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「人生を楽しむ秘訣」を橋本治センセに教えてもらっちゃった

つい先日のことです。

私の愛する猫が、(私の愛する)妻にすり寄っていってるな~と思って見ていたら、妻が「なに、ごはんが欲しいの? 今忙しいからジジーにもらって」と言っていました(私=森と申します)。

なんだと、ジジーだと!?

もう64歳ですから、まあ年齢的にはジジーなんですけど、いつの間に年を取っちゃったんだろ。つまんない。あ~あ、これからもどんどん年を取って、どんどんつまんなくなっていくのかなぁ。

・・・でもねぇ。

もがいているんですよ、年を取っても。どうしたらもっと面白く生きられるのかって!

その点は、若い人と全然変わりません。

・・・

ジャーナリストの立花隆さんは、年を取ることについて、こう言っています。

立花隆(75)『人生の贈りもの』
いま、年をとるのは面白いなあと感じます。「40、50は洟(はな)垂れ小僧」という有名な俗諺(ぞくげん)を実感しますね。50代で見えなかったことが60代で見え、70代で発見もあります。40、50のとき偉そうな顔をして、いっぱしのことを口走ったが、いまはチャンチャラおかしいという感じです。年をとることは、世の中がよく見え、ものすごくいいことです。

ー2016年4月4日の朝日新聞

本当にそうなのかなあ?

私の場合、50代で見えていたことが60代で見えなくなっていますけど、70代で何か発見できるのでしょうか。

発見できるとしたら、どこかに置き忘れていた財布が見つかることくらい?

なんだかしょぼくないですか。

う~ん。できる人は、私とは根本から考え方、生き方が違うんじゃないのだろうかとも思っちゃいます。

若竹千佐子さんは、55歳から小説講座に通い始め、8年をかけて『おらおらでひとりいぐも』を書きあげ、なんとデビュー作で芥川賞を受賞しました。

きっと、若竹さんは若い頃からめちゃめちゃ元気で、めちゃめちゃ優秀だったんだろうと思います。

この本の感想もいつか書いてみたいと思っているのですが、今回注目したのは、帯の言葉です。

「青春小説の対極、玄冬小説の誕生!」

帯

うん? 「玄冬」ってなんじゃいな。恥ずかしながら初めて聞いた言葉です。

でも、なんだか大切なキーワードのような気がしたので、ちょっくら調べてみました。

Wikipedia「青春」の要約
古代中国における陰陽五行思想では、「春」には「青」が当てられる。同様に、「夏」を「朱(赤)」、「秋」を「白」、「冬」を「玄(黒)」に当て、それぞれ「青春(せいしゅん)」、「朱夏(しゅか)」、「白秋(はくしゅう)」、「玄冬(げんとう)」という。これらは季節を表す言葉である。
また、陰陽五行思想において、「春」は15歳から29歳を表す。これらの意味が転じて、日本では特に「青春」について人生における若々しく元気で力に溢れた時代を指すようになった。

このようにして、青春だけでなく「朱夏、白秋、玄冬」という言葉が、人生のある時期を表すようになっていったんですね。

(それぞれの表す年代は、こんな感じです)

「青春」は15〜20代後半。
「朱夏」は30代前半〜50代前半。
「白秋」は50代後半~60代後半。
「玄冬」は60代後半以降。

玄冬かあ! これはちょっといいことを聞いてしまったのかも。

・・・

言葉は、とても大切です。

たとえば、後期高齢者医療制度、終活、エンディングノートなんていう言葉には、もうじき終わりだよっていう感じのちょっとネガティブなイメージが漂っているじゃないですか。

ナチスの宣伝大臣だったゲッベルスの「嘘も百回言えば真実となる」というセリフじゃないですけど、ネガティブな言葉もずっと聞かされていたら、どんどんネガティブになっていっちゃうような気がするんですね。

どうなんでしょ。

私には、玄冬医療制度玄活(玄冬活動)、玄冬ノートと言った方が、俄然やる気が出るような気がするんですけど。

もっと優しくてポジティブな言葉を使ってほしいかなっ、なんてね。

・・・

さらに「玄冬」のことを調べていたら、斎藤美奈子さんのこの書評を見つけました。

(前略)
そしたらあなた、橋本治センセの新作がまた『九十八歳になった私』で。橋本センセっていやあ『桃尻娘』でしょ。女子高生に擬態してたんじゃないんですか? それがいまじゃ98歳。あたしゃ確信しましたよ。これからは青春小説じゃなく玄冬小説の時代なんだって。
近未来SF私小説とでもいうか、『九十八歳になった私』の語り手は98歳になった元作家の「私」で、舞台は2046年。〈他人に向けてひとりごとを言うのが俺の仕事だから、それがなくなったら惚(ぼ)けちゃう〉という理由で備忘録を書いてるが、これがまー、ほどけまくりで、なかなか話が進まない。
(中略)
あたしゃ思いましたね。人生いくつになっても挑戦だとか、そんな話じゃないんですよ。挑戦しようがしまいが勝手なの。玄冬小説はとっても自由。だから笑いと相性がいいんです。

そうそう!

「挑戦しようがしまいが勝手なの」

自分の若い頃なんて、えらそうに挑戦しているつもりでいたけど、いま考えてみると、チャンチャラおかしかったりするし。

人生を豊かに過ごすには、挑戦するとかしないとかは、あんまり関係ないんだよなぁ、たぶん。

玄冬小説が自由で笑いと相性がいいように、人生も自由で笑いと相性がよかったら、最高に豊かになると思うんです。

人生は、やっぱり楽しんだもの勝ちなのさ。

そんなわけで、橋本治センセの『九十八歳になった私』、読んでみました~。

2046年に震災で被災し、仮設住宅に入った元作家の「私」。

科学者が復活させてしまったプテラノドンが出てきたりとSF的な一面もあるのですが、ベースは「私」のボヤキで構成されています。

足腰が弱くなっているので、しょっちゅう転んだり、途中でなんの話をしていたのか忘れてしまったりで、「これがまー、ほどけまくり」なんですが、時折、人生の真実のようなものが見えてくる不思議な世界なんです。

橋本治『九十八歳になった私』
内田樹さんの解説
こんな作品は橋本治以外の誰にも書けないからである。「脱力」を推進力にしてグルーヴ感のある文章を駆動させるなんていう曲芸は橋本さんにしかできない。
ほんとうに偉大な作家を失ってしまった。


今日は、私の好きな部分を引用しつつ、どうしたらもっと面白く生きられるのかを考えてみちゃったりして〜。


やっぱりユーモアは忘れちゃいけないんだな

橋本治『九十八歳になった私』 
そのポットはね、監視カメラ付きなんだ。六時間、中の水の量が変わんないままだと、ぶっ倒れたかってんで、センターにつながってる監視カメラが作動すんだ。ジェームズ・ボンドみたいだろ。もう007は新作やらないのかね?
だから俺は、時々飲みたくないのに、ポットのお湯をちょっと飲むんだ。「まだ死んでませんよ」っていう業務連絡でな。でも、夏なんかお湯飲まないから、かなり死んでるんだ。ポットが「大丈夫ですか?」って言うから、「 大丈夫ですよ」って答えるんだ。

ポットに見守りされてるのって、当事者にしてみたらですけど、なんだかちょっと微妙な気持ちになっちゃうんじゃないのかな、と思うんです。

そこを、「そのポットはね、監視カメラ付きなんだ」と前振りしておいて「ジェームズ・ボンドみたいだろ」って自虐ネタでかわしてる。

かっこいいなあ。

こんなジョークが言えるのって、達人ワザですよね。

ソフトバンクの孫正義さんの「髪の毛が後退しているのではない。 私が前進しているのである」というツイートもイケてましたしね。

哲学者の土屋賢二さんは、それはもうくだけまくりのエッセイをたくさん書いている方なんですが、その著書の中でユーモアの大切さを珍しく真面目に語っていました。

土屋賢二『年はとるな』
イギリスにいたとき「ユーモアのセンスがないと人ではない」と言わんばかりにユーモアが重視されていることに驚いたが、その理由がまた意外だった。多くのイギリス人は「ユーモアがないと人生の危機を乗り越えることができないから」と答えたのだ。ユーモアがないと苦難に押しつぶされてしまうというのだ。

わたしも苦しいときに笑う。教師時代、年度末になるとあらゆることに自信を失う鬱状態になっていたが、あるとき「自信がないことにかけては自信がある」と考えて思わず笑い、乗り越えられたことがある。

「ユーモアがないと人生の危機を乗り越えることができないから」

うんうん、本当にそのとおり!

「苦しいときに笑う」っていうのは、ちょっとトレーニングがいるかもしれないけど、老いも若きも、絶対に持っていた方がいい能力だと思います。


もうちょっと、ありのままの自分でいいんじゃない?

仕事でも家庭でも近所でも、人との付き合いは、やはり避けられません。

そんでもって、敵は作りたくないし、孤立したくないし、ちょっとしたことでさえも我慢しちゃうんです。

橋本治『九十八歳になった私』
業だね。いつまでもいい人面をしてたいんだ。ホントは性格悪いのに。
きっと、「いつまでもいい人のように思われてよう」というのがいけないんだな。年取ったら、いい人もへったくれもなくって、自分が一番で、自分しかねェんだもんな。ありのまま丸出しで。

ほんと!

私も性格悪いけど、いい人のふりをしてますし。

犯罪レベルまでいってしまったり人を傷つけてしまったりは、もちろんいけないんだけど、不満があったら、もうちょっと話し合ってみてもいいんじゃないのかな。

みんな、我慢しすぎだと思うんです。

それにね。

橋本治『九十八歳になった私』
そうやって、自分をほめないと生きて行けないな。それで年寄りは、どんどん自省心を失って図々しくなって行くんだな。

ちょっとくらいなら図々しくて何がいけないのかと、年寄りは思っちゃうわけですよ。

ぼけてきたのかな?

(昔のMacに、iPad miniを入れてみた)

カラクラ


「あとがき」みたいなやつ

なんとなく客観性のある気の利いたことを書いて締めくくるのが「あとがき」だと思いますが、それも、『九十八歳になった私』の中にヒントがありました。

橋本治『九十八歳になった私』
私はなにか不気味な生物がそこから侵入して来るような気がして、窓の点検をするために「よいこらしょ」と立った。
(うーん、ここの「私」は、「老人」の方がよくないか?)

老人はなにか不気味な生物が侵入して来ないかと思って、「よっこらしょ」と立った。
(これはいい)
「老人はーー」と書くと、他人事のような客観性が生まれて、自分のことではないような気がする。

応用してみちゃいます。

・・・

老人はなにか「人生を楽しむ秘訣」を見つけたと思って、猫を「よしよし」と撫でながら一心不乱にnoteを書いた。

しかし、年のせいか、そんなに大したことは書けていないのであった。

(これはいい)

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