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言葉を使う

風間俊介。ふかわりょう。

まず書きますがこのふたりは好きな芸能人です。テレビで見かけるとつい見ちゃう。言葉が達者で賢さを感じます。他の人じゃ言わないようなことを言いそうで期待する。

で、このふたりに共通すると思う点は、いじられがちなところ。

なぜかな、と考えた時に思い当たるのは、話に飛躍があるなと。

例えば「実はこれ、こうなんです」と結論から入ります。急です。聞く方は身構える。「なぜならこうこう」と説明が続きます。熟慮があっての結論、解説なので淀みありません。理路整然として疑問を挟む余地はない。思考を辿るのはスリリングです。うなずけるし感心もする。でもそれは「聞くしかない」という状況を生む。一方的に教えられマウントを取られたような気分になる。どこかで「コイツ」という気持ちが湧く。隙あらばいじりたくなる。

いじられるのも愛されてる証拠でしょう。マジで嫌われてたら絡まれない。避けられる(いじめっ子の言い分みたい)

あるあるネタ、一言ネタなどは飛躍あってこそでしょうし(聞いた瞬間イメージしてうなずけるから笑える)飛躍も鍛えられた力でしょう。

でもネタでなく会話。同じ結論に至るにも飛躍せず順を追ってゆっくり、時には相手と一緒に迷いながら、足並みそろえてゴールすれば相手の気分を害さない。

でもみんなと一緒にゴールするのはなんとも嘘くさく気持ち悪いですね(運動会のアレを思い出す)実際相手に合わせて一緒に迷ったりは演技でしょう。さんざん迷って熟慮済みだし。あえて歩調を合わせるのは相手を子供扱い、あなどってるとも言える。専門知識があるなら「実はこれ、こうなんです」と結論から入って自然。嘘はない。

で、何が書きたいかというと、話を飛躍させたり突然カマシたりはフィクションだとザラなのにな、ということです。

例えば映画。ライフルスコープ越しの映像から始まったりします。ある人物を狙ってる。「どういうこと?」そして銃口が火を噴く。倒れる人物。衝撃。「なんなの?」その事情は追い追い明かされる。

目を離せなくするためのありがちなスタートですが、わりとすんなり受け入れられます。なぜか。

「フィクションだから」というのはあるでしょう。いくら唐突でもとりあえず続きを待ってもらえる。作り物なので大目に見られる。それをリアルでやられると「ナニナニ? めんどいこと言うの?」と警戒される。「話す順番おかしくない?」

あとは「映像だから」という理由もありそうです。映画などは視覚と聴覚に訴え、「なになに?」「どういうこと?」「それからそれから?」と感情を起こす。感覚から感情に直結です。冷静さを挟まない。

しかし言葉は「理解する」という手間がかかる。頭を使う。一度知性を通過する。それがブレーキになる。

手間なのでストレスにもなります。ダラダラした文章、言いたいことがつかめない長話にウンザリするのはそれででしょう。

そして言葉はハッキリさせます。意図をもって発するものだから、迫力がある。

それが強すぎる、ということもありますね。言葉にしたら野暮、とか。

例えば事情があって会えなかった親子の再会シーン。親は万感込み上げ、その感情をこまごま説明したらどうか。

「懐かしいよ」「大きくなったな」「昔の私とそっくり」「嬉しいよ」「今までよくがんばって」「苦労したよな」「何もしてやれなくて」「会いたかったけど顔向けできなかったんだ」「会ってくれて本当にありがとう」

気持ちを全部口にしたら台無し、あからさまで見るに耐えないかもしれません。

こういう場面じゃ言葉にするより、親がただうつ向き歯を食いしばり涙をこぼす、という方が胸に迫ったりします。言葉にできないさま。

そこにナレーションやモノローグを重ねる方法もありますが、セリフにするのと同様、逆効果かもしれません。内面などは説明せず、外面の描写に徹した方がより伝わる。見る方は想像する。

想像は前向きな没入です。その度合いはそのまま感情移入の度合いになり、なので映画ではあえて言葉にせず、表情だけをたっぷり見せたりします。

さらには表情さえ見せない場合もある。後姿とか、逆光で隠したり。見せないことで想像を掻き立てる。キャラクターの気持ちを察してもらう。

でもこれ、テクニックです。没入にいざなうテクニック。

なので自分はやたら間を取られたり表情を隠されたりすると、感情移入を強要されてる気分になる。「あー、今このキャラの気持ちを想像して欲しいのね」

ひねくれてますねぇ。すれっからしです。

じゃあ技巧を凝らさずストレートなら抵抗ないか、わかりやすければ酔えるかと言うとそうでもなく、説明ゼリフにはウンザリするし、感情豊かな演技には時に引いちゃう。逆に巻き込まれることもありますが、場合による。

そんな人は自分以外もいるでしょう。受けとめ方は人それぞれ。

じゃあ表現する側はどうすればいいか。

少数派は切り捨ててターゲットを絞るか。それとも自分好みを貫くか。

一番反発する層をメインにするのも1つの手でしょう。不倫ものを描く時は「不倫なんてとんでもない!」という保守層さえ納得させられればそれ以外もカバーできる。

ただそれをめざすとなると、リアリティーを保ち、先を急がず、淡々と描くしかなかったりします。感情移入を強いない。

先ほど書いた「後姿で表情を見せない」などはこの要素もあるかもしれません。見せないことで想像を促す効果と、逆に安易な感情移入をさせない効果。拒否する効果。

物語は元々他者の時間です。登場人物の生活、青春、事件、それら人生の一部を切り取るもので、客観視するしかない。自分を重ねるのは安易だし、重ねてもらおうなどは無理な要求。起こった出来事をただ紡ぐだけでいい。それをどう受けとめるかは見る側まかせ。

自分が物語を書く時はこれに近いスタンスです。

しかしそれが至高とか上品とか言うんじゃなく、「感情移入の強要を避けたい」という狙い、意図、「なるべく多くの層をカバーしたい」という企み、演出には違いありません。

そして狙い、演出、テクニックが悪と言うんでもない。いかにうまく伝えるか、なるべく誤解がないように、と考えた結果で、必要あって生まれたもの。

そしてフィクションはそれを結集したもの、と思ってます。テクニックの寄せ集め、作為のかたまり、コントロールの限りを尽くしたもので、すべてに意味、意図がある。

無意味なものを混ぜれば濃度が下がるし、下げるために無意味を混ぜたら、それは薄くする必要を感じてのやはり判断。本当に不要なら削ります。削らず残したからには意味がある。

なのにたまに聞くのは、「感覚的に出た」「どうしても残したかった」などの無意識理由、神がかったような説明。

でもそれらも蓄積(これまでの経験や熟慮)を経て出てきたものでしょう。言葉にしようとすればできる気がします。技術論で語らないのは言葉にするのが難しいか、面倒で投げたか、神秘的にして酔ってるか。

そして拒絶を感じます。「マニュアル的」という言い方は悪く使われがちですが、言葉にできないこと(マニュアル化できないこと)は他者と共有できません。実際は言葉にしてもなかなか伝わらないのに、それさえしないのは共有する気がないと言える。

それも場合によってはいいでしょう。共有する必要がない方面、個性が勝負のアート系などは「コツ」「感覚」「なんとなく」で済ませてもいい。説明したら台無し、種明かしをしたくない、というのはわからなくありません。

しかし自分と向き合い自身の選択や判断を掘り下げ、言葉にしよう、自分の中では確かなものにしよう、とする人はいます。これはフィクションに限らない話です。

そしてその自己探求は他人を観察したり本を読んだり誰かと関わるより大切かもしれません。他者から学ぶことはたくさんありますが、何よりのサンプルは自分ですから。それを通してしか何も得られないとも言える。自分を鍛えてない人がいくらいいものに出会ってもキャッチできない、何も響かない、というケースはよく見ます。

思えば最初に書いたふたりはそこらの鍛錬を積んできたんだろうな、と。自分を直視し自問を続けたからこそ独自の世界、こだわりを持っていて、ついつい気になるのはそれでかもしれません。

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