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言葉を疑う

「男性」という言い方と「男の人」という言い方と「男」という言い方はみんな同じものをさしますが微妙に違いますね。

言葉って本来の意味以外に印象、ニュアンスがあって、「あの男の人がさ」と言うのと、「あの男がさ」と言うのではまるで違う。「あの男がさ」は呼び捨てのような粗さ、いい感情を持ってないような感じがして、あとに続くのは悪口かな、愚痴かな、と察しがつく。聞く方はその姿勢になる。ニュアンスは方向指示器の役割します。

でも実際に聞いてみると、その「男」はそれほど悪そうじゃなかったり。

いい感情を持ってないから「あの男がさ」と悪く言いたいみたいだけど、それは洗脳、言葉の端々で刷り込みたいのかもしれない。同意を得ようと。

自分の主張に自信があれば刷り込む必要ないんですよね。印象の薄い言葉を淡々と並べ、内容で勝負すればいい。判断は相手に任せればいい。

まぁ洗脳とまでは言えない場合もあるかもしれません。

急な批判だから心の準備をしてもらうのにあらかじめサインを…といった気遣いからの場合もありそう。

ともあれ言葉のニュアンスはそんな風に使われるものでしょうが、そんな風に使いたくて言葉を作っていったんだと思います。「男性」「男の人」「男」

微妙な表現で伝達、コミュニケーションする人たちだったから。必要あって言葉を作っていった。

微妙に違う言葉がいろいろあると、表現は豊かになりますね。話す表現にしろ、文字による表現にしろ。

そして様々な言葉の意味、意味合いを知ると人はより繊細になるでしょう。

人が言葉を作るだけじゃなく、言葉が人を育てることもあると思います。

でもいいことばかりじゃありません。

例えばニュアンスのような微妙なものでなく、はっきりした印象を持つ言葉がありますね。

「美」などはそうでしょう。印象のいい言葉。辞書を引いてもいい意味ばかり。

整っていること。綺麗なこと。素晴らしいこと。立派なこと。

でもこれ、全部主観です。

何をもって「整っている」とするか、「綺麗」とするか、「素晴らしい」「立派」と思うかは人によります。判断は分かれる。

容姿の美の基準が国や民族によって異なる話は有名ですが、それもザックリした話でしょう。大雑把な傾向はあっても実のところはひとりひとり違うもの。好みは千差万別。美ほど多様なものはないかもしれません。そのぐらい曖昧なもの。

なのに「美」という価値を作れば逆の「醜」も生みます。上下ができる。その基準で称えられるものがあれば、落とされるものも生む。競争する張り合いができても、癒やせない傷を誰かに作るかもしれない。

それでも「美」という言葉はイメージがいい。否定しにくい。「美なんてクソくらえ」と言う人がいたら眉をひそめるんじゃないでしょうか。そのぐらいアゲられてる。でもそんなにいいもの?

「熱い」なんて言葉も世間的にはイメージ良さそうですね。情熱とか感動を思い浮かべるのかな。熱い人。熱い思い。

逆に「冷めてる」なんてのはイメージ悪いような。冷静。関心が薄い。心がこもってない。

でも熱に任せた言動ほどミスが多かったりします。勢い任せ。周囲が見えなくて。

周囲を見るには冷静さが必要ですね。先を見越した慎重さもミスを防ぐでしょう。勢いとは真逆のものです。

これはどんな分野にも言えるかもしれませんが、一流と呼ばれる人ほどその分野に冷めてる気がします。情熱だけでなく逆の視点も持ち合わせてる。

自分はこの2つだとおそらく世間一般とは反対のイメージを持ってます。「冷めてる」と言われた対象はなんだか信用できそうな気がする。逆に「熱い」と言われたものはちょっと心配になる。

イメージも人によりますから。元々個人的なもので世間一般のイメージが「正しい」というのじゃありません。

「差別」などは印象が悪い言葉でしょう。絶対ダメなもの。悪。

でも差別という言葉は二通りの意味があって、

さべつ【差別】
1.違い、区別。
2.他より不当に低く扱うこと。

悪い印象は後者の影響でしょう。

でも「サービスの差別化」という言い方は今でもするし、それは「競合他社とぶつかっては食い合うだけだから違いを出そう、独自のものを押し出そう」という決して悪い意味じゃありません。

なのに「差別」という言葉自体は悪い印象の方が強い。まさってる。

自分は天邪鬼なので印象が悪いものはよく見ようとします。逆にいいものは悪く見ようとする。ひねくれてる。

なので「差別ってそんな悪い?」とも思います。「不当に低く」は確かに良くない。根拠ナシってことですから。なんとなくで決めつけてる。

でもそういうとこは誰でもありゃしませんか、と。

例えば肉や魚は食べません。殺生しません。私らと同じ命ですから。生き物によって差をつけるのは差別。それで菜食主義とかありますね。でも植物だって命です。変わりない。人に食われるため芽を出し葉を広げ枝を伸ばしてるわけじゃない。植物ならいいというのはずいぶん勝手な自分ルール。食すものはすべて命でしょう。生きるというのはすなわち他の命を殺めて食すこと。どんな命も本気で自分と対等と考えたら、一度の食事さえできません。生きるというのは他の命を差別し続けること。差別をしてない人はいない。殺めて食すのに詫びや感謝はあっても差別してるのは変わらない。それは「言いっこなし」というのは超勝手じゃん!

というのも一つの考えです。正解というんじゃありません。ただ「差別ってそんな悪い?」と疑ったり止まったりするから展開できる考えです。差別=イカン、差別=悪、という固定観念や拒絶反応からは生まれないし、コワバリがあるとこの「一つの考え」さえ受けつけないんじゃないでしょうか。

なので言葉の印象は思考の邪魔をしかねない。なので印象に左右されるのは避けたい、となります。それを除外しないと見えないことがある。

「愛」や「やさしさ」なんてのもポジティブな印象が強いですね。逆らえない感じ。水戸黄門の印籠ぐらい威力がありそうな。

となるとやはり否定したくなる。そしてどちらも弊害はあるでしょう。そこらは言わずもがな、割愛しますが、少し書き添えると自分はこの2つを自作の小説ではっきり文字にしたことはたぶんありません。

イメージが良すぎるし、スリコミになるし、何よりこれを書いたら結論。結論は読者がそれぞれ出すもの、ひとりひとりに委ねたいもので、作者が率先して書くのは(しかもウケがいいこと)ハシタナイと思ってます。

言葉のチョイスはそれの意味や印象を駆使して伝達すること、自分の思う答えに導くこと、意図的な連続で洗脳のおそれが十分ある。うまく伝われば、酔わせれば、熱くできればいいというものじゃない。

さて「物語」です。この言葉もイメージいいですね。今はCMのキャッチコピーにもよく使われる。

しかし数十年前まではこうじゃなかった印象です。「くだらない」「子供だまし」というネガティブな、軽視する価値観がもっと強かったような。

なぜだったんでしょう。先の大戦の影響もあるのかな。国を挙げての物語にだまされた経験でしょうし。意図的に酔わせようとするものには警戒感、拒否感があったのかも。

でも物語をちゃんと理解したうえでの扱いかというと、違う気がします。

かと言って今のイメージの方が合ってるかと言えば、それも違う気がする。実際以上に持ち上げてるような。

このエッセイ群でいろいろ書きましたが、物語だって他のものと同様、一長一短あります。

なのに昨今のイメージの良さは、いい面しか見てないんじゃないか。

「みんながそれぞれ好きなんだからいいじゃない」「他人が好きなものをけなすなよ」「そういうのはよくない」という気持ちはありますが、それでも明らかに偏りで、誤解で、それはさらに誤解を生み、偏りを強めます。負の面を理解してもなお愛でるのが本来じゃないか。本当じゃないか。

というのがこのエッセイ群の趣旨です。それで書きはじめました。

なんか脱線しましたね? してないかな?

まぁ言葉というのは知ると豊かになるし、考えは深まるし、それを使って伝えるのは難しくも面白いし、でもいいことばかりじゃない、毒されてもいる、そう疑ってみると別のものが見えてきてさらに面白いんじゃ? という話です。

勝手に思ったり考えたりは、ひとりでできる娯楽になり得ますから。誰にも邪魔されない。物語を空想するのと一緒です。


物語についてのエッセイ・目次

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