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第1回 カリブ海作家と「記憶」との諍い|君たちの記念碑はどこにある?――カリブ海の〈記憶の詩学〉|中村達

【中村達さん新連載のお知らせ】
西洋列強による植民地支配の結果、カリブ海の島々は英語圏、フランス語圏、スペイン語圏、オランダ語圏と複数の言語圏に分かれてしまった。そして植民地支配は、被支配者の人間存在を支える「時間」をも破壊した。すなわち、カリブ海の原住民を絶滅に追い込み、アフリカから人々を奴隷として拉致し、アジアからは人々を年季奉公労働者として引きずり出し、彼らの祖先の地から切り離すことで過去との繋がりを絶ち、歴史という存在の拠り所を破壊したのだ。西洋史観にもとづくならば、歴史とは達成と創造をめぐって一方通行的に築き上げられていくものだから、過去との繋がりを絶たれたカリブ海においては何も創造されることはなかったし、大文字の歴史からも零れ落ちた地域としてしか表象されえない。だからこそカリブ海作家たちは、西洋中心主義的な歴史観に抵抗する。〈記念碑や偉大な建築物、世界を形作る出来事といった「目に見える」歴史でなくとも、ここには歴史がある〉――本連載では、記憶をめぐる彼らの詩学的挑戦を巡ってゆく。


「人間」の条件

一九五七年、人間が作った地球生れのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた。この物体は数週間、地球の周囲を廻った。そしてその間、太陽や月やその他の星などの天体を回転させ動かし続けるのと同じ引力の法則に従ったのである。たしかに、この人工衛星は月でも星でもなく、また、私たち地上の時間に拘束されている死すべき者から見れば無窮としかいいようのない時間、円を描き続けられる天体でもなかった。しかし、この物体はしばらくの間は、ともかく天空に留まることができたのであり、まるで一時、天体の崇高な仲間として迎えいれたのかのように、天体の近くに留まり、円を描いたのである。

[*1]

 1957年10月4日、ソ連は人類初の人工衛星であるスプートニク1号を打ち上げた。ハンナ・アーレントは『人間の条件』において、この瞬間を人類史的であったとし、当時の人々の狂騒をこのように解釈する。「この喜びは勝利の喜びではなかった。実際、人びとの心を満たしたのは、驚くべき人間の力と支配力にたいする誇りでもなければ、畏敬の念でもなかった。むしろ、時の勢いにまかせてすぐに現れた反応は、『地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩』という信念であった[*2]」。 アーレントは、人々のこの「地球を脱出する一歩」という楽観的な感覚を「異常なもの」と批判し、地球こそが人間が人間であるための条件であると主張する。「地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう[*3]」。

 この人類史的瞬間から半世紀以上を経た2020年、私は西インド諸島大学モナキャンパスでPhDを取得し、日本に帰国した。就職口を探しながら、久しぶりにゆっくりと日本語で本を読むことに楽しみを見出していた。元々日本の大学の大学院で後期課程に在籍していたころ、カリブ海文学における「自由」の表象を研究テーマにしていたこともあり、当時からアーレントは私にとって重要な参照点であった。「私の議論は、人間の条件から生まれた人間の永続的な一般的能力の分析に限定されている。いいかえると、人間の条件そのものが変化しない限りは二度と失われることのない人間の一般的能力の分析に限定されている。他方、歴史的分析の目的は、今日の世界疎外、すなわち、地球から宇宙への飛行フライトと世界から自己自身への逃亡フライトという二重のフライト、をその根源にまで遡って跡づけることである[*4]」。アーレントの「人間」の条件と「世界疎外」をめぐる議論は力強く、「地球は人間の条件の本体そのもの」という文言にも深く頷きながら読んでいた。

 ところが、トリニダードから現地の文芸雑誌『ヴォイシズ』を取り寄せたことで、私の視点は言うなれば「カリブ海的転回」を迎えた。もともとトリニダード人作家アール・ラヴレイスを研究対象としていた私は、彼がこの雑誌に詩を投稿していたことを知り、興味がそそられたため取り寄せたのだ。ところが、その雑誌の第2号の冒頭に鎮座していたアール・アウグストゥスという地元の歴史研究者による『人間の条件』の書評を見つけ、ラヴレイスそっちのけで夢中になって読んでしまったのである。

実のところ、著者は「世界疎外」の考察に関心を寄せてはいるが、世界をもっぱらヨーロッパとソ連の対立の中で捉えている。そこには現代における人類にかんする以下のような単純な思い込みがある。すなわち旧世界、いわば世界の関心ごと、それはつまり西欧の、そして偶然にも自分たちのグレコ・ローマン文化の優越性の中で生き続けようと奮闘している白い民族である人々の関心ごと[……]が、大方非ヨーロッパの新世界の人々の関心ごとや恐怖と一致しており、同じように影響を及ぼしているという思い込みである。

[*5]

 アウグストゥスの見解は、ジャマイカの大学で研鑽を積み、カリブ海の視点から物事を見ることができるようになったという私の自負を見事に揺るがすものであった。アウグストゥスはこう述べる。「技術的に発展した西洋志向の国々において生活が破綻しているなら、それはその人民にとっては意識せざるをえない苛立たしい状況であり、人間の条件から別の惑星への脱出は彼らにとって現実的な可能性なのかもしれない[……]。しかし、世界の他の人々の不満が同じ方向に向かっていると主張するのは誤解を招く行為だろう[*6]」。普段私たちが「思想」や「哲学」として触れる知の形態は、その多くが西洋によって作り上げられてきた。それゆえ現代思想において使用される「我々」は、西洋または白人を主体とした西洋中心性を備えており、またその包括的かつ惑星的な態度には西洋諸国が植民地主義や帝国主義を通して行い続けた人種差別の歴史が刻まれた排他性がある。つまり哲学や思想における「我々」という包括的な用語は、西洋的もしくは白人主体を想定していることが多い[*7]。アウグストゥスは、アーレントの「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」を踏んだと安堵する「人間」が、西洋の外に住む第三世界の人々を含んでいないと指摘するのだ。

 仏領マルティニーク出身のフランツ・ファノンが示す、その人類史的出来事に対する人々の反応は、アーレントが想定した反応とはまったく異なるものだった。ファノンいわく、西洋の植民地支配に虐げられ、非人道的な奴隷制によって人間としての尊厳を破壊され、年季奉公制によって使役された人々とその子孫たちにとって、人工衛星の打ち上げに「地球から脱出する」という楽観的で贅沢な希望を見出すことなどできない。なぜなら彼らは「地に呪われた」状態であり、地球を自分たちの「人間の条件の本体そのもの」、「努力もせず、人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家」にすることすらできていないからである。それゆえファノンはこのように言い放つ。「当たり前だ、人工衛星スプートニクの時代に人が飢えて死ぬなどとあっては滑稽だ、と言われるかもしれない。だが原住民大衆にとって、その説明は月の世界とはさほど関係がない[*8]」。月の世界へ届くほどの人類の華々しい文明の発展の裏側には、植民地支配によって虐げられ続け、呼吸のできる住家もなく飢えて死んでゆく「地に呪われたる」人々がいる。西洋列強による支配から独立し、彼らはようやく「地球から脱出する一歩」ではなく「地球を人間の条件とする一歩」を踏み始めたのだ。ファノンによる植民地主義の非人道的行為と罪の糾弾を拠り所にしながら、アウグストゥスはこう述べる。「インド、ガーナ、キューバ、そして中国など非人間的な抑圧からようやく自由を勝ち取った人々は、地球から飛び立とうとはせず、地球上に足跡を残そうとしているのである[*9]」。

 アウグストゥスはこの書評により、アーレントの「人間」の条件がいかに非西洋の人々を、そして地に呪われたる人々を排除しているかを浮き彫りにする。彼は「アーレントさんの発言を正すものとして、これ以上のものはない」として、エメ・セゼールの『帰郷ノート』を引用する[*10]。

[……]そしてその声は告げる、ヨーロッパは何世紀にもわたってわれわれに嘘を詰め込み、悪臭で膨れ上がらせたのだと、
なぜなら、人間の仕事はもう終わったとか、
われわれにはこの世界で何もすることがないとか、
われわれは世界に寄生しているのだとか、
われわれは世界に従うだけでよいのだとか、
そんなことはまるでほんとうではないのだ

そうではなく、人間の仕事はいまやっと始まったところだ
そして人間はまだ、自らの熱情の片隅で凝り固まったあらゆる禁制を征服しなければならない
そして美と知性と力はいかなる人種の独占物でもない
そして誰もがともに征服に参加できるのであり、いまやわれわれは知っている、太陽はわれわれの大地の周りを回転し、ただわれわれの意志のみが定めた場所を照らすのだということを、そして、すべての星はわれわれの全能の命令によって天から地へと落ちるのだということを。

[*11]

空を見上げ、いつか「地球に縛りつけられている我々が、地球を脱出する日が来る」と希望を抱く人々に、カリブ海は「お前たちの希望は我々地に呪われたる者の犠牲の上に成り立っている」と告げるだろう。そしてこう宣言するのだ。「人間の仕事はいまやっと始まったところだ」と。

地に呪われたる、記憶に残らない人々

 『人間の条件』において、アーレントは人間の活動的な生のあり方を「労働(labor)」、「仕事(work)」、「活動(action)」の3つに分節化した。活動は「直接人と人の問で行なわれる」行為であり、「地球上に生き世界に住むのが一人の人間manではなく、多数の人間men」であるという人間の条件に対応する[*12]。「人びとが行ない、知り、経験するものはなんであれ、それについて語られる限りにおいてのみ有意味である。[……]。しかし、この世界に住み、活動する多数者としての人間が、経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからにほかならないのである[*13]」。人間が経験するものに意味が付与されるかどうかは、この人間と人間の相互の語らいが行われる政治的空間、人間の複数性に依存している。つまり人間の言葉や行動は、偉業や事実、出来事として人々の間で語られ書かれることによって初めて意味をなすことになる。「すなわち、活動と言論と思考は、それ自体ではなにも『生産』せず、生まず、生命そのものと同じように空虚である。それらが、世界の物となり、偉業、事実、出来事、思想あるいは観念の様式になるためには、まず見られ、聞かれ、記憶され、次いで変形され、いわば物化されて、詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑など、要するに物にならなければならない[*14]」。だからこそ人間には他者が必要であり、その他者との「物化」によって言葉や行動は記憶される。「人間事象の事実的世界全体は、まず第一に、それを見、聞き、記憶する他人が存在し、第二に、蝕知できないものを蝕知できる物に変形することによって、はじめてリアリティを得、持続する存在となる。記憶されなかったとしたらどうだろう。また、記憶がその自己実現のために必要とする物化が行なわれず、実際ギリシア人が考えたように、記憶をすべての芸術の母とする物化が行なわれないとしたらどうだろう。そのとき活動と言論と思考の生きた活動力は、それぞれの過程が終わると同時にリアリティを失い、まるで存在しなかったかのように消滅するだろう[*15]」。

 アーレントの「人間事象の事実的世界全体」の議論で問題となるのは、人間が語られ記憶される権利を彼女が西洋社会においてのみ認識していることである。『全体主義の起原』において、彼女は人種という概念を取り上げる。「人類の歴史は諸民族の名を記憶してはいるが、それら民族の部族時代の祖先については不明確な知識しか与えてくれない。人種という言葉は、似而非えせ科学的諸理論の霧の中から拾い出されて、独自の歴史の記憶も、記憶に価する事蹟も持たない未開部族を指す言葉として使われるようになるや否や、明確な意味を持つようになる[*16]」。そしてアーレントは、人種とは「アフリカとオーストラリアにしか」存在しなかった人間の分類であり、彼らは歴史上何ひとつ意味をなすことを生み出せなかったため、「独自の歴史の記憶」を持たない人間であると断言するのである。「それとともに人種は本質的に政治的な概念となり、特定の政治的組織形態を指す言葉となる。[……]。この意味での真の人種はアフリカとオーストラリアにしかあらわれなかったと思われる。彼らは今日にいたるまで、完全に歴史と事蹟を欠いた唯一の人間であり、一つの世界を築くことも、自然に手を加えて何らかの意味で利用することもしなかった唯一の人々である[*17]」。

 アーレントに従えば、人間が記憶されるということは、その行為が「詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑」のようなものに包まれ、後世に残るということである。この実証主義的な記憶記述からすると、カリブ海はまさに記憶の外にあるということになる。カリブ海では、先住民が西洋による使役と持ち込まれた伝染病により絶滅に近い状況に追い込まれ、その土地の歴史を語り継ぎ、文化を継承してゆく人々が失われた。代わりの労働力とされたアフリカ系の人々は、ひたすらプランテーションで働く奴隷として非人道的に搾取された。新たな労働力としてインドや中国から運び込まれたアジア系の年季奉公労働者たちは、徐々に祖先の土地との文化的つながりを失っていった。1492の「発見」以降、西洋という理想的な「人間」が住む世界に対し、カリブ海の人々は記憶に値しない劣等な他者という役割を演じさせられ続けてきたのだ。V・S・ナイポールは、彼の故郷であるトリニダードを含むカリブ海に人々が「日付のない時間」を生きていると述べる。「祖父が建て、私が生まれたインド様式の家があったチャグアナスには、日付がなかった。ガンディーが一九一九年にインドで不服従運動を最初に唱えたことを本で読んでいたら、その日付はごく身近に感じられただろう。しかし、チャグアナスのインド人コミュニティーでは、一九一九の出来事はほとんど想像不可能なものだった。いわば回想の向こう側にある時間、神話的時間だった。自分たちの一族、インドから移住してきた祖先についてわかっているのは、周知のこと、つまり話として聞かされたことだけだった。人びとの記憶の向こうには(ときにはその内部にさえ)、日付のない時間、歴史の闇が広がっていた。私たちはみな、(時間と同様、場所にも広がる)そうした闇から来たのだった[*18]」。

 ナイポール自身のトリニダードでの幼少期の経験が反映された小説『ミゲル・ストリート』では、首都ポート・オブ・スペインにある架空のスラム街「ミゲル・ストリート」の住民たちの「何者かになろうとしては失敗する」様が、語り手の目を通して喜劇的に描かれている。しかしその喜劇的な描写には、トリニダードで何者にもなることもできず「日付のない時間」を生きる現実が埋め込まれている。ストリートの住民の中でもエドスという人物は、「ほとんどの少年たちにとって憧れの的」である[*19]。というのも、彼は清掃員であり、ごみ収集のカートの運転手は「街の貴族」だったからだ[*20]。彼らは「朝早くに働くだけで、あとはずっと自由なのだ。そのうえ、いつでもストライキをしていた。たいしたことではなくてもストをした。日当をもう一セント上げろと言ってはストをした。誰かがクビになったらストをした。戦争が始まればストをして、戦争が終わったときもストをした。インドが独立したときもストをした。ガンジーが死んだときもストをした[*21]」。この「街の貴族」たちによるストライキばかりの生活描写に、「日付のある時間」と「日付のない時間」の対比が見事に表現されている。世界では世界大戦が起こり、インドが独立し、ガンジーが死んだ。そのひとつひとつが世界の歴史の流れを作り、日付のある出来事として人々の記憶に残り、語り継がれることになる。しかし一方で、そのような出来事が起こるたびに、トリニダードの清掃員はストライキをするのみであった。彼らの行為は何かを発明したり創造したりするわけでもなく、人々の記憶に残ることはない。ただ、「彼らは自分たちが力を持っていることを知っていた。ストをして、二十四時間以内にポート・オブ・スペインを臭くすることもできたからだ[*22]」。

 そのような見地からカリブ海を眺めるナイポールだからこそ、『中間航路』において、カリブ海にあるひとつの有名な定義を与えたのだろう。「新世界で、祖先が拷問者であれ被害者であれ、過去にまつわる恐怖を知らない者がいるだろうか[……]。この西インド諸島の無益な歴史は、どのようにして書かれるのだろうか。諸島の歴史は決して満足に語ることはできない。残虐性だけが難題なのではない。歴史は達成と創造によって築き上げられてゆく。西インド諸島では何も創造されることはなかった[*23]」。ナイポールにとって、カリブ海は西洋が帝国主義によるその手で撫ぜていった瞬間のみ歴史の舞台に現れることができただけの、「歴史の闇」がただただ広がる無世界的な領域である。そこでは何も創造されることはなく、それゆえ人々のなす行為が「詩の言葉、書かれたページや印刷された本、絵画や彫刻、あらゆる種類の記録、文書、記念碑」になることもない。彼はこの記憶の外側の領域に、自分が生きた証を残すことなく消えてゆくことへの恐怖、「昔から抱えている消滅の恐怖、つまり死ぬことへの恐怖、無に帰すことへの恐怖、押しつぶされそうになることへの恐怖」を感じ、『ミゲル・ストリート』の語り手同様にトリニダードを出て、大きな歴史の時間が流れるロンドンへと逃げ込むのだった[*24]。

ふたつのカリブ海的ヴィジョン

 カリブ海作家たちは、自分たちを常に劣った「他者」たらしめるこの不公平な表象、いわば西洋の外には独自の記憶を持たない「地に呪われたる」人々が存在するという「記憶の欠如理論」とでも呼べる西洋の独りよがりな視点に、そして西洋による「記憶」の記述の独占に、カリブ海の経験を携えた思想と叡智をもって抵抗する。この表象を「非歴史性」と言語化し、それに抵抗する手段を提出したのが、ジャマイカ人詩人・文学研究者のエドワード・ボウである。彼は「西インド諸島作家と歴史とのいさかい」というカリブ海思想史においても非常に重要な論考において、ナイポールの恐怖が「非歴史性の感覚」(the sense of historylessness)に起因すると主張する。彼は、カリブ海作家たちが西洋中心の歴史観と常に「諍い」を起こし、彼らの作品は「我々に自分たちの歴史認識の検討もしくは再検討、つまり何が歴史であるのかという問題を見直させるだけでなく、何が達成となるのかという我々の考え方も検討させる」ものであると主張する[*25]。もし、アーレントの思想において明らかなように、西洋が「記憶」というものを記録や文書、記念碑といった物が積み重なって構築できる直線的な時間の中でのみ受け入れるのであれば、すなわち人類の歴史を不可逆な川の流れとして認識するのであれば、カリブ海の人々は常に「非歴史性」を抱えた存在、そして永遠に「独自の歴史の記憶を、記憶に価する事蹟を持たない」他者という烙印を押されることになる。そのような「決定論的な歴史認識」は、「我々を、実に永久に、歴史の奴隷であり続けるように運命づけてしまう」。それゆえ、ボウはこのように力強く主張する。「もし歴史が『達成したこと』や目に見える記念碑の数々であるなら、我々は歴史を持たず、歴史の外側にいることになる[*26]」。

 常に自分たちを他者化する「決定論的な歴史認識」に対抗するために、カリブ海作家たちは直線的な図式ではなく円環性に身を任せた歴史の認識方法、すなわち「創造的アプローチ」を利用する。彼らは歴史をナイポールのように達成や創造の累積によって一方通行的に発展してするのもとしては描かない。マルティニーク出身の作家・詩人のエドゥアール・グリッサンは、カリブ海作家が「創造的アプローチ」を必要とする理由を、カリブ海にとって「歴史的アプローチによる厳格な要求は、抑制されなければ、手出しが許されないほどの不利な条件となりうるからである」と述べている[*27]。グリッサンは、カリブ海の作家たちによって用いられるこの「創造的アプローチ」こそが、直線的な時間概念を拒否し、過去の記憶を想像で描くことによって歴史を創作する方法であると述べる。「けれども本当のことをいえば、それらの文学の関心事であり、隠された原動力でも意図でもあるものとは、記憶の錯乱にほかならない。そして記憶とは、想像力とともに、われわれが時間を飼い馴らす唯一のやり方を決定するものだ[*28]」。カリブ海の作家たちが実践する特有の記憶記述は、時間というものを自分たちのものとして飼い馴らし、カリブ海の人々の「生きた時間の経験」を語るのである。

作品の中の記憶は、暦の記憶ではないのだ。われわれが生きた時間の経験は、ただ月と年のテンポにしたがうだけではない。プランテーションがその決定的な判決の痕跡となっているように思われる、この〔血統の喪失という〕虚無にも、激しくいきり立つ。われわれの世代は、われわれの系譜が合流した拡大家族のうちに、もつれあっている。そこでは一人一人が、二つの名をもつ。誰もが隣人たちからニックネームをもらい、それがすべての公式の名の、不可欠の分身となるのだ。そしてついにすべてが動くとき、というよりも、すべてが崩壊するとき――止めることのできない運動がプランテーションの閉域を無人化し都市の周縁にその人々を集結させるとき――そこで残ることになるだろうもの、残っているものは、かれらのありえぬ記憶の暗がりの部分であり、それは年代記や人口調査よりも大きく遠くまで届く声で語る。

[*29]

グリッサンいわく、カリブ海作家が作品を通して描く記憶は、カレンダーや時計によって刻まれる直線的な時間によって人類史に刻まれるような記憶ではない。そのような「歴史的アプローチ」によって留められる記憶は、「年代記」や「人口調査」といった目に見える数字として時間の流れの中に現れるものだ。カリブ海作家たちの「創造的アプローチ」は、文書や記念碑などの形として残ることがなかったカリブ海の人々の「ありえぬ記憶の暗がりの部分」を照らし出すのである。

 英仏カリブ海が輩出したふたりの偉大な思想家が、このカリブ海作家による「創造的アプローチ」にそれぞれ「ヴィジョン」という表現を与えている。『カリブ海序説』において、グリッサンは「創造的アプローチ」を「過去の予言的ヴィジョン」という言葉で説明している。このヴィジョンを通して、カリブ海の作家たちは植民地支配によって過去と交わり、忘れ去られた名もなき人々の記憶を現在に描き出す。

しかしながら、我々がさらされた過去は、我々にとって歴史としていまだ現れていないものであり、執拗に現在に存在している。作家の義務は、この強迫観念を探求し、この現在との関連性を連続的に示すことである。この探求はそれゆえ図式的な年代記とも、ノスタルジックな嘆きとも無関係である。それは、西洋が恩恵を受けてきた時間におけるあのプラトー[高原地帯、すなわち高みを意味する言葉:引用者注]や、祖先から受け継がれる文化的中心地域が持つ主要な価値である集合的密度の助けを借りない。その助けなく、それは痛みを伴いながら時間を概念化し、未来へと完全なる投影を特定することへとつながる。それが、私が過去の予言的ヴィジョン(the prophetic vision of the past)と呼ぶものである。

[*30]

グリッサンいわく、この「過去の予言的ヴィジョン」は、西洋が想定する直線的な歴史の時間の流れの中で放り捨てられたカリブ海の人々の記憶を目撃することを可能にするのである。グリッサンは『多様なるものの詩学序説』においても、「過去の予言的ヴィジョン」を歴史家たちによる客観的な歴史記述と対比させながら、このように述べている。「過去は単に歴史家によって客観的に(いや主観的にさえ)再構成されるべきではありません。過去は、みずからの過去をまさに覆い隠されてきた人びとや共同体や文化のために、予言的に夢想されるべきなのです[*31]」。創造や達成などの日付のある出来事の積み重ねとしての歴史に残らないカリブ海の人々の過去は葬られ、「覆い隠されてきた」。そのような過去の記憶を「予言的に夢想」し直し、歴史的事実が決定する未来の外側にある未来の可能性を語る。それが「過去の予言的ヴィジョン」である。

 もうひとりの偉大なる思想家、セントルシア人詩人・劇作家のデレック・ウォルコットは、歴史への「創造的アプローチ」に取り組むカリブ海の作家たちが、「アダム的」(Adamic)と彼が呼ぶ特殊なヴィジョンを携えていると述べる。「彼らの新世界における人間のヴィジョンは、アダム的なのだ[*32]」。カリブ海作家たちのキャンバスは、植民地支配や奴隷制、年季奉公制による暴力と崩壊という過去の痛ましい「歴史的事実」によってすでに色が付けられている。この「歴史的事実」の再生産によって未来を支配する西洋の歴史記述に逆らうために、カリブ海の作家たちは「アダム的ヴィジョン」を通して歴史を想像し直すのである。彼らの特殊なヴィジョンでは、「事実は神話へと蒸発する。これは、太陽の下に何も新しいものを見ることがない色褪せたシニシズムなどではなく、すべてを新しく生まれ変わったものとして見る高揚感なのだ[*33]」。カリブ海作家たちは史実をすべて無視しているわけではない。彼らは「神話、つまり民族の部分的な回想という本来の概念のために、時間としての歴史という考えを否定する」作家たちなのである。すべてのものを「新しく生まれ変わった」ものとして眺め、自分たちの視点で名づけ直す「アダム的ヴィジョン」によって、彼らは歴史を創作として考え時間を飼い馴らすのだ。「彼らにとって歴史とは創作であり、移ろいやすい女神、記憶(a fitful muse, memory)に従うものである。歴史的時間への軽蔑に基づく彼らの哲学は、革命的である[……]。やがてあらゆる出来事が記憶によって行使されるものとなり、捏造されるものとなる[*34]」。カリブ海の作家たちにとって、歴史は常に再解釈に開放/解放された文化的な記憶の宝庫なのである。それゆえ彼らは、歴史家たちが行うような厳格な実証的要求による「歴史的アプローチ」に頼るのではなく、「アダム的ヴィジョン」を通して歴史を語り直すのだ。

 カリブ海作家たちが「過去の予言的ヴィジョン」や「アダム的ヴィジョン」によって表現するのは、ボウが「西インド諸島作家と歴史との諍い」で述べるように、「記念碑や偉大な建築物、世界を形作る出来事といった『目に見える』歴史でなくとも、ここには歴史があるという考えだ[*35]」。彼らは、アーレントが規定するような「人間」の記憶の条件、すなわち「記念碑や偉大な建築物」といった記憶の形を拒否する。そのような「目に見える」歴史を創造的な方法で眺め直すことによって、彼らは覆い隠された人々の過去の記憶を未来へと解き放つのである。

 本連載では、西洋中心的な「人間」の条件として想定されている実証主義的で直線的な歴史観に抗う、カリブ海作家たちの思想的・美学的挑戦を巡ってゆく。そして彼らの「創造的なアプローチ」によって記述される記憶が、いかに「群島的記憶」を描いてゆくかを見ていきたい。そして最終的には、カリブ海作家による「記憶」との諍いによって生み出される記憶の詩学を読者のみなさんにお見せしたいと思う[*36]。


[*1]ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳(東京:筑摩書房、1994年)、9。
[*2]同書、9–10。
[*3]同書、11。
[*4]同書、16–17。
[*5]Earl Augustus, “Hannah Arendt’s ‘The Human Condition,’” VOICES, vol. 1, no. 2 (December 1964), 2.
[*6]Ibid., 3.
[*7]拙著『私が諸島である――カリブ海思想入門』(福岡:書肆侃侃房、2023年)の第一章「ひとつの世界としてのカリブ海」を参照。
[*8]フランツ・ファノン『地に呪われたる者[新装版]』鈴木道彦、浦野衣子訳(東京:みすず書房、2015年)、74。
[*9]Augustus, 3 (my emphasis).
[*10]Ibid.
[*11]エメ・セゼール『帰郷ノート/植民地主義論』砂野幸稔訳(東京:平凡社、2004年)、102–103。
[*12]アレント『人間の条件』、20。
[*13]同書、14。
[*14]同書、149。
[*15]同書、149–150(強調筆者)。
[*16]ハンナ・アーレント『全体主義の起原 2――帝国主義[新版]』大島通義、大島かおり訳(東京:みすず書房、2017年)、138。
[*17]同書、138–39。
[*18]V・S・ナイポール『中心の発見』栂正行、山本伸訳(東京:草思社、2003年)、60(強調筆者)。
[*19]V・S・ナイポール『ミゲル・ストリート』小沢自然、小野正嗣訳(東京:岩波書店、2019年)、54。
[*20]同書、53。
[*21]同書、53–54。
[*22]同書、185。
[*23]V. S. Naipaul, The Middle Passage (New York: Macmillan, 1963), 28–29.
[*24]V. S. Naipaul, quoted in Charles Michener, “The Dark Visions of V. S. Naipaul,” in Conversations with V. S. Naipaul, edited by Figueroa Jussawalla (Jackson: University of Mississippi Press, 1997), 66.
[*25]Edward Baugh, “The West Indian Writer and His Quarrel with History,” Small Axe 16, no. 2 (July 2012): 64.
[*26]Ibid.
[*27]Edouard Glissant, Caribbean Discourse: Selected Essays. Translated by J. Michael Dash (Charlottesville: University of Virginia Press, 1989). 61.
[*28]エドゥアール・グリッサン『〈関係〉の詩学』管啓次郎(東京:インスクリプト、2000年)、96(強調筆者)。
[*29]同書、97–98。
[*30]Glissant, Caribbean, 63–64 (Glissant’s emphasis).
[*31]エドゥアール・グリッサン『多様なるものの詩学序説』小野正嗣訳(東京:以文社、2007年)、122。
[*32]Derek Walcott, What the Twilight Says: Essays (New York: Farrar, Straus and Giroux, 1998), 37.
[*33]Ibid., 38.
[*34]Ibid., 37 (my emphasis).
[*35]Baugh, “West Indian Writer,” 71.
[*36]「詩学」(poetics)は、ギリシャ語の「作ること」(poiesis)に由来し、グリッサンが頻繁に用いたことによってカリブ海の文学・芸術活動に浸透した言葉である。「詩学」は「哲学」と何が違うのか、と思われる読者の方もいるだろう。ここで、西インド諸島大学で私の指導教官であったノーヴァル(ナディ)・エドワーズによる「詩学」の定義を紹介したい。「文学的・文化的な理論的・美学的モデルを構築するために用いられる、技術的戦略や概念的枠組みというより広い意味において、私は詩学という言葉を使います。カリブ海の場合、こうした技術や枠組みは、カリブ海のクレオライゼーションの弁証法に内在する文化的、歴史的、そして言語的な緊張、矛盾、論争、そして雑種性にかかわる理論を生み出すのです。私が『思想哲学』ではなく『詩学』を使うのは、 前者が抽象に始まり抽象に終わるのに対し、後者が実践の現実を伝えるからです」(Norval Edwards, email message to author, April 7, 2024)。すなわち「詩学」は、「哲学思想」のように抽象に始まり抽象に終わるのではなく、カリブ海という世界に寄り添いながらそこに立ち現れる現実(世界観)を語ることのできる言葉で、そこで絶えず実践される特異なるクレオライゼーションが起こす変化の波に従事することができる知的営みと言えるだろう。本連載で展開される「記憶の詩学」は、カリブ海という世界の記憶を携えた物語を巡る試みである。

参考文献

● Augustus, Earl. “Hannah Arendt’s ‘The Human Condition,’” VOICES, vol. 1, no. 2 (December 1964): 2–6.
● Baugh, Edward. “The West Indian Writer and His Quarrel with History,” Small Axe 16, no. 2 (July 2012): 60–74.
● Glissant, Edouard. Caribbean Discourse: Selected Essays. Translated by J. Michael Dash. Charlottesville: University of Virginia Press, 1989.
● Michener, Charles, “The Dark Visions of V. S. Naipaul.” In Conversations with V. S. Naipaul, edited by Figueroa Jussawalla, 63–74. Jackson: University of Mississippi Press, 1997.
● Naipaul, V. S. The Middle Passage. New York: Macmillan, 1963.
Walcott, Derek. What the Twilight Says: Essays .New York: Farrar, Straus and Giroux, 1998.
● アレント、ハンナ『人間の条件』志水速雄訳。東京:筑摩書房、1994年。
● アーレント、ハンナ『全体主義の起原 2――帝国主義[新版]』大島通義、大島かおり訳。東京:みすず書房、2017年。
● グリッサン、エドゥアール『〈関係〉の詩学』管啓次郎訳。東京:インスクリプト、2000年。
● ---『多様なるものの詩学序説』小野正嗣訳。東京:以文社、2007年。
● セゼール、エメ『帰郷ノート/植民地主義論』砂野幸稔訳。東京:平凡社、2004年。
● ナイポール、V・S『中心の発見』栂正行、山本伸訳。東京:草思社、2003年。
● ---『ミゲル・ストリート』、小沢自然、小野正嗣訳。東京:岩波書店、2019年。
● ファノン、フランツ『地に呪われたる者[新装版]』鈴木道彦、浦野衣子訳。東京:みすず書房、2015年。

凡例

・引用文中の亀甲括弧〔 〕は原著者・翻訳者による補足を、角括弧[ ]は引用者による補足を意味している。
・引用文献のうち、邦訳のないものはすべで引用者が原文から訳し起こしている。

著者略歴

中村 達(Tohru NAKAMURA)
1987年生まれ。専門は英語圏を中心としたカリブ海文学・思想。西インド諸島大学モナキャンパス英文学科の博士課程に日本人として初めて在籍し、2020年PhD with High Commendation(Literatures in English)を取得。現在、千葉工業大学助教。主な論文に、“The Interplay of Political and Existential Freedom in Earl Lovelace's The Dragon Can't Dance”(Journal of West Indian Literature, 2015)、“Peasant Sensibility and the Structures of Feeling of "My People" in George Lamming's In the Castle of My Skin”(Small Axe, 2023)など。日本語の著書に『私が諸島である――カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)。