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『共感と距離感の練習』刊行記念「小沼理ファンクラブナイト」イベントレポート

この記事は2024年7月5日に高円寺の蟹ブックスで開催された『共感と距離感の練習』刊行記念「小沼理ファンクラブナイト」のイベントレポートです。

 「私自身が読んで面白いと思ったのは、いろいろな読み方があると思ったところ。共感する部分があったり、いろいろな立場から読み解けたり、こういう読み方もできると話せるような本だと思ったので、今回の会を開きました」

 蟹ブックス店主・花田菜々子さんのその言葉から始まった「小沼理ファンクラブナイト」。『共感と距離感の練習』(柏書房)の出版イベントとして開催され、小沼さんと交流があり、本作のファンだという校正者の牟田都子さん桃山商事の清田隆之さん編集担当の天野潤平さんを迎え、20人ほどの「小沼理ファン」が蟹ブックスに集った。

 照れた面持ちで登場した小沼さんを集まった人々が拍手で迎える。参加者はお酒など好きな飲み物を思い思いに取り出し、小沼さんの出版を記念して! という音頭と共にみんなで乾杯をした。牟田さんが清田さんと初めて顔を合わせる話など、雑談を交わしながら和やかなムードで幕が開く。

 会の前半は登壇者の方々のお話から。『共感と距離感の練習』についての感想や、小沼さんとの出会いが語られた。

『共感と距離感の練習』書影

前編:登壇者から

表現の美しさがこれまで読んできたエッセイと違う

花田 私は以前から小沼さんがどんな文章を書かれるかは知っていて、すごく楽しみにしていたんですが、今回文章にさらに磨きがかかっていると思いました。小説みたいだと言うと、エッセイの方が下であるように聞こえてしまって良くないんですが、エッセイなのに小説くらい情景が湧いてくるような印象がありました。

 特に一番印象に残ったのは、最寄り駅にある公衆トイレがハッテン場かもしれないって思っていたことを書いたエッセイです(「安全なファンタジー」)。途中で学生時代に通学カバンにつけていたルービックキューブのキーホルダーの話が入ってくるんですが、本当に小説みたいというか。それが本当か嘘かはもうどうでもよくて、そのルービックキューブのキーホルダーと小沼さんの不安な気持ち、ちょっとドキドキしているんだけどすごく晴れやかでもないっていう気持ちが全部一緒に伝わってくる感じがしたんです。そういった表現の美しさがこれまで読んできたエッセイとちょっと違う感覚のものだなっていう気がしました。

 ハッテン場の話とかって、今まで情けない話かエロい話か笑い話として話されることが多かったんじゃないかと思うんです。でもそういった話ではない、何とも言えない気持ちがこの本には書かれている。切ないというのも違うし、性の芽生えみたいな話とも違うし、わかりにくい着地なのにこんなに響いてくるってすごいなと思いましたね。本当に唯一無二な才能だなと感じました。

 冒頭から花田さんの熱い感想を聞いて「どういう顔でここにいたらいいんでしょう……」とドギマギする小沼さん。花田さんや牟田さんからどうか耐えて! とツッコミが入りながら、本作の魅力が語られてゆく。

清田 僕もジェンダーなどの問題について普段文章を書いてるんですが、小沼さんとは結構長い付き合いなんです。トミヤマユキコさんと共著で出版した『大学1年生の歩き方――先輩たちが教える転ばぬ先の12のステップ』(左右社、2017年)の取材をしてくださったのが出会いで、その少し前に、僕が所属する桃山商事というユニットで出版した『生き抜くための恋愛相談』(イースト・プレス、2017年)の書評を書いてくれていたんですよね。この書評が本当に良くて、ちょっとまじで感動してしまって。それで取材後、「えっ、さっきインタビューしてくれたライターの小沼さんって、あの書評の小沼さん!?」と気づき、慌てて連絡したのが最初の思い出です。小沼さんとは一回りくらい年齢が離れているんですが、同い年だったら嫉妬に狂ってまともに付き合える気がしない(笑)。

 『共感と距離感の練習』は、わかるとわからないという感覚、その逡巡に貫かれている本ですけど、小沼さんの素敵なところが表れてるなと思ったのが「重なりと異なり」という章です。

 「同じゲイってだけで繋がれる」みたいな言葉に対して、同じセクシュアリティというだけの括りで本当に繋がれるのか、その言葉を使うことで、何か切り落とされてしまう様々な差異があるんじゃないかと思考を巡らせていく。でもその後に、この「同じゲイってだけで」という言葉が実はコミュニティの中で受け継がれてきた大切な言葉なんじゃないかっていうことに気づく。二つの思考を何度も行ったり来たりしながら、その葛藤の痕跡を追う中で、問題の構造や縦軸の歴史みたいなものを感覚的に追体験できるところが素晴らしいなと思います。

ライターとしての技術と感性が混ざった一冊

 普段ライターとしても多くの仕事をこなしている小沼さん。同じく執筆活動だけでなくライターとしても活躍する清田さんならではの視点で、小沼さんの文章が紐解かれてゆく。

清田 ライターというのは情報を整理するとか、わかりやすい文章を書くことを求められる仕事で、あまり自分の意見を挟む余地はないですよね。エッセイを書く時って、そういったライター的な職能が邪魔になる時があると思うんですけど、それを完全に捨てるわけではなく、小沼さんの技術がエッセイに組み込まれてるなと感じるところが多々ありました。

 全く知らないイベントや見たことがない作品のこともスーッと頭に入ってくるのは、ライター的な技術に裏打ちされているんだと思います。ライターとしての文章力と、小沼さん個人としての感性が混ざって一冊の本になってると思いましたね。

牟田 私が最初に小沼さんの文章を読んだのは、2020年に日記のZINEを出された時でした。それですっかりファンになってしまったんですが、その後2022年に出版した自著(『文にあたる』亜紀書房、2022年)について、小沼さんがweb媒体でインタビューをしてくださったんです。

 そういった取材ではインタビュイーも間違いがないか公開前に原稿を読んで確認するのですが、こちらから修正の赤字を入れてしまうこともしばしばあります。でも、小沼さんが書いてくれた原稿はまったく修正がなくてびっくりしたんです。かつ、その本で私が書ききれなかったことを代わりに書いてくださったような記事で、こんなふうに読んでくれる人がいるんだったら本当に本を作ってよかったなって思って、ありがたかったんですよね。

 花田さんも言っていましたけど、小沼さんの本は情景の描写がいいんですよね。どんな話でも常に同じトーンでどこか理性的に扱われるその手つきが私は好きだなと思っていて。こうしたテーマだと、もっと感情的に扱う人もいると思うんです。だけどそうすると、話に入れないと思っちゃう人が出てくる気がする。私は入れないと思ってしまうこともあるのですが、その入れなさがなくて、開かれているところが小沼さんの文章の魅力だと思います。

男性が男性を語ることの難しさ

牟田 一つお伺いしたいんですが、『共感と距離感の練習』に収録されているエッセイは頭から書いた順番に並べたのか、何か意図を持って並べ替えたのか、どういう順番で作っていったんですか?

 牟田さんの質問をきっかけに話題は『共感と距離感の練習』の制作の話に。最初に大まかな構成案があり、本作ではほとんどその順番に書き上げたものを並べていったのだという。当初の予定になかった要素としては、「善意」「いつかどこかで」などの短いエッセイをさしはさんだこと。小沼さんによれば「ヒップホップのアルバムなどにあるインタールード(曲間で演奏される数十秒ほどの短い楽曲)をイメージしていた」そう。これが構成上の緩急になり、手応えを感じたそうだ。

 編集を担当した天野さんも出揃った原稿を通しで読んだ時に、いい流れができていると納得したのだという。「小沼さんの筆の力というか、構成力の高さですよね」と天野さん。それでも唯一踏み込んだコメントを入れたのが「「男性的」」の章だった。

天野 「「男性的」」という章では「男性性」の話を書いてもらっているのですが、一番原形を留めていないと思います。最初にいただいた原稿は、それこそ「特権性」の話であったり、「新しいホモノーマティヴィティ」の話であったりと、クィア・スタディーズの専門的な知見を用いながら書かれていたんですね。森山至貴先生の名著『LGBTを読みとく――クィア・スタディーズ入門』(筑摩書房、2017年)をかなり本文に組み込んだりしていて。小沼さんなりにそれをうまく整理しながら書いてくださっていたんですけど、他の章と比べたらだいぶ説明的というか読み心地が違うというか、言い方は少し悪いんですが逃げているような、踏み込みが足りない感じがしたんですよね。

 なので、自分はもっと「小沼さんの言葉」で読みたいですとコメントしたところ、現在のような原稿になって戻ってきたんです。結果的には、小沼さんにしか書けない男性性の話になったし、男性が男性のことを語るのって本当に難しいことだから、よく書いてくれたなと個人的に思っています。

牟田 それは清田さんの本を読んでいても思いますね。やっぱり男性自身が男性のことを語るのってすごく難しいんだろうなって。清田さんはそれに果敢にチャレンジされていると。

清田 男性性の話は自分も印象に残りました。とっさに出てしまう器用な振る舞いとか、人におもねったり気配を消すということも含めて、うまいことやってんなと自分にツッコミが入っちゃう瞬間のことを思い出しました。そういった振る舞いの話を「男性的」というテーマの中心に据えてきたことに、ハッとさせられたというか、なかなか怖いことを書くな……とドキドキしてしまいました。

 シスジェンダーのゲイっていう立場の持つマイノリティ性と特権性みたいなことが、この本の中でテーマになっていくじゃないですか。LGBTQやクィアと括ってみた時に、その中で小沼さんはマジョリティー側になると。特権的なポジションに立っちゃう場合もあるだろうけど、でも社会的に見れば抑圧されてる側でもあるということが実感として書かれていて、その揺れ動きが切実さに伝わってきました。

 先ほど天野さんから「「男性的」」の初稿がかなり説明的に書かれていたという話がありましたが、もしかしたらその立場性の難しさが関係していて、「主観的な目線で書くのはよくないんじゃないか」みたいな葛藤があったりしたのかなって想像したのですが、実際はどうでしたか? 自分も似たような葛藤に直面することがあるので……。

小沼 多分そうだったと思います。前半の六本木の会社に取材に行くパートは最初からあったんですけど、それをどういうふうに落とし込んでいけばいいのかよくわからなかったんです。

 森山さんの本を引用しながら後半部分を書いた最初のバージョンでは、六本木の会社で自分が感じたことが一つのサンプルみたいになっちゃったんですよね。でも、何かを主張するために自分の体験を書いているわけではないから、ズレが生じるなと思いました。

 ただ言語化が難しかったのと、こんなこと書いていいのかなって迷う二つの難しさがあって、うまく書けずにいました。でも天野さんが指摘してくれて、そうだよなともう一度考えて、今の文章ができたのだと思います。

天野 さっきは口が滑って「逃げているような」とか心無い言葉を使ってしまったけど、コメントではさすがにそうは書いていなくて(笑)、たしか「男性性」について、概念や理論を使わずに一回書いてみてください、みたいなことを言ったんじゃなかったかな。

小沼 そうそう、思い出した。その時に天野さんが参考として挙げてくれたのは、『エトセトラVOL.10 特集:男性学』(エトセトラブックス、2023年)でした。「『特権』『加害性』『生きづらさ』で終わらない、その一歩先にある『男性性』を見つけること」を試みた特集で、ちょうどやりとりをしていたタイミングに発行されていたので、それを読みながら修正を進めたんですよね。

後編:参加者から

怒ってないけど張り詰めている

 制作当時の話に花が咲いていたが、花田さんの「そろそろ……」という言葉をきっかけに参加者の方の感想を聞く時間へと移った。メモを取りながら熱心に耳を傾ける方も見受けられる中、続々と手が挙がり、自身の体験や考えも交えながら感想を語ってくれた。

参加者 私は多様性万歳と思っているし、自分はフラットなつもりでいたんですけれども、引越し業者のおじさんにゲイカップルであると告げた時に「全然悪いと思っていませんよ」と返された時のことを書いた「善意」という章を読んで、こういう場面に出くわしたら咄嗟に自分も言ってしまうかもしれないとちょっと痛い思いをしました。

 続く「「男性的」」を読んだ時に、男性の中でも強い弱いといった力の勾配があったり、いろんな立場の人がいるなと思って、男性と女性を二項対立で捉えることや括ることから離れないと駄目だと気がつきました。

小沼 ありがとうございます。素直に嬉しいですね。登壇者の三人の感想は聞いてて緊張するし、恥ずかしくなってきちゃって……(笑)。

 「善意」は傷ついたりびっくりしたりする人はいるだろうなと思いながら書き進めていました。
 
 本に出てくる作業員のおじさんの振る舞いにすごく怒っているかというと、そういうわけでもないんです。ただ、おじさんみたいな発言をする人は多いと感じているし、たびたびそういう発言を投げかけられるから、こちらも割と張り詰めているんですよね。コップの縁まで水が入っていて、その水がちょっとしたことで溢れちゃうことが起こりうるっていう、そういうことを表現したかったんだと思います。

プライドパレードをめぐる葛藤

 次の参加者の方の感想をきっかけに、話題は「もっと大きな傘を」「ありあまるほどの」といった章で書かれたプライドパレードの話に。LGBTQ+当事者も多く参加される中、パレードが持つ重要性を理解しながら批判すべき点にも触れ、両者の間で揺れ動く小沼さんの文章にいくつもの共感や感想が寄せられた。

参加者 誤解なく伝えられたらと思うんですが、私は双極性障害という精神疾患があって、診断を受けて間もない頃にプライドのパレードに遭遇して、眩しすぎて見れないみたいな気持ちになったことがあります。

 双極性障害の人のための日というのもあるんですが、みんな躁と鬱があるので、イベントをやろうとするとそれに向かって躁になっちゃったりとか、逆に具合が悪くなっちゃったりするから、なかなか集まれないんです。そういう経験があるので、パレードのキラキラした感じにちょっと気圧される自分がいるという小沼さんの言葉は印象に残りました。

小沼 パレードは本当に大勢の人たちが参加して成り立っていて、当然一人一人考え方は違うはずで。そのことをどういうふうに書くのがいいんだろうと迷った部分はありました。

 少し話が逸れるかもしれませんが、本全体として、自分はすごく迷いながら手探りで書いているけれど、それでも自分が最初に言い出したのではない気がどこかしているんですよね。それは具体的に誰かが言っていたことを自分もそう思っている場合もあれば、事象としては異なるけど、同じフレームや構造で捉えている場合もある。そういった色んな立場の人の感じ方や違和感の積み重ねを、意識的にも無意識的にも参照しながらが書かれた本だと感じています。

参加者 今は自分はパンセクシャルだと思っているんですが、過去にレズビアンだと思っていた時期もありました。私もTRP(東京レインボープライド)のエピソードが書かれた「もっと大きな傘を」が印象に残っています。

 私が初めてパレードに行ったのが福岡で開催された「九州レインボープライド」で、その後上京してから東京のプライドにも足を運びました。九州で初めて行った時は、まだ高校生くらいだったんですけど、クィアとして開かれた場で安心して過ごせるということに衝撃を受けて、素晴らしい空間だと感じました。でも、ある時からいつの間にか自分にフィットしないものになっていたみたいな感覚があって。だからすごく共感しながら読みました。

 商業主義とか「新しいホモノーマティヴィティ」とかそういう言葉でフレーミングすることは簡単にできちゃうけれど、小沼さんの細かい実感みたいなものに触れられてよかったです。

小沼 話を聞きながらちょっと思い出したんですが、「もっと大きな傘を」では自分が初めてパレードに行った時のことから書いているんですよね。それはパレードが自分にとってすごく大きな経験だったからです。

 批判すべき点はたくさんあるし、自分が今年や去年パレードを楽しんだかっていうとあんまり楽しんではないと思います。ただ、今の複雑な気持ちって積み重ねの中でかたちづくられたものだから、現状にだけ目を向けると取りこぼしてしまう気持ちがある。それを表現するために、パレードとの個人史のようなことを描いたのかもしれないと思いました。

クィアの人たちを傷つけたくない

 本作について「答えを提示するわけではなく一緒に悩んでくれるような、安心感を感じられる本だ」という感想も挙がった。小沼さんは、本の中で描かれる自身の逡巡、行ったり来たりする思考を離れて見守ってくれる人と、一緒に揺れ動きながら歩んでくれる人がいて、それぞれ感じるものが少しずつ違うのだろうと答える。

 続く感想では、パレードの話に加えクィア当事者として本作が救いになったという声があがった。

参加者 TRPに対するノレなさみたいなものは自分も感じていました。でも全部を否定したいわけではなく、救われてきた面もあって、僕も小沼さんと似たものを感じていたので、本として形になって読む人がいること自体が救いだなと思いました。自分の言葉では解像度高く表現できないことも、この本を読んでもらうことで伝えられることがあると思います。

 もう一つ「「男性的」」についてです。僕はトランス男性なんですが、男性らしい振る舞いみたいなものは後から習得しているというか、「こういう世界なんだ」とまだ戸惑いながら見ている感じなんです。それを生まれた時から男性をやっている人も似たように感じている、ルールとして認識しながら、慣れないけれどもなんとかやってる節があるんだと知れて面白かったですし、自分がそう感じていることを肯定できるような気持ちになりました。

小沼 この本全体として、クィアの人たちを傷つけたくないっていう気持ちが常に通奏低音のようにあったんですけど、自分の書くものがドライブしていった時ほど、どう読まれるのかわからなくなりました。その一つが、「「男性的」」をトランス男性の人が読んだ時にどう思うんだろうっていうことでした。

 もちろんトランス男性とひとまとめにできるわけではなく、人によって感じ方は異なると思います。それでも今のお話を聞けてすごく良かったし、書いた意味があったと思えました。

性欲と向き合わないと嘘を書くことになる

 前作『1日が長いと感じられる日が、時々でもあるといい(通称:いちなが)』(タバブックス、2022年)も含めて、今回の作品が自身にとって支えになるような大切な作品だという感想も寄せられた。

 この日は『いちなが』の編集者である宮川真紀さんも参加しており、参加者の熱い感想に耳を傾けていた。宮川さんは花田さんから感想を聞かれ、小沼さんが自分がゲイだと気づいたのは性的な欲求があったからだと正直に向き合う姿勢が、本作においてとても信頼がおけるポイントだったと語った。

小沼 性欲の話は書きたいとずっと思っていましたね。自分がゲイであるっていう話をする時って、好きになるっていうよりは性的な惹かれみたいなものが強くある感覚があったので。そこを書かないと嘘を書くことになっちゃうなと思っていました。

 それから、すでにある小説やエッセイとは違う切り口で書けたらっていうことも考えていましたね。

クィアな人々にとっての「居場所」になる本

参加者 「「男性的」」をプライド月間に読めて良かったなと思いました。この章は小沼さんがシスジェンダーの男性として生きてきて、特権性を持っている立場から書かれたのかなと思うんですけど、私自身はレズビアンとして生きていて、セクシュアリティは違っても共感してしまうところが多々ありました。

 女性だけで生きていかなればいけないからこそ、有害な男性らしさを引き受けて、ちょっとマッチョになりやすいところがあると思うんです。そうすると女性として女性を性愛の対象として眼差す時に、女性を消費する側としての視点が混ざり込んでしまうことがあると思っていたので、「「男性的」」の一番最後にあった「水平な世界で男性として男性を好きになるのは、どんな心地がするのだろう」という言葉を、「水平な世界で女性として女性を好きになるのは、どんな心地がするのだろう」と読みかえて自分自身の物語として夢想してしまって、感動しました。

 また、クィアの仲間たちと集った時にいつか一緒に住めたらなとか、お互いの居場所として役割を果たせたらなみたいな話をするんですけど、いつか一人になるかもしれないし、一人で居続けるかもしれないって思っているクィアの人はたくさんいると思います。でもこの本はそんなクィアな人々にとっても居場所だと思える本になってるのかなと思って。私も孤独だなと思うことがあるんですけど、寂しさで潰れそうな夜に何度も帰ってこれるような本として、この文章を世に出してくださったことが本当にありがたいです。

小沼 この本の最後は「いつかどこかで」から「あるいは」という章に繋がっていくんですけど、「いつかどこかで」で書いたのとほぼ同じ文章を、「あるいは」の最後で少しずつ変えながら繰り返すという構成になっています。

 「あるいは」の繰り返しの文章では、主語を入れずに書いているんです。この本はずっと自分の話を書いているんだけれど、この苦しさっていろいろなクィアの人たちが感じていることでもあるんじゃないかなと思っていたから、主語を入れないことで自分の話に限定しない書き方を試みました。

 「あるいは」で「二十一世紀のいつかどこかで」という書き方をしているのも、2030年かもしれないし2015年や2005年かもしれないという、過去・現在・未来といろんな場所に存在していたクィアの人たちに思いを馳せる意図がありました。だからそれを居場所のように感じてくださったのは嬉しいです。

 「居場所」って言ってくださる方は他にも何人かいらっしゃいました。本を作る時に「居場所」がキーワードとしてあったわけではなかったんですが、結果的にはそういうことだったのかもしれないと思います。本の中では実際に居場所作りをしている人たちの話も書いていて、そういう人たちの姿を見て、自分にはできないなあと思っていたんですが、本という形で居場所作りができたんだとしたら、本当にすごいことだなって思います。ありがとうございます。

蟹ブックス(高円寺)の看板

後記:言葉を紡ごうとする姿勢の中に

 たくさんの参加者の方から深い思考を巡った感想を聞くことができ、会が終わる頃には多幸感に包まれているような気持ちになっていた。登壇者の方々と小沼さんの掛け合いに頬を緩ませたりしながら、最後まで心癒されるような心地だった。

 本作の「別の複数の色」では、世界各国における同性婚の法制化の現状について触れられている。日本においても同性婚訴訟が始まり、強い推進力で運動が活発化していくのを眺めながら、婚姻の平等は実現されるべきであり、さらに結婚制度はいずれ解体されるべきであるという小沼さん自身の考えも書かれている。ただ、これまで自分には関係ないと思っていた選択肢が人生に急に現れたことに対して感じた戸惑いを正直に吐露する箇所は胸に迫る。社会の動き、自身のイデオロギー、そして反射的に生まれてくる感情。複雑に絡み合い、時に齟齬が生まれて自分の中に違和感を生み出すこのトライアングルと、小沼さんは誠実に向き合い熟慮しているような印象を抱いた。だからこそきっと、他者と対峙する時に利己的に線を引くことを決して望まないのだろう。

 今回の「ファンクラブナイト」では他者の言葉に耳を傾け、共感と距離の間を何度も往来した。ともするとわかりづらく骨が折れるような作業だけれど、満ち足りた時間でなんだか楽しかったという後味が残る。

 皆ご自身のパーソナリティや経験と、本作の具体的なエピソードを照らし合わせながら感想を話されていたが、参加者の方の言葉から度々聞こえてきたのは、「わかったつもりになってはいけないけれど」や「同じだと思ってはいけないけれど」といったまさにこの本の主題となる、決して簡単に自分と他者を同一化しない、誠実な距離を測ろうとする言葉だ。

 小沼さんは「わかると言ったりわからないと言ったり、感想を述べるのが難しい本だと思う」とおっしゃっていたけれど、言葉を紡ごうとするその姿勢の中に、すでに何よりも大切な「共感と距離感の練習」が実践されていたようにも思えた。私は一記録者としてそんなかけがえがない時間に立ち会えたことを、まるで奇跡のように思ったのだ。

構成:浅井美咲

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