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バンクーバー編⑤ 気さくでドジでチャーミングな通訳者|虹はいまだ旅の途上——李琴峰のクィア的紀行

「どうも皆さん、お待たせしてごめんなさい。実は日本から帰ってきたばかりなのよ。お土産のチョコレート、どうぞみんなでお食べ!」
 元気な声で挨拶しながら会議室に入ってきたのは、とても気さくなおばさんだった。部屋の空気が俄然数段明るくなった気がした。私は慌てて立ち上がり、名刺を渡して彼女に挨拶した。
 講演当日である。講演の3時間前から私はアジア研究センターに到着し、「6階」の会議室で先生や大学院生たちと昼食をともにした。気さくなおばさん——通訳者のやすたけゆうさんが到着したのは、その1時間後だった。
 今回のシンポジウムはすべて英語だが、トリを務める私の基調講演だけ、「日本語+英語の逐次通訳」で行われることになっている。安武さんが通訳してくれるというわけだ。
 北海道から買ってきたという生チョコレート(おいしい)をつまみながら、早速安武さんと打ち合わせを始めた。「ちょっといくつかご質問をしたかったんですよ」、そう言いながら、安武さんは自分のノートパソコンで私の講演用パワーポイントを開いた。それから、
「この言葉はこう訳してみたんだけど、こう訳したほうがいいかな?」
「『冷笑的にあしらう旧態依然としたシスヘテ男性評論家』って、どう訳そうか」
「『意識高い』は?」
 と、私の意見を細かく訊きながら、
「おばさんも昔小説を結構読んでいたけど、さすがにもう歳だから最近の新しい人は全然追いかけてないな」
「でも李さんの小説は面白く読ませてもらったよ」
 と、他愛もない世間話をした。
 とても人懐っこく、物腰の柔らかい素敵な方だなと思った。安武さんと話しながら、私はこっそり彼女の名前を検索した。今年69歳の安武さんは20代からカナダに移住し、かれこれ40年以上住んでいる。さしずめバンクーバーの日英通訳の第一人者といったところだろう、なんと2009年に天皇皇后両陛下の訪加時に通訳を担当したことがあるという。
「えっ、天皇陛下の通訳をやったことがあるんですか?」
 私が驚いて訊くと、
「いやだあ、なんで知ってるのー?」と、安武さんは恥ずかしそうに手で口を覆いながら言った。ネットに書いてあるんですよ、と私は笑って答えた。
 要するに、すごい方なのだ。そんな実績を持っているのに驕り高ぶる様子は一切なく、翻訳について私の意見を訊いてくれている。しかし私は英語の専門家ではない。訳語の候補を挙げることはできるが、微妙なニュアンスまでは判断がつかない。とはいえ、プロの通訳者と一緒に英語の訳語を探す作業もなかなか面白い。
 作業していると、ふと、安武さんが悲鳴を上げた。「ああ、電源コード忘れちゃった!」
 電源コードがないので、彼女のパソコンは瞬く間に電池切れとなった。私は居合わせた大学院生たちに助けを求め、大学院生たちも大慌てしながらセンター内を探し回ったが、しかし代用できるものはどこにもない。最終的に安武さんが友人に電話をし、彼女に頼んで家から持ってこさせた。古希に近い物腰の柔らかいベテラン通訳者にドジっ子属性が混じっていると、これはもうチャーミングとしか言いようがない。

 さて、午後3時15分、いよいよ講演が始まる。私の講演テーマが「日本でクィアを書くということ(Writing On Queerness in Japan)」だからか、演壇から聴衆席を見渡すと、クィアっぽい外見の学生が何人も見えた。欧米の国を訪れる時にいつも驚かされるのは、このようにクィアの人たちの可視性の高さである。
 講演は順調に進んだ。聴衆は日本研究を専門とする先生と学生がほとんどなので、日本語が理解できる人も多い。多くの聴衆が通訳を介さず、私の話した日本語に直接反応してくれた。笑ってほしいポイントでちゃんと笑ってくれているから、講演者としてとても手応えを感じる。
 一方で、安武さんもプロの通訳者として完璧な仕事をしてくれた。通訳しやすいよう、私は話を細かく区切り、適切な長さで安武さんに渡した。そして私が聞いている限り、安武さんの訳は分かりやすく、抽象的な内容が多いにもかかわらず訳し漏れもほとんどない。通訳の仕事もしたことがある身として、それは決して簡単ではないことを知っている。
 質疑応答も盛況だった。日本で講演する時は質問はなかなか出ないことが多いが、カナダの学生たちは実に積極的に質問をした。質問する前に、
「私自身はアセクシュアルで、文学とアセクシュアルの関係について研究しています」
 とか、
「私はAFAB[1]のノンバイナリーです」
 というふうに、自分のセクシュアリティを紹介する学生が何人もいたのは印象的だった。クィアであることを当たり前のように公言していい空気の中で育った彼/女ら(これはジェンダー不定代名詞)が羨ましいし、講演の場でカミングアウトしたのは講演者である私に対する信頼ゆえだろうと考えると、嬉しい気持ちになった。

 安武さんとは講演後も何回かメールのやり取りをした。メールの文面からも、彼女の柔らかい人柄が滲み出ていた。バンクーバーにいるうちはここの店に行くといいよ、この店はおすすめね、など色々教えてくれた。家にも招待してくれたが、残念ながら時間が取れず行けなかった。生きているうちにもう一度会いたい素敵な方なので、次の機会があることを心から願う。

(つづく)


[1] AFAB=Assigned Female at Birth、出生時に割り当てられた性別が女性の人のこと。

連載概要

「クィアという言葉を引き受けることによって、私は様々な国のクィアたちに、さらには現在にとどまらず、過去や未来のクィアたちにも接続しようとしている」——世界規模の波となって襲いくるバックラッシュにあらがうために、芥川賞作家・李琴峰が「文脈を繋ぎ直す」旅に出る。バンクーバー、ソウル、チューリッヒ、アムステルダム、各地をめぐった2024年の記録。

著者略歴

李琴峰(り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。作家・日中翻訳者。2013年来日、17年『独り舞』で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞し、デビュー。『五つ数えれば三日月が』で第161回芥川賞・第41回野間文芸新人賞候補、『ポラリスが降り注ぐ夜』で第71回芸術選奨新人賞受賞、『彼岸花が咲く島』で第34回三島由紀夫賞候補・第165回芥川賞受賞。他の著書に『星月夜』『生を祝う』『観音様の環』『肉を脱ぐ』『言霊の幸う国で』がある。