バンクーバー編② 終わりのない抵抗|虹はいまだ旅の途上——李琴峰のクィア的紀行
眠っているうちに1時間盗まれた。
北米はこの日(3月10日)から夏時間に入り、時計が1時間先に進んだのだ。手動で調節しなければならないアナログ時計なら1時間失われた実感も湧くが、今時ほとんどの時計はインターネットや電波で自動的に調節されるのでまったく実感がない。あ、そういえばそうだった、くらいの感覚だ。疲れがたっぷり溜まっていたのでぐっすり眠れて、朝起きた時はすっきりしていた。時差ボケもない。
外に出たらまた雨が降っていた。バンクーバーは冬から初春にかけて雨が多く、「レインクーバー」の異名を持つほどだ。緯度が高いこともあり(札幌より高い)、冬季は夜が極端に長くなって陰鬱な日が続く。そのせいで季節性鬱病になる人も多いと聞く。
ロビーに下りると、Sさんはもうそこで待っていた。彼はUBCでクィア研究をしている日本人の大学院生であり、今回は事務的な手続き関係で事前に私とメールのやり取りをしていた。私の講演は明日なので今日一日空いており、そこで彼がキャンパスの案内役を買って出てくれたわけだ。
私とSさんは近くのカフェで朝食兼昼食をともにした。カフェの窓の外で、一本のトーテム・ポールのような柱がかなり目立ったところに建っており、双頭の蛇の彫刻が施されているのは遠目でも分かる。Sさんの解説によれば、あれはマスキーム・ポスト(Musqueam Post)と言って、UBCのランドマークの一つである。
UBCが位置するこのポイント・グレイは、もとは先住民マスキーム族の伝統的な領域だったが、植民者の武力によって奪われた。植民地主義の歴史への反省が進んでいるカナダでは、ここが先住民族の固有の土地であることを忘れないために、様々な取り組みが行われている。
マスキーム族の伝統的な言語(ハルコメレム語)で地名を表示するのがその一つである。ハルコメレム語は固有の文字を持たないため、「アメリカ音声記号(Americanist phonetic notation)[1]」で表記することになる(これは「国際音声記号[2]」とはまた違う)。例えば、
・xʷməθkʷəy̓əm:マスキーム族
・hən̓q̓əmin̓əm̓:ハルコメレム語
・sʔi:ɬqəy̓:双頭の蛇
・stal̕əw̓:川
などである。UBCのキャンパス内では至るところでこの表記が見られ、今回の学会の冊子にも使われている。
マスキーム・ポストもまた、植民地主義への反省と、先住民との和解の印とするために建てられたものだ。説明板によれば、この柱が建てられたのは2016年で、柱は「マスキーム」の名前の起源にまつわる物語を表現しているという。
その伝説はこうである。マスキーム族の人々は若い時から、双頭の蛇の棲み処だったカモサン沼に近づかないようにと警告されていた。近づくと必ず死ぬからだ。その蛇は途方もなく巨大で、蛇が這って進んだ跡は今日まで残るフレーザー川となった。蛇が通った道ではすべての生き物が死に絶えたが、その排泄物から「məθkʷəy̓(マスキー)」という新しい植物が大量に咲いた。だからこそ、この地は「マスキーム(マスキーの地)」と呼ばれるようになったという。
北米しかり、オーストラリアしかり、植民地主義の歴史と真正面から向き合おうとする政府の姿勢に、私は敬意を覚えずにいられない。和解のプロセスはもちろん短期間で達成できるものではないが、それでも過ちを認めなければ何も始まらない。
後になって知ったのだが、オーストラリアのアボリジナルの「盗まれた世代」と同じように、バンクーバーが位置するブリティッシュ・コロンビア州でも、過去には十数万人を超える先住民の子どもが無理やり親から引き離され、カトリック系の寄宿学校で暮らすことを強制された。白人の入植者による同化政策である。子どもたちは寄宿学校で虐待を受け、数千人が死亡したという。
この同化政策は現在では「文化的ジェノサイド」として位置づけられている。2022年、ローマ教皇はカナダを訪れ、カトリック教会の過去の非行を公式に謝罪した。報道によれば、教皇は今回の訪問を「改悛の巡礼」と呼び、「許しを請い、深くお詫びする」と謝罪したという[3]。
そのことを知った時、私は複雑な気持ちになった。先住民への迫害行為についてはもちろん謝罪すべきだが、キリスト教をはじめ、宗教の名の下で行われてきた悪事はこれだけではあるまい。クィア・コミュニティもずっとキリスト教的な論理によって抑圧され、迫害されてきたのではないか。クィアの人々は投獄され、処刑され、あるいは電気ショックなどの転換療法を強いられてきた。とりわけ同性愛者に対する転換療法は、マイノリティのアイデンティティを軽視し、マジョリティ側に矯正しようとするという意味で、同化政策と理を一にしている。いずれも植民地主義の一形態にほかならない。
私がカナダから帰国した僅か1か月後、2024年4月、ローマ教皇が「性別適合手術は人間の尊厳を脅かす」という趣旨の文書を承認したことが報じられた[4]。世界的な反トランス的なバックラッシュに、バチカンも乗っかった形だ。
何たる愚行かと、ニュースを見た時に嘆かずにはいられなかった。いつまでも過ちから学習しない人々だ。10年後、20年後、あるいはもっと先になるかもしれないが、それでもいつかきっと、2022年の「改悛の巡礼」のように、ローマ教皇はこの文書と、そしてクィア・コミュニティに対して行ってきた歴史的迫害について、謝罪することになるだろう。
UBCのマスキーム・ポストの説明板の周りには大小様々な形の石が置かれている。それらの石にはスイカやパレスチナ国旗の絵、あるいは「Palestine will be FREE」「free Palestine」などのメッセージが書いてある。パレスチナとマスキームの共通点は何だろう、と私は首を傾げたが、答えは一つしかない。それは、植民地主義に対する終わりのない抵抗である。
(つづく)
[1] アメリカ先住民を研究する欧米の人類学者や言語学者が発展させてきた音声記号。North American Phonetic Alphabet (NAPA)ともいう。
[2] あらゆる言語の音声を表記すべく、国際音声学会が定めた音声記号。いわば言語学者の共通言語。
[3] 平田雄介「ローマ教皇、カナダで謝罪の旅 教会が先住民の子供を虐待し強制同化に加担」『産経新聞』2022年7月29日(https://www.sankei.com/article/20220729-IKDO5MJMZBM67ATQRKPTLRXXTM/):最終閲覧日2024年8月18日。
[4] 宋光祐「性別適合手術「人間の尊厳脅かす」 バチカンが新文書、教皇も承認」『朝日新聞デジタル』2024年4月9日(https://digital.asahi.com/articles/ASS486R2QS48UHBI03WM.html):最終閲覧日2024年8月18日。