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ドキュメンタリーと報道

10年以上前に見たテレビのドキュメンタリー番組の1カットをいまだ憶えています。それ以外の部分はほとんど忘れてしまったんですがそこだけは。

外国人家族のドキュメンタリーでした。日本に出稼ぎに来ていた父が祖国の家族を呼び寄せ一緒に暮らしはじめます。しかし家族は日本の生活に馴染めず帰国を決める。その見送りで成田空港に行く場面、電車の中で家族は黙り込み、ある者は椅子に座りある者はドア横で窓外を見つめ、その時に「車窓風景」が映ります。冬枯れの田園が流れる1カット。

「これ演出じゃん」と思いました。思ったのと一緒にその映像を憶えています。

いろいろ込めたくなるのはわかるんですね。やっとの思いで一緒に暮らせるようになった家族。なのに異国での暮らしは不幸の始まり。それぞれが我慢し揉めることも多く、離れたままの方がよかったかもしれない。いつ出稼ぎを終えられるか。終えてもまた一緒に暮らせるようになっても、一度自分たちで離れることにした家族はたぶんこれまでと違う。これからどうなるんだろう。過ぎ去りし日々はいろいろあった。諍いだけでなく楽しいことも嬉しいこともあったのに、なぜこうなってしまったんだろう。

そんな総括を視聴者に働きかけたいのはわかるんですが、独立した1カットを入れるのはどうなの? と引っかかりました。ドラマならアリでもドキュメンタリーでは? こんな演出を入れちゃ創作じゃん。

でも思えばドキュメンタリーも創作ですね。

例えば1年間取材し、撮影したたくさんの素材の中から「これぞ」というものを選んで2時間なりの番組にする。それじゃほとんどをはしょって要点を繋ぐしかありません。できれば入れたいエピソードも泣く泣くカットした、なんてことは多いでしょう。それを入れれば流れを悪くする。話がブレる。視聴者の集中力が落ちる。しかしカットした部分にこそ家族たちの個性が出ていたり。そこをはしょったら当人たちは「いや違う」とつい弁解したくなる、なんてこともあるはずです。

それでも意図を持って編集する。先のような1カットを入れずにただ繋ぐだけでも、どれを選びどれを捨てたかに製作者の意図は出る。

記録する段階でも思いは入るでしょう。

独立した1カットでなくその人物越しに窓外の風景を捉え、長めに映せば同様の効果を得られたかもしれない。窓外をまぶしく撮り、電車内と人物を影にすればより強調されたかもしれない。そこまで意図して記録することも可能は可能です。ドキュメンタリーだからそれはいけない、ただ捉えるだけ、ありのままを撮らないと、というスタンスでも、「ブレたら見にくい」「コントラストが強いと表情が見えない」と撮影環境に合わせて微調整はするでしょう。それが主張のない気遣いでも、ありのままを撮ってるわけじゃない。どの向きからどう撮ってもいいのに「これ」と決めたのはカメラマンの個性です。誰が撮っても同じになるわけじゃありませんから。そういう個性は抑制しても入る。

そしてなんらか混じるのは撮られる側も同じです。

家族同士で揉めた時に、そこにカメラマンがいれば当事者たちはセーブするでしょう。いくら「気にしないで」「いないものと思って」と言われても難しい。そのうち慣れたとしても、慣れるまでの言い聞かせや訓練はその人を変えてしまう。本来じゃなくなってる。カメラマンでなく定点カメラなら存在を忘れるかもしれませんが、設置したカメラが目につけば都度よぎるでしょう。意識に昇らなくてもゼロではない。「常に撮られてる」というのが頭のどこかにあれば振る舞いは変わります。演技してる、とまでは言わなくても自然ではない。

それにすべてを記録してるわけじゃありません。

喧嘩のあとトイレにこもり頭を冷やした。落ち込んだけど町を一周して気晴らしした。一晩ぐっすり寝て持ち直した。近所の野良猫を見て癒された。

そんな時間もたくさんあるものですが、すべては記録できないしされても採用されない。現実を取り扱っても現実ではない。加工されてる。

似たようなことは報道にも感じます。例えば街頭インタビュー。

「ちょっとお話を」と呼び止められてそれがテレビの取材とわかれば一般人は身構えるでしょう。慣れてない。一気に緊張する。「放送されるかも」と思えば恥ずかしくないような答えを考え、あまりズケズケ言っては近所や職場でなに言われるか、と普段より上品にしたり。撮られる段階から本来じゃなくなってる。

そんな風にインタビューされても放送されるかはわかりません。

取材する側は「賛否両論ありました」という使い方をしたい場合、欲しい答えが出るまでインタビューを繰り返すでしょう。意図ありきだとそうなる。類似の回答はほとんどお蔵入り。意図ありきでなく取材結果をニュースにする姿勢でも、いっぱい集めた中でいいものを選ぶはずです。採用理由はそのコメントが代表的だったり簡潔だったりインパクトだったり基準はいろいろでしょうが、とにかく選ぶ。それだって放送時間の尺に合わないと編集したり。コメントに字幕を付ける場合もありますが、ここでも加工されます。ら抜き言葉を訂正するのはまだいいとしても、発言内容を強調することも。「私なんかはこうかなって気がしますよねぇ」とあくまで個人的な意見、押しつける気はまったくない、というニュアンスで言ったのに、「私はこう思いますね」なんて字幕を付ける。真逆の自己主張バリバリにしちゃう。

読みやすい字数とかの都合があるにしろそんな風に変換する雑さに気づいてないのか。それとも自分たちの採用理由を優先し、誤解が生じようとガン無視か。ともあれ報道にしろ記録にしろあいだに何かが挟まればその伝達内容は変質します。意図があろうとなかろうとなんらか加工される。

だからと言って報道やドキュメンタリーを貶めてるのではありません。事実を取り扱うそれらが厳しく見られるのは仕方ありませんが、例えば同じ事件現場を目にしても記者によって受け取り方は違うでしょう。書く記事も違ってくる。それは一般人にも言えることで、同じ事実を直に目にしてもみんなが同じようには受け取らない。

やさしいと評判の人がある人には気弱にしか見えなかったり。笑顔が素敵と呼ばれる人もある人にとっては気持ち悪かったり。十分反省してる犯人が被害者にはそう見えなかったり。

個人的な経緯や価値観は客観視を損なうと脇に置いても、見る目のあるなし、の差はあるでしょう。その眼力を鍛えるのは大事でも、一点の曇りも歪みもなく受け取るのは無理だと思います。目に入ったものを理解しようとした時点でそれらは生じる。

そうしてキャッチしたものを「事実」として積み上げ、判断材料にする。

誰もがそうなら記者によって記事が違ったりは当然。

「いやいや、プロなんだからなんとかせぇよ」「誠実に努めれば曇りや歪みは解消できるだろ」

でもそれは幻想だと思います。努めれば同じ答えに行き着く、正しい答えが必ずある、というのはそういう教育を受けてきた弊害かもしれない。必ずあるかはモノによります。常に正確を心がけるのは大事でも、それよりもっと大事なのは自覚と怯えじゃないでしょうか。自分を通しておそらく歪めてる。ゆめゆめ「正確に伝えてる」「表現してる」なんて思わないこと。

そして受け手は「そんなものだろう」と思うことじゃないかと。テレビや新聞が言ってるから間違いない、正しいはず、なんて鵜呑みにするのはちょっと幼い。自分としては報道も物語だと思ってます。しょせんは断片の伝聞ですから。物語の度合いが高いか低いか、それがそのままバロメーターになってます。

どのくらい演出されてるか、加工されてるか、その量ですね。字幕、ナレーション、映像の撮り方、編集、アナウンサーやレポーターの振る舞い、見慣れると端々に見えてきます。個人的にそれは面白い見方だし、鵜呑みにするよりマシかなぁ、と思います。

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