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実写はつらそう

宇宙空間での映画撮影がいよいよ始まるというニュースを数年前に見ました。その後どうなったか続報を聞かないんですが、そういう映画、撮影方法が一般的になると見方は少し変わる気がします。

例えばこれまでのSF映画、宇宙空間での無重力シーンなどは全部特撮ですね。ワイヤーで吊ってるかCGか、両方の合わせ技か。

なのでいくら自然に見えても「どうやって撮ったんだろう」と否応なく思う。「すげー技術だな」

これがアニメなら違うでしょう。そもそも絵です。自由に描ける。「うまく描くなぁ」とは思っても実写ほど引っかからないんじゃないでしょうか。実写は実在の役者さんやセットを使うのでその手間を想像しちゃう。

SF小説だとそんな手間は当然ありませんね。文字で描写したあとは読者任せ。映像を浮かべるのは読者の脳内でそれぞれで、だから無限の広がりを生むし、でも作者の思い通りにはならない。

映像はそこを固定できます。視覚に訴えるから強い。実写はさらに迫力を持つ。

でもCGの発達でどんな映像も可能になると、例えば大爆発にしろアクションシーンにしろ「これはCGじゃありません」と断わるようになりました。大量の火薬を使った本物です。実際に体を張ってんです。

しかしそれはそれで裏の話。断わりを入れないと「CGと思われちゃう」「ストーリーに対して冷めるんじゃ」というのはなかなか複雑で倒錯してます。CGがない時代は火薬に決まってたし、体を張ったスタント以外になかったのでそんな言い訳は不要でした。変に引っかからなかった。

ドローン撮影も盛んですね。例えば急斜面を滑走するスキーヤー。それを間近に捉えて何度も回り込む映像。

今まではそんなの無理でした。「ヘリじゃこんなスレスレに飛べない。風圧でスキーヤーが危ない。少し距離を保ってもヘリの影が入る。ドローンでしかできない」

そんな風にバレちゃう。技術の向上が見る側の集中を邪魔する。

最初に書いた宇宙空間での撮影も、映画が公開されればそれを売りにするでしょう。「あのシーンは本当の宇宙遊泳」「危険な撮影ですごく気をつかった」

でもそれはストーリーと無関係。「本物なんだぁ」「よく撮影できたねぇ」と余計なことを思わせる。

さらには「今までの特撮と変わらないねぇ」「うまく作ってたんだなぁ」とこれまでの作品を思ったり。

これからの作品についてもそう。同じような宇宙空間での撮影が増えても予算の都合で宇宙まで行けず特撮で済ます映画もあるでしょうから、「これはどっち? リアル? 特撮?」なんて思われる。やっぱり気が散る。

まぁ技術の進歩と関係なく昔から思われたことかもしれません。例えば屋内のシーン。

「アレ、こっち側から撮ってるけどここに壁なかったっけ?」というアングルがあります。カメラを設置できるようなスペースはなかったはず。

それは壁を取り払って抜けたところから撮り、逆にそっち側を撮る時は壁を持ってきて塞いで撮るわけですが、「さっきのアングルはどういうテイ? 壁に覗き穴?」

アングル違いで最低2回は撮ってるはずとわかると、今度は繋がりが気になったり。カットが切り替わるごとに人物の動きや姿勢がズレてない? 合ってる?

そこまで行くともう見る側の問題でしょうが、とにかく実写だとそういう疑問が生まれます。アニメじゃ起きない。

まぁそんな疑問を持つのはある年齢以上でしょう。子供はそんなこと気にしないですよね。

でも実写をたくさん見たり撮影方法の知識をどっかで聞いたりすると、気になってくる。無視できなくなる。

それは仕方ないんだと思います。経験を積めば感じ方が変わるのは映画やドラマに限ったことじゃないし、純粋に楽しめなくなるのは寂しいものですが(純粋というのは無知とも言えるんで)変わってしまったことを味わうしかないんでしょう。後戻りはできない。

で、話を戻すと「実写はいろいろ不利じゃない?」と。

例えばアクションシーンやサスペンスシーンであえての手ブレ映像があります。

臨場感を醸すためでしょうが、固定して撮ることは可能だし、むしろそっちがベーシックでしょう。

それをあえて手持ちで撮る。映像を揺らす。主人公の視点のつもりならその感情を込める。見る人の不安を煽る狙いなら、最初ピントを外してそこから合わせるような技を使う。

大変なテクニックでしょうし才能も必要でしょうが、昨今やたらと使われ、見慣れるとどうしても「狙ってるねぇ」と思う。「揺らしてるねぇ」と(←イジワル)

ここでまたアニメですが、アニメでもし同じ見せ方をしたらどうでしょう。

たぶん実写ほどには思われない気がします。そもそも絵だから。人の手で一からすべて描かれたもので、その技術も手間も大変なものでしょうが「本物じゃない」それを見ているあいだ常に意識させられる。人工物。だから狙いにも抵抗は薄く、没入できる。実写にまさる。

なので実写はその名の通り「実物で作ってる」「実物を取り扱ってる」というのがネックな気がします。

例えば日曜日の渋谷。混雑の中での追跡劇。

「よく撮れたね」と思ってしまう。「この大勢はみんなエキストラ? それともゲリラ撮影?」

実際の渋谷じゃなくセットだとしたら、「よく再現したねぇ」「金かけたねぇ」とそれはそれで思われる。

じゃあ実写の利点、他よりまさる点はなんでしょう。

身近にあまりいない美男美女が揃って共演、というのは魅力でしょうね。

CGで端整なキャラクターを作ってもCGです。表情の表現が見事でも「リアル!」と技術を褒めることになる。人が作ったものだから。

俳優さんたちの美貌もまたメイクや照明などで作られたものでしょうが、そもそも元が並じゃない。保つケアは当然していても美貌は天から与えられたもの。

それさえ両親のおかげで「人が作ったもの」と言えなくはないけど、同じ両親からだっていろんな子が生まれる。偶然性、唯一無二感ある。

そして好きな俳優さんがいれば、その人がいろんな役を演じる。いくつもの顔を見せる。これも実写の魅力でしょう。

でも役者個人の魅力が集結するのが「実写の良さ」とするのは、諸刃の剣な気がします。

例えばバラエティー番組で面白トークを繰り出す役者さん。

そのインパクトが強いと出演した映画やドラマを見ても役では見れない。その人で見ちゃう。魅力がかえって邪魔をする。

役者もセットも本来は作品の一部でパーツでしかないのに、悪目立ち、個性に依存するとそんな支障が出ます。

出演者が事件を起こして作品がお蔵入り、なんてこともありますね。

「俳優は役を演じただけでその私生活は作品に関係ない」「作品に罪はない」のはそうだと思います。

でも一方でお蔵にする気持ちもわからなくありません。

世に出たら作品は「作者のものじゃなくなる」のはそうなんですが、例えば薬物で逮捕された俳優が出ていれば、見る方は「この撮影時にも裏でヤクやってたんだよな」とよぎる。チラつく。どんないい演技をしてもです。してればしてるほどかもしれない。物語そのものの邪魔になる。

「そんな風に見られるくらいならいっそお蔵に」というのは理解できます。作品を大事にするがゆえ。見た人の記憶で反芻してほしい。あえての再放送や配信はしたくない。

家族が事件を起こして活動を自粛した方がいい空気の中、でも公演のために動いてくれたたくさんのスタッフ、そして待ってるファンを思うと「休めない」と決断する。

でもその公演を実際に見た時は1つ乗っかるでしょう。「つらい時に耐えて演じてる」

ファンならより思うかもしれません。

でもそれはやはり「作品を純粋に見てもらえない」ということです。「休めない」という決断は作品のためじゃなく、それ以外の都合。そんな風に作品を変質させて届けるのはプロ?

まぁ役者さんも人間だし仕事はその人の一部で一面でしかなく、いろいろあるのは当然でファンが納得し歓迎しその関係内では成立してるなら外野がとやかく言うことじゃないかもしれません。仕事に関係ないプライベートは雑誌などが暴いたものでしょうし、それで活動が制限されるのはあんまりで寛大さも大事かもしれない。

そういう支障を除くのにプライベートを極力見せない役者さんはいますね。リアルな自分を見せたら俳優業の邪魔になると。

田村正和さんなどはそうだった印象です。

また無名な俳優ばかりをあえて使う映画監督もいます。

それらは作品を思ってのスタンス、物語に余計なものを混ぜないためで、作品の純粋性や統一感を高めるためでしょう。

でも無理があるように思います。

無名な役者さんがある映画でスターになり後年スキャンダルで騒がれ、最初の名作まで色褪せる。

作品にとっては誠に不都合ですが、実在の人で作ってればそんなことはあるし、大勢が関わってれば仕方ないはずです。

プライベートに問題なくても当たり役があればイメージを引きずるし、ほかの役を演じても集中してもらえない。やはり邪魔になる。

それをも防ぐなら役者は生涯1本きり、映画なりドラマなり出たらあとは隠遁生活しないといけない、なんてことになる。

同じフィクションでも小説は全然違います。

キャラクターは作品内の存在で、読者の想像力により完成するもの。

創作も基本は個人作業で、映像作品のように大勢は関わらない。なので不都合は少ないし気楽だし、作品の統一感も当然あります。

でもそれはそれで諸刃の剣な気がします。

例えばある作家のファンになって作品を読みあさると、いずれは「あ、またこのパターンね」と感じたり。

過去に書いたものは二度と書かないと努めても限界はあって、コアは違っても細部の書きようはそれほど更新できなかったりします。

それは厭きられる要素になり得る。

自分の創作だと統一感、自分の個性などを「つまらない」とよく思うんですね。自分の手のうちで仕上げるのが狭いような。

純度を高めるのに他を排するのが傲慢とも感じます。

自分とは違うものが混じった方が厚み、魅力が増す。他者と絡むことで起きる不測の事態とかもいい。自分ひとりじゃ思いつかないこと。ワクワクします。さっきも書いた「偶然性」ですね。

「天才だねぇ」と感心する人はとても真似できない人です。努力じゃなく天然で、こちらの想定やコントロールの範囲を超えちゃった人。

なので手に負えない様々、個性が集まり「まとまりない」のが実写の味わい、特有の魅力かなぁと思ったりします。無い物ねだりかもしれませんが(実際は収集つかない状況など耐えられそうになく、自分は個人作業を望んだのかもしれないけど)

ともあれ魅力が欠点になったり逆に欠点が魅力になったりは実写に限ったことじゃなく、どう取るかは(途中でも書きましたが)大半見る方の問題なんでしょう。

「なんか実写は大変そう」「つらそう」なんて印象や同情は、実写の製作者からするとウルセーだけかもしれません。

そしてストーリーへの集中を乱す様々(演者のイメージ、撮影方法や技術の詳細など)も魅力と言えば魅力、裏側を紐解いたり考察する別の楽しみになります。物語への熱狂を冷ますのも悪いばかりじゃないでしょうし、そもそも自分が書いてるこのエッセイがそれ。なんだかんだ書いてるのは魅力があるからで、今回の内容を全部ひっくり返すようですが、いま気づきました。いや本当に。


物語についてのエッセイ・目次

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