動物の言い伝え
ペットの大蛇が急に食欲を失くし、心配した飼い主が獣医に相談します。「もう1週間なにも食べてないんです」
すると獣医が聞きます。「体をまっすぐ伸ばしてませんか。横になったあなたと並んで」
「そう言えば」と飼い主が答えると、獣医は衝撃的なことを口にします。
「蛇は測ってるんですよ、あなたが食べられるサイズかどうか。そして腹を空かそうとしてるんです」
これはよく聞く話です。定期的に流れてくる。出所はわかりません。真偽不明。ネット情報だとどうも怪しい。蛇の休食、拒食はよくあることらしいし(それを知らずに相談する飼い主ってのがね…)それに蛇は獲物のサイズを事前に測ったりしない。
ではなぜ定期的に回ってくるのか。
まずショッキングですよね。蛇ってそんなこと考えるの? 飼い主を食べようとするなんて!
でも「いかにもありそう」なんでしょう。見た目もあって「得体が知れない」と。
そして教訓的です。動物と人間じゃこんなに違う。動物とはそういうもの。気をつけて!
だからこの話は聞けば誰かに言いたくなる。伝播する。
でもデマだとしたら、蛇にとっちゃ迷惑です。濡れ衣です。ひどいよ人間。
逆にいいイメージが広まってるケースもある。猫は死期を悟ると姿を消す、という話。
それは「野生動物の誇りが残ってるから」と言われたり、「飼い主に死を見せないため。悲しませないため」と言われたり。
じゃあ実際はどうなのか。
猫は「死」がわからないとも言われます。しかしその前の体調不良、具合が悪いのは勿論わかるし、しんどいからとにかく安らげる場所を探す。それが外ならいなくなるように見える、という説。生まれてずっと部屋飼いの猫は安らげる場所も当然自宅で、失踪などしないと。
自分としてはこれ「猫に聞いてみないとな」なんですが、あれこれ語られるのはわかる気がします。
いなくなるのは不思議ですから「こうなんだろう」と推測する。理由が欲しい。愛猫がいなくなるのはショックでしょうから、美しく考えたい。家出、失踪という悲しい現実を「あの子のやさしさ。飼い主の私のために姿を消したんだ」という物語にしたい。
科学で否定された話もあります。ウミガメの涙。
浜に上がって産卵する時のあれですね。痛みに耐えて泣いている。
しかしあれは涙でないらしく、体内の塩分濃度を調整する器官が目の横にあるんだそうです。塩水が常に排出されている、という話。上陸の際は眼球の乾きを防ぐ役割もあるそうです。でもそれが泣いてるように見える。
人はどうしてもわかりやすい話にしがちです。自分に引き寄せて考える。こじつけちゃう。
あれは産みの苦しみの涙。
出産の痛みは実際経験したり目にしてるから納得する。動物も同じなんだな。
多くの人がそう思うなかで「それ本当?」と疑いをとめない人が科学者になったりしますが、彼らに事実を解明されても「いやいや、美談の方がいい」と選ぶ人もいる。「そっちの方が感動的」「冷たい事実なんていらないの」心地いい方を取る。事実から目をそらす。
それでも最初に「たぶんこうじゃね?」と推測するのは、好奇心、不思議なことをわかりたいからでしょうけど、それは「理由があるはず」「ないわけない」という気持ちがあるんでしょう。
不思議な事象には何か理由があるはず。
「野生動物の誇りが残ってんじゃね?」
しかしそう簡単にわかることばかりじゃありません。すると、
「意味はきっとあるはず」
自分にとっての意味、それを探す。見いだそうとする。自分中心に考える。
「私のために姿を消したんだ」
それは自意識と言い換えてもいいかもしれません。
不可解、理不尽な出来事にも何か意味があるはず、と考える。この世に生まれたわけは? これほどの苦難が続くのはなんで? ほかの人と比べて不公平だ。でも不公平には理由があるんだろう。乗り越えられない試練を天は与えない。私には成すべきことがある。
自意識は時に、強引な意味付けをします。物語にする。
しかしそれが嘘でも間違いでも、信じることで救われるなら、人には必要なんでしょう。お金でも時間でも二代目猫でも癒せない悲しみを、物語なら癒せるかもしれない。
「私のために姿を消したんだ」
支えになるかもしれない。
お金や時間、他のものと同様に、唯一無二の役割がある、代えの利かないものなんだろう、と思います。