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中村うさぎ伝説

 noteの性格上、自論を受けつけないのは分かっているが、どうしても言いたい。
 こと女性の純文学作家についてである。芥川賞選考においても女性の純文学作家について、「男にひよっていてダメだ」などとされることがあるが、いつから純文学は立派なものに成り下がったのか。それをくさしたい。
 日本の近代文学において、中心を占めるのは純文学、そのうちにおいても私小説である。私小説を一言で言ってしまえばクズ日記だ。日記でいいのか?いいのである。日本では日記専門の出版社があるほど日記に関心が高い。日記の内向・内省が日本人の気質にあっているんだろう。日本独自の文芸ギルドの成熟や新人賞制度、クズな日記ほど評価が高いその様は日本人の特殊性と同じくらいに特殊だ。

 そこにきて日本人の女性純文学作家ときたらなってない。おおむね内容はこうだ。

 少し厳しくしつけられつつ、普通に育てられた。貧しさは自分のせいではなく、どこかに尊敬できる人がいた。迷いながら努力が実り世間に認められつつ、貧しさから抜け出せなかった。友達に大きな秘密を隠されたりもするが自分に降りかかるトラブルは無く、いろんな男性に目移りする青春だった。少し不満はあれど寡黙な男と結婚することになり、つくしつつも夢をあきらめてはいなかった。子育ての幸福のなか、だんなが浮気した。だんなが借金した。だんなが病気になった。昔のイケメンと再会し不倫に燃えた。子どもがだんなそっくり。まあまあ豊かな老後となった。

 偏見も多いが、なんとなくこんな感じ。「おしん」のイメージかもしれない。私が正解とする男の純文学は、

貧乏でオンボロの家に住んでいて、それをギャンブルで何とかしようとしてさらにひどい目にあう。浮気がやめられない。ちょいちょい捕まえに来る警察とけんかばかりする。決して自分のせいとは認めないが、たまに落ち込むと病気になって寝込んでしまう。

と、このようにクズが爆発している。
 小説にするべき女の人生の問題は「男にひよって生きればいい」という女の浅はかな考えではなく、「男がクズで振り回されて不幸になりました」という文学がしょうも無いことである。不幸への主体性が欠けている。お前がクズってなければダメじゃん。
 そこにくると、『ドラえもん』のび太くんはいい感じである。自虐コメディーこそが私小説の華なのかもしれない。

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 ところで、中村うさぎは良い。
 どうして純文学の重鎮でないのかわからない。結局のところ、純文学がこじゃれた文章をガラスケースに入れて置いておく場所になってしまっているからなのか。読み安くて軽い本は純文学じゃないみたいだ。アートのどっしりした重みを感じたいようなのである。それってエンタメから遠ざからないか?とは思うが、エンタメではないという認識が邪魔をしている。いや、エンタメだよ。エンタメじゃない文学なんて無いよ。
 最近では作家の顔も気にしているようで、表情のない恨めしい顔をした人物でないと、世間は作家とは認めたがらない。

 中村うさぎはショッピングがやめられない。放蕩のうち、劣等感の裏返しでしかない優越感におぼれる。かしづくホスト、かしづくハウスマヌカン。どんなに貢ぎまくってもホストは抱いてくれない。度重なる顔面整形。豊胸手術。熟女ヘルスで働いて買われてみる。数ある中村うさぎ伝説のうちで、個人的にイタイと感じるのは、仲間感のあった「5時に夢中」という番組のメンバーとけんかしてしまうところ。それじゃぁ孤立してしまうではないか。あんたうさぎなんだろ。孤立だけはすんな。
 どこかで上の立場に自分をおいていて、経済的にはやらなくても良い問題はあるが、やっぱりこれ自己愛せい障害、コンプレックスの塊。結局のところ両親からの愛情の欠損からくる劣等感がはっきりしている。
 中村うさぎは自分を見つめなおしてみる、そこで治っていかない。治らないところが良い。ずっと劣等感に満ちていて、行動的で元気で明るくて戦い続けまくって、ひきこもったりしない。明るくって治らない、まるで病気の神のようだ。しかしこれって現代女性が少なからず持っているものではないか。いや、現代女性にとっては足りなさなのかもしれない。そのどちらであったとしても過剰であるのは確かだ。
 こういった辛らつな生き方は、生き切っていない読者を責めているようにも感じる。もう中村うさぎを引き受けられないほど日本人は、現代人は疲弊してしまっているのだろうか。

 彼女は物語る対象ではない。伝説となる対象だ。ともに語り伝えられるという意味だが、物語よりもっと偉大でもっと大げさだ。アーサー王のようでもあるし、ガッツ石松のようでもある。
 中村うさぎは立派じゃない。でも文学って立派じゃない人のものだから。負け犬にこそ文学の王道はふさわしい。彼女こそが現代純文学の一等星なんだ。
 今のこの時代に中村うさぎ賞を設けて、しっかりとした本格クズ私小説を書き抜ける人材をピックアップする必要性もあるだろう。

 三島由紀夫だってクソ変態だし、太宰治は死にたがりの気の弱い男だった。人生の全てがダメに満ち溢れている必要は無いが。このダメ一つで人生全てが吹っ飛びそうな要素への自覚がありさえすれば、その人は真の純文学作家といえる。

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