

こうした不確定な事象についても、シミュレーションの中では仮定を置いて考えるよりほかありません。あるいは、そうした不確定なものを避けるようにあらかじめ行動する手もあるでしょう。

ここで、少し不思議な現象についての話をします。なぞなぞのように思われるかもしれません。

こうした過去の法則から予測ができない不確定なものの中に、シミュレーション内で仮定を立てると、現実が実際にその仮定通りになる、というものが存在します。予測できないけれども、仮定したものが現実になるのです。不思議ですね。言い換えると、シミュレーション内で現実を決めることができる不確定性、という事になります。

種明かしをすると、この、シミュレーション内で現実を決めることができる不確定性は、自分自身の行為です。

自分の行為は、予測はできません。ただ、決定することができるのみです。そして、シミュレーション内では、自分の行為も仮定してシミュレーションを進めます。そして、そこで仮定したものが、現実の行動に反映されます。

これはつまり、「シミュレーション内で決定可能な不確定性」が「自己」であるという事です。そして、この自己を伴うシミュレーションが「意識」です。

子どもの発達と自己認識

「シミュレーション内で決定可能な不確定性」が自己であるという仮説は、子供の発達と自己認識の仮定にマッチします。

私たちは生まれた時には、自己を認識できていません。しかし、五感で周囲を観察し、予測しているうちに、上手く予測できるものと、どうしても予測ができないものに気が付きます。秩序と混沌です。

そして、混沌の中には、自分の仮定通りに振舞う部分と、自分の仮定とは全く関係なく振舞う部分とがある事に気が付きます。

そして、この自分の仮定通りに振舞う混沌に、強い興味を持ちます。これは私たち大人から見れば、その子供の身体なのですが、自己を認識せずに生まれてきた子供は、この特徴、予測ができないけれども仮定通りに振舞うという特徴、をもつ部分に気が付つくのです。そして、その部分の限界を試すために大きく動かしたり、どんな時でも仮定通りに振舞うのかを試すために、いろんなことを仮定してみます。そして、仮定した通りに振舞うことが分かってくると、楽しくて仕方ありません。一生懸命いろんなことを試してみたくなるのです。

限界を試すために大きな動きや大きな声を出したり、本当にどんなことを仮定してもその通りに動くのかを試すために、気まぐれに止まったりじたばたしたり、くるくると同じところを回ってみたり、大人の真似を自分でしてみたりします。そして、それが確信できることが、楽しくて、また繰り返します。気まぐれですが、何度も何度も。これが、子供の振る舞いの理由です。「主体性シミュレータが現実を決めることができる混沌」である自己を、把握しようとしているのです。

そして、この過程で、だんだんと、自分が制御できる部分(自分の身体)と、制御できない部分(他者や世界)を理解していくのです。これが自己認識の初期段階です。

無意識と意識

慣れ親しんだ状況下では、無意識が、自動的に予測し、自動的に判断し、自動的に行動を決めます。そして、無意識が予測・判断・決定をできない場合、意識が現れます。無意識から意識へのバトンタッチが行われるわけです。

無意識からバトンを受け取った意識は、無意識では自動的に予測ができない場合や、予測ができても判断や決定が難しい状況に置かれていることになります。

このため意識は、無意識が行っていた方法とは別の方法で、予測を行う必要があります。

無意識が行っていた予測方法は、現在の機械学習やディープラーニング的なパターン学習に基づく予測です。何度も同じシチュエーションを経験してパターンを覚えて、そのパターンを使って予測します。このため、あまり学習ができていない状況や、複雑すぎてパターン化が難しい状況は、無意識では予測ができません。そこで、意識の出番になります。

意識は、パターン学習による予測ではなく、シミュレーションによる予測を行います。上述のようなシミュレーションです。

自己のスコープ

このシミュレーションに際して、単に受動的に予測する場合もあれば、自分の行動も未来の状況に密接にかかわる場合もあります。未来の自分の行動は、自分で制御することができますので、できるだけ都合の良いように自分を制御することを考えるはずです。

このためには、そもそも自分が制御できるものは、何なのかという事を把握しておく必要があります。自分が制御できるものが自己であり、それを認識することが自己認識です。

自分が制御できるものは、物理的には運動神経でつながった身体であり、認識的にはスキルです。歩くスキル、喋れるスキル、自転車に乗るスキル、知り合いにお願いごとをするスキル、ネットで商品を買うスキル。

物理的な身体は成長したり筋力を鍛える事で、行為のパワーやスピードや正確さを向上できます。お金や所有物や、社会的な権利や契約などの行為のリソースも、行為のパワーやスピードや正確さを向上できます。この類似性から、リソースも身体と捉える事ができます。

知性と身体は、スキルを身に着け、リソースを増やすことで、未来における行為の可能性の重ね合わせを増大させることができます。

この意味で、意識は、自由に制御できるものを、自己と認識します。一般に身体は自己ですし、スキルも自己の重要な一部と認識されるでしょう。そして、リソースも一種の自己です。

また、自分自身のポリシーやこだわり、夢や目標、考え方や意思決定方法など、意識は自ら決めて、それを自己の制御の原理として利用することができます。その意味で、こうしたものも、自己として認識されます。

これらは、短期的に制御できるものと、中長期的に成長させるものを含みますが、全て「意識が決定可能な不確定性」です。つまり、自己は「意識が決定可能な不確定性」であると考えられるわけです。

さいごに

時々、友人や知人と話をしていて、自分の将来についてしっかりとした考えを持っている人もいれば、あまり考えていない人がいることに気づかされることがあります。

自分の身体や目の前にある物やごく近い未来の中で、自分の意志で決定できたり、制御できるものについては、私たちはみな、高い関心を持っています。一方で、自分から物理的、意識的、時間的に遠い物事は、本来は自分で決めることや方向付けできるはずの物事であっても、人によって扱い方が異なります。そうした遠い物事も真剣に考える人もいれば、そうではない人もいます。

これは、先ほど私が書いた、自己のスコープをどこまでと考えているかという事なのかもしれません。子供のうちは、自分の身体と現在だけが自己のスコープだと思いますが、それが成長するにつれてだんだんと広がっていく。そして、その広がりが人によって違っているという事かもしれないのです。

自分の制御できないような大きなものに価値を感じる人もいると思いますが、それはこの話とは別の話です。あくまで、自分が決定したりコントロールできることをどう捉えているかということです。例えば、将来の自分のために、健康に気を配るかどうかといったことや、勉強や訓練をして知識やスキルを身に着けるとか。あるいは、自分だけの利益を考えるのか、家族や友人、知り合いのことも考えるのか、といった部分で、自己のスコープの広がりに差が出ているのではないかと思うのです。

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