「絶版」がモンダイなのだ|山本貴光さんと吉川浩満さんが選ぶ「絶版本」
1.思い出の「絶版本」吉川篇
山本 今日は柏書房のウェブ連載「絶版本」の最終回ということで、光栄にも私たちがお話しすることになりました。
吉川 錚々たる執筆陣のあとで、ちょっと緊張しますね。
山本 それで連載を拝見すると、おのおのの思い出に残る絶版本について語るという内容のようです。私たちもその辺りから話してみましょうか。
吉川 そうしよう。
山本 では早速だけど、吉川くんの思い出の絶版本にはどんなものがありますか。
吉川 私が今日持ってきたのはこれです。エドワード・O・ウィルソン『社会生物学』(全5巻、思索社、1983-1985)。
山本 おお、これは紛うことなき絶版本!
吉川 なにしろ版元の思索社は解散しているからね。
山本 後に新思索社ができて、これも解散しました。
吉川 そうそう、それでこの邦訳書にも二つの版があるんだよね。最初はたしか1983年から1985年にかけて5巻本として出ている。今回私が持ってきたのもこれです。
山本 別の版はどんなのかな。
吉川 新思索社になってから、1999年にこの5冊を全部まとめた合本版が出ています。
山本 ということはこの本は二度絶版になっているわけだ。
吉川 『007は二度死ぬ』みたいな。
山本 あのタイトル、面白いことに原題は”You only live twice”なんだよね。
吉川 「人生は二度しかない」だ。
山本 『社会生物学』はもう復活しない気がしてきた……
吉川 『トゥモロー・ネバー・ダイ』
山本 (笑)。それはそうと、この本にはなにか思い出はありますか。
吉川 その前に概要をご紹介すると、これはE・O・ウィルソン(1929-2021)が「社会生物学(Sociobiology)」という一大プロジェクトを提示した本で、原書は1975年に刊行されています。出た当時、物議をかもして「社会生物学論争」という大論争が起きたりもした。
山本 「社会」と「生物」をくっつけるとはなにごとかと。
吉川 ウィルソンはもともと昆虫学者で、アリの行動を研究していた人なんだけど、『社会生物学』では、人間も動物なんだから、人間の社会もアリの社会のように研究できると提案した。そういう一種のマニフェストで……
山本 当時としては衝撃的だったわけだ。
吉川 そう。読んだときも現在も、私は「おもしろいじゃん!」と思っているんだけど、衝撃は衝撃で、いまだにこの流れは続いているところ。
山本 吉川くんの『理不尽な進化』(ちくま文庫)にも重なるテーマですね。ところで吉川くんが『社会生物学』に出会ったのは、いつ頃でしたか。
吉川 私が最初にこれを読んだのは、藤沢市中央図書館だったと思う。
山本 学生の頃だね。調べてみると、思索社が倒産したのは1992年だから、吉川くんが同書に出会った頃は、まだ健在だった。
吉川 なにしろ5分冊だったし。それで社会人になってから買おうと思ったら、そのときには思索社が潰れて新思索社になっていた。
山本 そうだ、新思索社は1994年に設立している。私たちが大学を卒業した年だね。
吉川 それで新思索社から合本版が出たんだけど、これが巨大な辞書みたいな本で、欲しいと思いつつ、それはそれで価格が高くて買えないままになった。
山本 そうこうするうちに新思索社も2016年に倒産。
吉川 というわけで、いま持っているのは思索社版。これは後に古本屋で高いお金を払って買いました。
山本 いろいろな意味で思い出のある絶版本だね。この連載にふさわしい感じだ。
2.思い出の「絶版本」山本篇
吉川 山本くんはどうですか。
山本 私が持ってきたのはこれです。
吉川 これまた随分古そうな。
山本 そう。これは後でまた検討したいポイントだけど、「絶版本」と言われて、はて、本当に絶版といえる本はどれだろうと思ったんだよね。
吉川 確実に絶版になっていそうなものを選んだわけか。
山本 これなら少なくとも本のかたちからしても絶版になっているんじゃないかなと。
吉川 少なくとも新刊の書店ではなかなか見かけなくなった製本法だ。
山本 これは、『言海』という辞書を編んだことで知られる大槻文彦(1842-1928)がつくった日本語の文法書です。
吉川 表紙に『廣日本文典 全』とある。
山本 『言海』の巻頭には「語法指南」という文法の解説がついていて、これをもとに改訂して独立させたのがこの『廣日本文典』と『廣日本文典別記』の2冊です。
吉川 これは見るからに絶版本っぽいですね。
山本 少なくともこのかたちでは売ってないと思う。
吉川 手にした場所は覚えてる?
山本 しばらく前から日本語の文法がどんなふうにつくられてきたかという歴史を調べているんだけど、その過程で手に入れたのでした。「日本の古本屋」[編注:全古書連所属の古書店が参加する通販サイト]で見つけたんだったかな。
吉川 われらが日本の古本屋。
山本 そのつもりで探すと、江戸期の和本なんかも見つかるんだよね。本当にありがたいウェブです。
吉川 この本について、なにかエピソードはあるかな。
山本 それがね、前の持ち主が書き入れをしながら読む人で……
吉川 マルジナリアだ。
山本 そう。しかも最初のページに手書きのノートが挟み込んであって、これがまた勉強になるものでした。江戸や明治の文法書では、書き込みに教えられるという経験が二度や三度ではない。
吉川 前の所有者が読んで勉強した痕跡が、次の所有者に共有されるのはなんだかいいね。
山本 しかもその書き入れがある本はこの世に1冊しかない。
吉川 古本ならではだ。ところでその本は奥付とかあるのかな。
山本 あるある。明治30年1月9日に初版が発行されていて、私が手に入れたこの本は、明治33年11月発行の第14版。
吉川 すごいね!
山本 何部ずつ増刷したか分からないけど、この時期の本を見ていると、えらいスピードで版を重ねているものを見かけることがある。
吉川 これは活版印刷だよね。製本はいまの本のようにつくられているのかな。
山本 和綴じですね。
吉川 和綴じか。
山本 紙の束に穴を開けて、糸でかがってある。中身はおっしゃるように活版。
吉川 広告は?
山本 うん、広告のページもついてる。
吉川 カゼナオールとか(笑)。
山本 そうそう、薬の広告とかね(笑)。この本は、既刊書の広告かな。
吉川 これは、出版社はあるんですか。
山本 出版社は、それが面白くて、個人名なんだよね。
吉川 おお。
山本 発行所とか発売所が個人の名前なんだよね。「著者兼発行者」が大槻文彦本人で、「印刷人」が「野村宗十郎」、それと「発売所」として「吉川半七」と「三木佐助」という人の名前が載っている。それぞれ東京と大坂(ママ)の販売所みたいだよ。
吉川 改めて絶版とはなにかという問題が提起されそうだね。例えば、『社会生物学』なら出版社が倒産しましたというので、出版の権利を持っている主体がいませんとなる。もちろん別の版元が持っていたら、その版元が出している本は絶版ではないけどね。
山本 『廣日本文典』の場合、個人が発行者だ。
吉川 そう、当然ながらその人たちはすでにお亡くなりになっている。
山本 それを誰かが版権を継承したりしていなければ絶版になっている。
吉川 明治30年に初版ということは、ざっと120年以上前の本で、おそらくはこのままの形では出ていないだろうね。
山本 そもそも著作権も切れているだろうしね。
3.誰にとっての絶版か
山本 というわけで、お互いの思い出の絶版本について話してみたわけだけど、吉川くんが言ったように、絶版とはなにかという問題が気になるところ。
吉川 ある本が絶版かどうかを見分けるのは、実はなかなか厄介だよね。
山本 似て非なる言葉に「品切れ」がある。
吉川 「品切重版未定」とも言いますね。
山本 ある本が、品切重版未定状態なのか、絶版状態なのかは、その本だけを見ても分からない場合があるのよね。
吉川 岩波文庫は基本、絶版にしないと言いますね。あくまでも品切れであって、いつか重版を再開する可能性がある。
山本 世の中では、品切重版未定と絶版をほぼ同じ意味で使っているケースもしばしば目にします。
吉川 無理もない。
山本 他方で、この本は絶版だと確実に分かる場合もある。私たちが書いた『問題がモンダイなのだ』(ちくまプリマー新書)は、あるとき版元の筑摩書房から「絶版にします」という通知が来たから、これは明確に絶版と分かる。
吉川 ただし通知した編集者や通知を受けとった著者にとってはそうだけど、読者や書店にとっては必ずしも明確ではないかもしれない。
山本 そう、ここには「誰にとっての絶版か」という問題がありそうだね。
吉川 ひとつはいま述べた出版にまつわる権利や契約の観点から絶版か否かを区別できる。この場合、そうした権利や契約に携わる人にとっては、絶版か否かが明らかになる。
山本 絶版ということでいうと、江戸の木版なら木の板を彫ってつくった版があり、これを破壊すれば物理的に絶版ともいえそう。あるいは活字を組んでつくった活版も、ばらしてしまえばやはり物理的に版がなくなる。
吉川 いまはデジタルがあるから、その点はややこしくなっているかもだね。デジタルデータはあるのでその気になれば増刷できるけど、権利関係で印刷できない場合とか。
山本 いまから適当なことを言うけど、ひょっとして絶版には、絶対絶版と相対絶版があるんじゃない?
吉川 絶版も一枚岩ではない。
山本 さっき吉川くんが言ったデジタルのケースは、記憶装置やコンピュータによって成り立つと考えるとこれも物理的なものですね。
吉川 ああ、デジタルにせよ活版にせよそれ以外にせよ、物理的に印刷できる状態にあれば、極端な話、権利に関係なく刷れることは刷れるわけだから、これは……相対絶版。
山本 それに対してそもそも物理的に印刷できない状態が絶対絶版。
吉川 もっとも印刷された本さえ残っていれば、これをもとに再び版をつくることもできる。
山本 とすると、かつて存在した本と版がともに途絶えた場合が絶対絶版か。
吉川 ブラッドベリ『華氏451度』みたいになってきた。
山本 もはや語り部の頭の中にしか存在しないという。
吉川 あと、出版する権利が生きていても、物理的に印刷できないことも理屈としてはありうるね。災害で版が破壊されるとか。
山本 さらにややこしくなってきた(笑)。いずれにしても、「誰にとっての絶版か」という観点に戻ってみると、そうした諸事情に携わっていない読者から見ると、手に入らない本はないことに変わりはない。
吉川 読みたいのに手に入らない本があるなら、むしろ絶版であってくれたほうが気持ちの整理もつく。
山本 手に入らない本が品切重版未定だと、希望が残るものね。
吉川 いまはプリントオンデマンド(POD)も普及してきたし、電子書籍版もあったりして、こうなるとまた絶版の意味と価値も変わりそう。
山本 そうか。電子書籍は、その電子書籍を提供しているサーヴィスが終了して読めなくなるというケースがありますね。でも、プリントオンデマンドに対応した本は、もはや絶版がありえなくなったと言えるのかな。絶対重版とでもいおうか。
吉川 それでも出版の権利が問題になることはある。
山本 そうか、プリントオンデマンドで物理的には印刷できる状態でも、権利の点でストップがかかる可能性があるのか。
吉川 それから、電子書籍と同じように、そのプリントオンデマンドのサーヴィスが永遠に続くとも限らない。
山本 思ったよりはかない感じがしてきた。結局は、権利と物理という二つの条件があるわけだね。
4.二重に失われたもの
吉川 ところで、思うんだけど、この「絶版本」という連載があるように、あるいは最近も絶版をめぐってちょっとした騒動があったように、「絶版」という言葉にはどこか人の情念を喚起させるものがあるんじゃないかな。
山本 「絶」の字面も強いというか、なにかが絶たれるという感覚だものね。
吉川 それでいまさらながら、ちょっと興を削ぐようなことを言って恐縮なんだけど、実をいうと私はそんなに絶版という概念自体にこだわりがなくって……
山本 最後の最後にちゃぶ台返しが来ました(笑)。
吉川 山本くんはどうですかね。
山本 あのね……吉川くんの尻馬に乗るようだけど、私も実は気にしてない(笑)。
吉川 本が絶版かどうかよりも、実際に手に入りやすいかどうかのほうがレリヴァントというか重要で、現にまあまあ手に入れやすい絶版本があるかと思えば、なかなか手に入らない品切重版未定本があったりするから。
山本 それそれ。だから品切重版未定で手に入らないというのが一番困るよね。品切れは未練が残ってるし。でも絶版本でも、日本の古本屋で探せば手に入る本もあるわけだからね。
吉川 それこそ『問題がモンダイなのだ』なんてすぐ見つけられると思うんですけどね。絶版だけどそんなにレアリティがないという。
山本 そう、希少性が低い。そんなこんなで絶版にこだわりがない。
吉川 なにしろ、これは自慢じゃないけど、われわれは全部読んでるかどうかは別として、人生にちゃんと活かしているかも別として、万単位の本に接しているじゃない。そうすると、なんかもう「絶」という言葉にそれほどロマンを感じないというか。
山本 手に入るか入らないかだからね。
吉川 そう、それが最も重要な尺度なので。
山本 本の側のステータス、絶版か品切れかはあまり関係ないんだよね。
吉川 うん。ただそれは、概念としての「絶版」にそれほどこだわりがないというだけの話。個々の絶版本との関わりには、もちろん、取り替えのきかない思い出がありストーリーがある。この連載の各記事に得も言われぬエモみがあるのは、とりあげられた本が実際に絶版であるというだけでなく、著者がその本に出会った過去もまた現在の著者からはもう手の届かないところにあるという、いわば二重の意味で失われたものであるからなんだろうね。だからこの連載の文章はエモいし、コンテンツとして力を持っているということになるんじゃないですかね。
山本 最後にすごいフォローが入りましたね(笑)。あらかじめ失われ、そして二度と回復されない、そういうものへの郷愁がそそられるわけですね。エモ・オブ・エモだ。
吉川 うん。この「絶版本」という連載の切り口は、われわれが絶版本という失われたものに対する魂の態度みたいなものを喚起するいい連載だと思いますね。
山本 一時はどうなってしまうかと心配になりましたが、美しい話にまとめていただきました。
▼記事は全てこちらにまとまっています▼