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末期の肺がん・母の場合

前回の続きです。母が末期がんになってから亡くなるまでの話です。母の病状と私の内情。

がん細胞の進行は徐々に進んでいき最終段階で脳へ転移します。肺がんは場所的に脳に近いこともあり転移しやすいそうです。

現代医学はとても進歩しているので、もし時代が違っていたらまた状況は違っていたかもしれません。なので、これはあくまでも何十年も昔の私の母の場合です。




整形外科へ検査入院したころは母はまだ元気だった。足の痛みは痛み止めが効いてるのか常に痛がることはなかったがベッド以外は車イスで移動していた。

母には「肺に悪いものができるてるから検査と治療のための入院」と説明されていたが、これって今思えば怪しむし不安というか嫌な予感するよね?

でもこれが本当に不思議なことに大元である肺はなんともなかった。
咳も出ないし苦しくもない。足以外は何ともない。
これによりまだ本人は癌だとは気づかなったのである。

整形外科での入院生活は母にとって賑やかなものだった笑。なんせ彼女は気さくでサバサバしていて周りの人とすぐ友達になってしまうような人だったから同じ病棟の入院患者さんの友達がたくさんできていた。

病棟の喫煙所プラス休憩所のような場所で毎日お茶会をしていた笑
なんせ整形外科なので他の患者さんは足や腕以外は元気な人が多く暇を持て余していた。

みんな車いすや松葉杖で休憩所に来ては、お茶とお菓子を持ち寄って座談会をし食事の時間になると各自病室へ帰っていく笑
本当はお酒にしたいところだが病院なので皆さん我慢してた笑

ちなみこの時は母はまだ煙草を吸っていました。(医師から命の期限まで本人の好きにさせて良いと許可あり)それしか楽しみがなかったし、この時代は病棟に喫煙所があるのが当たり前でした。

休憩所の長椅子の横に縦長で背の高い灰皿が設置されてました(中にちゃんと水も入ってます笑)当時は私も煙草を吸っていたので母と一緒に一服してました笑

私が着替えなどもって病院に行きエレベーターを降りるとだいたい笑い声が聞こえてきて足を進めると母といつもの皆さんが談笑していた。
この時の写真があるのだが、母はピースをして笑って映っている。和やかで賑やかな入院仲間たちの風景が映っている。

そしてこの仲間たちはただの骨折なので日が経つごとにどんどん退院していった。母を残して。
一通りの検査も済み体調も一時的に落ち着いていたそのタイミングで医師が、今のうちに家族で過ごす時間を持ってみてはどうかと提案した。

一時的に退院をして(母は本当の退院だと思ってる)どこか旅行にでもと思ったが本人の体力と体調のこともあり、ただ自宅で穏やかに過ごした。

そして体の痛みが強くなり、また入院をした。

今度は内科病棟へ入院し少しづつ煙草を吸う元気もなくなってきていた。入院生活も長くなってくると病院食に飽きてくる。なので私は仕事終わりにコンビニで総菜やご飯のお供など買ってから病院へ行き母の病室で一緒にご飯を食べていた。

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お金のこと。

母が入院をしていようとオヤジの経済状況が変わるわけもなかったのだが入院費など医療費はオヤジが全部払う!と意地を見せていた。
私はこの時知人の紹介で就職した会社で事務員をしていたが、そもそも母達への仕送り代がいるので夜は週2~3くらいでキャバクラでバイトをしていた。(昼は事務員の制服・夜は店で借りたワンピース(現代のようなドレスではない笑)

この頃、昼は会社で定時になるとすぐ退社して(事情伝え済)病院の最寄り駅まで行きコンビニで買い物してタクシーで病院へ行き母の顔を見て体調とか話を聞きながら自分も食事をしてまた駅へ戻り今度は夜のバイトへ向かい朝また会社へ出勤する・・分刻みの生活。母が心配して「毎日来なくて良いからね」と遠慮してきてからは病院をお休みする日もあった。

家族が入院しお世話をするとなると地味にお金がかかります。私の場合はとにかく母の先の命がないと分かっていたので、なるべく毎日病院へ行き母が喜ぶ好物の食べ物を買っていきテレビカードは切らさないよう多めに買って渡したりしてました。

もう死ぬことが分かってたから、今の時間は今しかない!お金のこととか後のことはいいから今にすべてを出す!会える時に会っておく!って感じでした。

子供の時から娘より男を優先して生きてきた母。放任主義というより本当に放って置かれていた少女時代。

祖母が作ってくれたお弁当を持って学校へ行っていた。母の手料理って覚えていない。
オヤジに殴られる母を可哀そうと思う反面、私のことを見てくれない母を恨んでもいた。寂しかった。

お金の無心ばかりで私は母にお金を渡すために産まれてきたのか・・・死にたくても私が死んだあとお母さんがどうなるか…いや私のお金が命綱なんだから。。と思うと死ねなかったり、でも人生のすべてが無意味で希死念慮は消えなかった。

とにかく母に囚われて生きてきた。母の惨めな姿を見せられ続け自分もみじめで虚しくて未来に希望は一切なくて。

母を殺して自分も死のうと悩んだこともあった。「母」としてではなく「女」として生きてきた母。娘の為に男(オヤジ)と別れようともしてくれなかった人

(娘を捨てなかっただけ良かったのか?いやいっそのこと施設などで人に囲まれて育った方が陽気キャラになれていたかもしれない?捨てられたら捨てられたで心の傷が残るか・・それでも暴力と借金と裏の世界を見ずに済んだかもしれないし・・なんて、タラレバはキリがないです)

この続きはまた
(まだ続くんかい!と呆れた方・・・すみません!汗)

HSPでもあるせいか?そんなんじゃなくてもかな?。病状で苦しむ姿やどんどん不安になる母を見ているとこちらも凄く苦しくて。これは他人事だ、ともう一人の自分もよく出てました。(子供の頃から辛くて耐えられないので、もう一人の自分というか自分を自分でフカンで見てました)

ここまで読んでくださって誠にありがとうございます!






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