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おばあちゃんの遺したもの

5年ほど前に祖母が亡くなってから、近くに住む叔母が管理してくれながらも空き家となっている祖父母の家に久しぶりに行くことに。

目的は、ゆるやかな遺品整理とでも言おうか。
亡くなってすぐにコロナ禍となったこともあり、なんだかんだ先延ばしになっていた。

大方のものは、ある程度整理されてはいたのだけれど、一度着物などを見てみないかということもあり私も行くことに。

私は普段、なんてことない日でも着物を着るのが好きだし、着物を見るのも大好きだけど、正直小柄で華奢だった祖母の着物が私に合うはずはない。(ちょっと頑張ればイケるという体格差ではない)
それにフォーマルなものは着ないし、好みも合うかわからないし、まあ木綿の反物でもあればラッキーかな程度の気持ちではあった。

ところがいざ行ってみると、とても可愛いものがたくさんあったのだ。

見たことない柄や趣向を凝らしたものに出会い、とても驚いた。今の私が見ても、めちゃくちゃ可愛い。可愛いのだ。

(おばあちゃん、こんなに可愛い服持っていたの?こんな柄や色が好きだったの?)

家が近いこともあって、小さい頃からしょっちゅう家に遊びに行っていたし、亡くなるまでわりと頻繁に会っていたはずなのに、おばあちゃんのタンスやクローゼットの中の服は、、まるで別の人のモノのようだった。

おばあちゃんはとにかく働き者だった。
自分で畑もやっていて、家のこともマメにやっていて、とにかく休む間もなく畑や台所を行ったり来たり。

私が遊びに行っても家の中にいない時は(昔は玄関にほとんど鍵なんてかけてなかった)、庭や畑の方に回ると働いているおばあちゃんがいた。

そうすると「あら~!かのちゃん!」と目を細め、汚れた手で頭に巻いた手ぬぐいを取り、「よく来たねえ!よく来たねえ!」と近づいてくる。

だから、私の記憶の中のおばあちゃんは、いつも野良着か割烹着だった。

きっちりしていた人だから、いつも小綺麗にはしていたのだけど、服装はいつも働きやすい格好だった。だから、どちらかというと地味なイメージだったのだ。

そこで、初めて気づいた。

(私は、おばあちゃんのおしゃれした姿の記憶がほとんどなかったんだ。)

.

おばあちゃんが亡くならなければ、私が着物が好きじゃなかったら、このタイミングで近くに住んでいなかったら、このタンスやクローゼットを開けることは絶対になかった。

そしたら、私はおばあちゃんがこんなに可愛くてハイカラな服が好きだったことを一生知ることはない。

おばあちゃんは、どんな時、どんな気持ちで、この服を選び、袖を通していたのか。
どんな顔をしていたんだろう。

私の中には確実にはっきりとおばあちゃんの記憶があるけれど、それは本当に彼女のほんの一部にしか過ぎない。
それなのに、私に見える姿がおばあちゃんのすべてだと思っていた。

良いか悪いかの話じゃなくて、それに気づいた私はただ、とても、とても、なんだか嬉しかった。

亡くなっても、その後に、またおばあちゃんに出会えたような、おばあちゃんとの思い出が出来たような気持ちになれたのだ。

おばあちゃんとたくさん話した記憶はあるのに、洋服やおしゃれの話なんてしたことなかった気がするな。
でも、おばあちゃんの選ぶもの、私もすごい好きだな。
趣味が似てたのかな。私の格好はどう思っていたのかな。
もし話してたら、思いがけず盛り上がったりしていたのかな。
でもきっとおばあちゃんにもそんな話で盛り上がる友だちがいたんだろうな。
おしゃれして出かけたくなる時があったんだろうな。

もう言葉を交わすことはできないけれど、おばあちゃんと過ごす、とても楽しい時間となった。

.

そして、私のクローゼットを眺める。
自分に、ちゃんと楽しんでいるか問いかける。

いつかの先で、どんな形であれ、私のクローゼットが誰かの手によって整理される時が来る。

その時に、「はー!この人、楽しんでたんだなー!」と思われるようなものが残っていたらいいな。

それは、派手だとか高級だとかそういう基準ではなく、今回がそうであったように、服が語りかけてくるのだ。
「ねえ、私おしゃれでしょ?素敵な服でしょ?」って。

大切にされた服、愛が込められた服というのは、どんなにシンプルなものでもきっと言葉を持つようになる。
そう信じてみたくなった。

そういうメルヘンなものも、ちゃんと大事にしようと思った。

だってそっちの方が、断然面白そうじゃんか。

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