見出し画像

■私たちは何を食べているのか

<栄養と健康と食の楽しみ、そして悩み>

基礎栄養は、たんぱく質、脂質、糖分(あるいは炭水化物)と言われています。この他に、ビタミン、ミネラル、それに水を摂取する必要があります。

以前から、塩分、脂質、糖分の摂取過多は、あまり健康に良くないとされていました。塩分の取り過ぎは高血圧を招き、脂質と糖分の取り過ぎは肥満を招くと考えられているためです。そして、近頃は炭水化物もその仲間に入って、糖分と同じく肥満の元と考えられるようになっています。栄養学はエビデンスの収集や解釈の仕方が難しい部分がある分野ではありますが、原理的には、これらの話は正当でしょう。

私たちが元気に生活を楽しむためには、健康に気を配る事は重要です。特に、長寿時代を迎え、年を取ってからも長く健康でいることが本人にとって、また家族や周囲の人にとっても大切な事です。長い期間の食生活が、長期的に将来の健康に影響を与えることは確かでしょうから、ある程度、若いうちから食生活の習慣には気を配っておいた方が良いと考えられます。

とはいえ、食は、私たちの大切な楽しみであることも、また事実です。

美味しい食べ物は、直接的に私たちに幸福感をもたらします。五感を刺激して私たちを楽しませるという点で、絵画や音楽のようなアート性や、映画やポップミュージックのようなエンターテイメント性もあります。むしろ、感性的な体験として、誰もが日常的に気軽に体験できる点でも食体験は優れています。また、一緒に食べる人と楽しみを共有しつつ、コミュニケーションを促進する場としても、食を楽しむ体験は大切にしたいものです。

料理について先人が編み出してきた様々な知恵を使えば、健康的でありながらも、多様な美味しい食べ物を作る事はできます。ただし、悩ましい点は、それらはかなり工夫が必要であることと、一般的には少々、お金がかかります。そして、手軽に美味しく食べられるものは、塩分、脂質、糖分を基礎としていることが多いため、先に挙げた健康面との板挟みに悩まされます。

この悩みについては特にアイデアも意見もありませんので、現状の認識を整理したところまででとどめておきます。さて、ここからは、話の方向性をガラッと変えます。

<塩分、脂質、糖分は、美味しいのか?>

先ほど述べたように、塩分、脂質、糖分を、私たちは美味しいと感じるようです。そのため、健康に悪影響がでるまでつい食べ過ぎてしまう人もいるということでしょう。

ここで私の頭には、一つの疑問が浮かびました。塩分、脂質、糖分がそんなに美味しいと感じるのなら、その純粋な抽出物である、塩、植物油、砂糖を使えば、美味しい食べ物ができるのだろうか、という素朴な疑問です。

まず、個々について考えて見ると、塩と植物油は、それぞれ、そのまま食べる気になるようなものではありません。

塩は少し舐める程度は楽しめるかもしれませんが、それ以上はうんざりです。

植物油は、小さじ一杯飲むことを想像しただけでも、なんだか気分が悪くなります。

砂糖は、甘いものが好きかどうかにもよるかもしれませんが、せいぜい角砂糖1個をかじる程度は楽しめそうですが、10個を食べることを楽しめる人は僅かでしょう。そうした人でも、満腹になるまで食べることは不可能だと思います。体調を崩しそうですし、なによりどんなに甘いものが好きな人でも、気持ちが悪くなるのではないかと容易に想像がつきます。

では、これらを組み合わせたらどうでしょう。実際に試したわけではないですが、それぞれ2つを選んで組み合わせても、3つ全てを組み合わせても、どうも美味しい食べ物になるとは思えません。どう組み合わせても、味気がなさそうですし、多少食べることができたとしても、やはり多く食べると気持ち悪くなりそうです。

例え、ゲランドの塩、オリーブオイルやごま油、和三盆糖や黒糖など、それぞれ高級なものや風味があるものに変えても、結果は同じでしょう。

そもそも、塩、植物油、砂糖は多くの方のキッチンにあるのですから、もしそれを組み合わせて美味しい軽食やおつまみやお菓子ができるなら、そういったレシピが世の中に広まっていそうです。しかし、インターネットで時短料理のレシピや、健康に対して罪悪感を抱かせるような塩分・脂質・糖分たっぷりのレシピが紹介されている現代においても、塩、植物油、砂糖で作るレシピは見たことがありません。

<私たちは何を食べているのか>

では、そこに欠けている、たんぱく質、ビタミン、ミネラル、水が、必要なのでしょうか? しかし、これらも同様です。筋肉のトレーニングのために、たんぱく質の粉が販売されていますが、これも、とても多くの量を美味しく食べられるようなものではありません。

ビタミン、ミネラルはサプリメントが売られています。これは比較的、お菓子のように食べられそうですが、やはり満腹まで食べることは難しいと思います。

たんぱく質、ビタミン、ミネラル、水を、塩、植物油、砂糖、たんぱく質の粉に混ぜ合わせても、とても美味しい食べ物になりそうには思えません。先ほどと同様に、これらを組み合わせたレシピも、見た覚えがありません。

待ってください。ここで私たちは迷宮に迷い込んでしまいました。

冒頭で説明したように、私たちは、たんぱく質、脂質、糖分、ビタミン、ミネラル、それに水を摂取しています。基本的には、これらが私たちが食べている物を構成しているほとんどすべての要素です。あとは、消化吸収されない食物繊維くらいでしょうか。

それらを組み合わせた食べ物を、普段私たちは美味しく食べているのです。にもかかわらず、これらを純粋に抽出した、たんぱく質の粉、植物油、砂糖、サプリメント、塩、それに水を混ぜ合わせても、美味しく食べられるものはおろか、気持ち悪くならずに満腹に食べられるものを作ることができないように思えます。植物繊維が欠けているピースだとも思えません。

そして、私の想像上の思考実験の話だけではなく、いろんなレシピを考案する人がプロの料理人や料理研究家、アマチュアの料理好きや実験好きな人たちを含めて、そうしたレシピが実在しないことは、大きな謎です。

私たちは、いったい、何を食べているのでしょうか?

<分解される、その前にあるもの>

純粋に抽出したものを混ぜ合わせても、美味しく、気持ち悪くならずに食べられるものを作るのが困難であるとすると、では、純粋に抽出する前の物、分解される前の物には、何があったのでしょうか。

おそらく、何かの物質が欠けているわけではないでしょう。基本的には、現代科学は分子レベルで物質を特定することが可能です。食べ物という人間にとって重要なものを分析する際に、見落としや漏れがあるとは考えにくいと思います。

では、各要素の配分のバランスでしょうか? それも何かしっくりきません。

抽出や分解されるものは、各要素が単に一定のバランスを持っているだけでなく、化学的な構造や物理的な構造を持っています。おそらく、この構造が、ヒントなのでしょう。

五感を刺激するという意味で、食べ物を食べて美味しいと感じることと、絵を見て美しいと感じたり、音楽を聴いて楽しさや切なさといったイメージが想起されることには、類似性があるのではないかという発想が、その根拠です。

絵も、ビビッドな色を全面に塗ったものや、それらを混ぜ合わせて全面に塗ったものを想像してみて下さい。最初は大胆で面白いと感じるかもしれませんが、2枚目以降はどうでしょう。やはり、単調で純粋な色だけを一面に塗られていても、少し慣れると楽しさや美しさを見失うと思います。一方で、好きな絵はいつまでも、何度見ても楽しめます。

音楽も同様です。いくら高級なバイオリンの音色でも、一音だけをずっと鳴らされても、音楽としては楽しめません。他の楽器と併せて合奏しても、同じ和音がずっと響くだけなら、同じです。やはり、リズムやメロディといった、変化と音の構造がなければ、音楽として鑑賞することは難しいのです。

この事から、食べ物も、同じなのだと思います。純粋に抽出されたものを食べ続けたり、それを混ぜ合わせたものを食べ続けることは、できないのです。

そして、この食べ物をおいしいと感じる、あるいは満腹まで食べ続けることができるような構造は、キッチンで純粋な抽出物を混ぜ合わせることでは到底実現できません。おそらく、化学の研究室の実験装置でも、難しいでしょう。分子構造を解析することはできても、再構築することは現代の科学では困難です。

<私たちが食べているもの、食べていないもの>

では、どうやってその構造を生み出すことができるのか。そうです。生命です。私たちは、生命が生み出したものを、食べているのです。そして、生命が生み出したものしか、多くの量を食べないようにできているのです。

この事は、神秘性を感じられますが、同時に、そこには必ず合理的な理由が存在しているはずです。なぜなら、生命にとって栄養やエネルギーの摂取は、死活問題です。現代では感じにくいことかもしれませんが、生命は常に飢えと戦ってきたのです。

例えば、砂糖は生命にとって直ぐにエネルギーにすることができる魅力的な食べ物です。しかし、不思議なことに、砂糖は腐りません。植物油も同様です。これほどエネルギーが詰まった魅力的な食べ物を、細菌は食べないのです。だから、砂糖も植物油も常温に置いていてもいつまでも腐らないのです。つまり、人間だけでなく、細菌でさえも、なぜかこの魅力的なエネルギー源を、摂取しないのです。養分、つまりエネルギーの摂取が、生命にとって最も重要な事であるにも関わらず、です。

これは、生命は、純粋な抽出物を忌避しているということです。生命が作っていないものを摂取することを避けるように、生命は進化しているという事です。これは一種の免疫のような仕組みと捉えることができるかもしれません。通常の免疫システムは、その生物個体の中で、自分自身の体や受け入れ可能なものを識別して、それに該当しないものを外界から来た異物と判断して排除する仕組みです。

ここで私が提示している免疫のようなものとは、それに近いですが、そのスコープが少し異なります。他の生物を含めた生物が作ったものか、そうでないかを識別する仕組みが、遺伝子レベルに組み込まれているのではないか、という仮説です。生物が作ったものという証拠がどこかの構造の中にあり、それがないと、生物由来ではない物だと判断し、取り込まないというルールが、地球上のほとんどすべての生物に組み込まれている可能性があるというのが、私の考えです。

<食べるものを選ぶ仕組み>

この記事を書きながら、ちょっと思いついたことがあります。そこまで深く考えてはいないのですが、生物の組成に使われているアミノ酸や糖には、モノキラリティの特性があることは、このことに関連しているかもしれません。つまり、「生物が作ったものという証拠」として、キラリティが利用されている可能性があるかもしれません。

地球上の生物が作ったものであるという証拠として、キラリティを使う事はとても賢い戦略に思えます。キラリティの方向にはシンプルな一定の法則があるため、チェックは容易です。この容易さは、うっかりチェック漏れで逆のものを摂取する可能性をかなり低くできるでしょう。

そして、こうしたチェック機構を持たなかった生物種は、うっかり摂取してはいけない有機物を取り込んでしまい、死滅するリスクが髙かったのだと考えられます。それが、脈々と、生物の進化の経路上で受け継がれて、私たちが砂糖や油を、直接摂取することを拒むという現象にまで、繋がっているのではないかと考えられます。

<栄養物接種のセキュリティシステム>

インターネットセキュリティの知見を元に、敵の侵入を防ぐ仕組みを考えると、二つの方式を適切に組み合わせることが重要になります。二つの方式とは、ホワイトリスト方式とブラックリスト方式です。

ホワイトリスト方式は、受け入れても良いものの目印や特徴に着目するやり方です。そして、チェック機構においてそれを確認し、それを持っている場合のみ受け入れるやり方です。例えば、IDとパスワードを使うログインチェックは、ホワイトリスト方式の代表例です。これは受け入れ可能なものが特定できている場合に有効な方式です。基本的により厳密なチェックが可能になりますが、受け入れても問題がないようなものでも、基本的には目印や特徴を持っていなければ拒否しますので、新しい機会を逃しやすい方式でもあります。たまたま、受け入れることが許されないにもかかわらず、その目印や特徴をもったものが存在してしまうと上手くいかなくなりますので、できるだけ目印や特徴は、真似ができないものの方が望ましいと言えます。

ブラックリスト方式は、受け入れてはいけないものの目印や特徴をチェックするやり方です。その目印や特徴を見つけたら、受け入れを拒否します。これは、コンピュータウィルス検出ソフトや、迷惑メールフィルタリングの仕組みが、ブラックリスト方式の代表例でしょう。これは受け入れ可能なものが特定できない場合に有効な方式です。基本的には、目印や特徴がなければ通過してしまいますので、ある程度の割合で本来は受け入れてはいけないものを受けれてしまうリスクがあります。また、それを防ぐために監視を厳しくすると、本来受け入れることが可能なものを、受け入れないという弊害も出るため、運用が難しい方式でもあります。

この両方を適切に組み合わせることで、望ましいセキュリティレベルを担保するというのが、インターネットセキュリティの基本的な考え方になります。

改めて生物が食物を選別する際の問題を考えてみます。

生物にとって、栄養素を取り入れることは死活問題ですが、同時に、取り入れるものが自分の生存を脅かす毒や病原体である事も問題です。特に、栄養は自分の体内の奥に対象を取り込み、体の隅々にまで行き渡らせる必要があります。そこに毒や病原体が入り込んでしまうと、その後の対処が著しく困難になる上に、取り返しのつかないダメージを追う恐れがあります。このため、外傷や呼吸器への侵入よりも、さらに慎重かつシビアな対応を求められます。

こうしたシビアな対応を考えた場合、ホワイトリスト方式を採用することが、戦略上重要です。受け入れても問題がないような栄養素であっても、マークや特徴がホワイトリストに載っていなければ、拒否します。これが、砂糖や植物油を受け入れない理由ではないかと思います。おそらく、ホワイトリストに載っている物と一緒に摂取することはできますが、それがなければある分量以上は受け入れない仕組みになっていると考えられます。その、受け入れ可能なものを示すマークの一部として、キラリティが効果的に使われているのではないかというのが私の仮説です。

なお、キラリティはアミノ酸と糖において見られます。つまりタンパク質と炭水化物です。そして、脂質にはキラリティがありません。このことは、たんぱく質や炭水化物が食べ物に含まれる割合が多くても受け入れられますが、油の割合が多いと拒絶しやすくなるという私たちの日常的な経験にも一致します。

さらに人間の場合、ブラックリストも併用しています。これは、毒や腐ったものの特徴である苦みや酸味を舌でチェックし、排泄物や腐ったものの特徴である臭いを鼻でチェックします。食べるときにチェックして拒否するだけでなく、強烈なにおいに遭遇したら、少し食べたものも胃から吐き出します。さらに、腸でも免疫のようなチェックが働いて細菌や毒の特徴を検出したら、腹痛を伴って腸液を出してすぐに排泄させます。

このようなホワイトリスト方式とブラックリスト方式を組み合わせて、生物は栄養素の取り込みにおけるセキュリティ問題に適切に対応していると考えられます。

さらに、生物がシンプルな時には、複雑な仕組みを必要とするブラックリスト方式はあまり高度化できません。このため、必然的にシンプルかつ堅牢なホワイトリスト方式が最初に発達したと推定されます。そのため、キラリティを目印に使ったホワイトリスト方式は、生物の進化の初期の頃から採用されていたと考えるとつじつまがあります。地球上の生物のモノキラリティは、複雑な生物から単細胞生物まで、全ての生物に一貫している特徴であるためです。

<さいごに>

すっかり長い記事になってしまいました。書いているうちに思いついたことが出てきたためです。単に生物が作ったものしか食べない仕組みという話を書こうとしていたのですが、栄養物を摂取するセキュリティシステムの発想と、有機物の分子構造のモノキラリティの部分です。

さらに、この仕組みから、生物は極端な単調性を拒むという性質もあるのではないかという気づきもありました。複雑だったり見通しができなかったりして、先が予測できない状況も私たちにとって不快や不安の元です。これと同じくらい、私たちには、極端に単調だったり全ての見通しがついてしまう事もまた、強く拒むという性質がありそうなのです。

また長くなりそうですので、その話は、別の記事で考えていきたいと思います。

サポートも大変ありがたいですし、コメントや引用、ツイッターでのリポストをいただくことでも、大変励みになります。よろしくおねがいします!