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言語の誕生:意図、意志、思考の骨格

言葉は、相手とコミュニケーションを取ることや、記録を残す事に使われます。そこでは、相手に伝えたい事実や指示であったり、起きた出来事を表現する能力が、言葉に求められます。

それは、コンピュータのソフトウェアで、他のコンピュータへ通信メッセージを送ったり、動作ログを記録することに似ています。

一方で、言葉には、事実や指示を表現する以上の機能があります。

それは、論理の機能です。

考えてみると、言葉が無かったとしたら、私たちは論理的に考える事が出来るのか、よく分からなくなります。

人に伝えたり、記録を残す事とは別に、頭の中で何かを考えるという事自体に、私たちは言葉を使っています。そして、試しに言葉を一度忘れてみる、という事が出来ないため、言葉が無い状態でどのような思考が可能なのか、想像することは難しいのです。

このため、意識的に思考する際に、言葉を使っていることがほとんどであるというのは、確かだろうと思います。

そうだとすると、意識も思考も論理も、言葉によってもたらされた可能性があるという事です。私たちは、言葉が発明される以前には、意識も思考も論理も、明確には持っていなかったのかもしれません。

■言葉の機能

言葉には、特に名詞には、識別の機能があります。リンゴとミカンは言葉によって異なる物であると識別されます。AさんとBさんは固有名詞によって別人として区別されます。固有名詞をつけなければ、2つのリンゴはどちらも等価に思えますが、CとDという名前を付けたとたんに、それぞれの形や色付きの特徴を私たちは意識し始めます。

言葉には、識別された対象を形容する機能があります。丸い、赤い、甘い、はやい、大きい、といった特徴を、その対象に付けることができます。歩く、走る、飛ぶ、といった動作や振る舞いも付与できます。

ここまでは、事実や状態を表現する言葉の機能です。

「もしも」や「なぜ」という言葉は、単に事実や状態の表現からは離れます。

「もしも」は仮説を立てて思考することを可能にします。そして「なぜ」は、因果関係を逆向きに辿り、原因を理解することを可能にします。

「全ての」や「常に」といった言葉は、帰納法により抽象的に物事を理解することを可能にします。そして、「かつ」や「または」といった言葉により、論理的な操作をすることができます。

そして、抽象的な理解、論理的な操作、仮説や因果関係などを利用し、演繹的に推論を行うことができます。これにより、実際に観測したり誰かから伝達された情報には含まれていない物事を、予測や予想することが可能になります。

つまり、言葉を使う事で、未知の物事を推測することが可能になるのです。

■意図

推測は完全に正しいものではありません。これは予測精度という観点からは、限界があるという事を意味します。この限界が、一方で2つの人間らしいものにもつながります。

1つは、想像です。完全に正しい推測が得られないからこそ、それを逆手に取って、人間は意図的に推測を操作することで、想像を広げることができます。

もう1つは、未来の創造です。未来において、客観的には成立しないような推測であったとしても、意図的に未来に介入することで、想像したものを現実にすることができます。人間は、意図的に未来を操作することで、世界を創造することができます。

言葉は未知の推測を可能にし、推測の不完全さが意図を生じさせたのだと、捉える事が出来そうです。

■意識

このように考えてみると、言葉が意識を生んだという可能性もあります。あるいは、言葉が意識を育んだのかもしれません。

言葉が発生する前にも、意識のようなものは、もちろんあったのだとは思います。ただ、よりプリミティブであいまいなものだった可能性があります。言葉が誕生したことで、意識も明確に誕生したと考える事はできると思うのです。

もし、人間性の本質の一つが意識であるのだとすれば、言葉が人間性を生んだとも言えるかもしれません。言葉の先に、意識があり、その先に人間性がある、そのような関係性が導出できるのかもしれないのです。

その関係が正しいとすると、人間性は先天的なものではなく、後天的なものという事になります。もし、私たちが人間らしいと考えている性質や、人間の本質だと思っている物の多くが、言葉の上に成り立っているとすれば、言葉が観念としての人間の土台になっているという話になりそうです。

■言葉と思考のあり様

日常的に使用している言葉以外に、図表や、数式やプログラムなどの知識の表現と思考の道具があります。こうしたものも、一種の言語です。

言語が思考を形成していると考えると、プログラマと非プログラマの間ではソフトウェアに関する会話がかみ合いにくいという経験的な現象が、よく理解できます。ソフトウェア開発において、顧客からの要望をソフトウェア設計に落とし込む作業が最も重要で難易度が高い作業になります。これは、非プログラマの思考と、プログラマの思考という異なる言語体系の下で行われている思考を変換する必要があるためだとも言えるでしょう。

また、言語が思考を形成しているなら、思考の枠組みは自ずと言語に縛られることになります。使用している言語体系にない枠組みで思考することは、困難になる可能性があります。言語は新しい概念に名前を付けて扱う事はできますが、例えば図表や数式やフローチャートで表すような思考の枠組みを、日常使っている言葉で扱えるようにする事は、困難です。

ビジネス戦略分析や論理的な思考法の話で、考え方の枠組みとしてフレームワークという言葉が出てきます。フレームワークを説明したり表現する際、多くの場合、図表での表現が登場します。これは単にその方が表現しやすいという理由だけではないという事です。

日常的な言葉で表現しやすい考え方は、既に私たちは当たり前の考え方として身に着けていて、既知のフレームワークとなっているのです。そう考えると、新しいフレームワークとしてあえて書籍に載せて、共有する必要があるようなものは、そもそも日常的な言葉で表現しづらいものであるはずです。これが、多くのフレームワークが図表を伴う理由だと考えられます。

ここに、新しい考え方には、それを形成する新しい言語的表現が必要になるということが、見て取れるように思えます。

■コンピュータおよび生物との対比

言語が思考を形成したという捉え方をすると、プログラム言語の原型である機械語がコンピュータを形成したという捉え方ができます。

プログラムが実行できる汎用型コンピュータは、確かに機械語という概念が無ければ成立しません。このため、機械語というアイデアが生まれ、それが設計されたことで、汎用型コンピュータが生み出されたという順序で捉えることも、間違いではないのだろうと思います。

生物においては、DNAが生物を形成しているという捉え方ができるでしょう。そして、最初は単細胞生物が登場し、その後、細胞がつながった多細胞生物へと進化した様子は、言語が単語から始まって、やがて文法を持って複数の単語を連結した文を作れるようになったことに対応するように思えます。

文は単なる単語の連結以上の意味と機能を持ちます。文の中の単語同士は連携して全体として意味を形成します。これは、多細胞生物が単に単細胞生物のより集まりでなく、複数の細胞が全体として1つの生物として一体化している様子に酷似しています。

また、DNAや単細胞生物が登場する以前にも、生命現象の要素になるような有機物の化学進化の過程があったと考えられます。これは言語が登場する以前の、人間の思考の姿に対比されるかもしれません。言語登場以前にも人間が何らかのぼんやりとした思考をしていたと想像できます。細胞以前の生命現象の発生前の状態は、このぼんやりとした思考のような境界線があいまいな姿をしていたのではないかと思えるのです。

■さいごに

思考を可能する段階にまで言語が成熟した時が、人間性の誕生であった可能性があります。いわば、言語の誕生が、人間の誕生とみなすこともできるということです。これは、DNAの誕生が生命の誕生とみなされていることに似ています。

この記事の中で、言葉の機能をいくつか見てきました。言葉が人間性に密接に関係しているのであれば、よりその観点を掘り下げることで、人間や思考の本質を深く理解できる可能性があります。


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