見出し画像

コモンズを破壊しない建築は可能か?|まちは言葉でできている|西本千尋

 銭湯が好きだ(人が好きだと書けない性格なので、代わりにこう書く)。銭湯のあるまちに住む人が羨ましい。わたしにとって、銭湯はとくだん、何が起こるわけでもない。ただ人間がいて、めいめい、ただ風呂に入るだけだ。しばしば真っ裸でけっこう深いコミュニケーションを交わしているおばあさんたちに出会う。丸聞こえだ。病気のこと、他人の噂話、誰々さんの消息、誰々さんの娘婿の職業、芸能人のはなし。その人たちの生活や人生が、扇風機の音、ドライヤーの音、遠くでたらいがタイルを叩く音の合間を泳いで伝えられる。わたしも同じく真っ裸で、内心爆笑しながらも、顔に出すことなく、さっと着替えて、外に出る。こういう「人臭い」場所が好きなのだ。

 だが、わたしたちのまちから、確実にそういう場所は消え去っている。たとえば、「東京の銭湯は、戦後の最盛期2700軒近くあったが、現在その数は500を切る」という。2週間に1軒ほどのスピードで、失われている[*1]。ということは、このペースでいったら、あと数十年で都内からなくなってしまう。もっと早い可能性だって十分にあるだろう。でも、数件、数十件、残ってくれるとしたら、もしかするとその中には、今回登場する栗生くりゅうさんが関わっている場所があるかもしれない。

「建てる」に興味がない建築家

 栗生はるかさんという人がいる。文京建築会ユースの代表で、一般社団法人せんとうとまち(以下、「せんとうとまち」[*2])の代表理事でもある。彼女は、銭湯をはじめとした歴史的建築物の保存活動をしている。銭湯をはじめ、地域と結びついてきた建築物が失われる中、建築物とまちをつなぐ数々のイベント展開、文化発信、地域住民との対話、所有者の支援、場の再生などを手掛けてきた。ただ、彼女の仕事は、通常の建築家とはだいぶ違う。建てることに興味を持たず、「建てる」以外のあらゆることをして、「人臭い」場所を守っているのだ。 

 彼女はまず、人を見る。次に地域、暮らしを見る。最後に建築を見て、どう手当てするかを決める。例えばこんな人がいたとする。その人の暮らしは、当初は安定していた。しかし、諸事情(当該地域の再開発、地上げ、相続等の立ち退き)によりその安定を失った。彼女はその人の苦境に寄り添い、話に耳を傾け、地域で孤立してしまわないようにする。そういった活動を、「建築」の立場から試みる(ここで、中井久夫の「建物は人間と呼吸し合いながら生きている」という言葉を思い出すのもいいかもしれない[*3])。

 繰り返すが、まず人がいて、地域と暮らしがあって、その関係性のたばが建築をつくり、支えるのであって、その逆ではない(建築家やまちづくり屋は、この順番がすぐに逆になる)。彼女が銭湯や歴史的建築物の手当てに関わるのは、それらの建築物が絶滅危惧種のように古くて希少だから、というわけではない。それらの建物が、現にその地域で暮らす人と長く、かつ、さまざまに結びついてきたつながりの束を持っているから、そうするのである。

地下水というコモンズ

 ところで、銭湯の減少理由は、「家風呂の普及に始まり、建物の老朽化、担い手の高齢化、後継者の不在、相続問題、燃料費の高騰」、あるいは「その土地の広さからマンション・デベロッパーに狙われやすいという事情」などがあるという。

 いつだったか、彼女が銭湯を中心としたある地区のマップをくれた。そこには、地下水でつながる地域の関係図・資源図のようなものが示されていた。今なお生命線として機能している、コモンズ(共有財)としての地下水――。だが、周囲のマンション建設により井戸水が影響を受け、使用できなくなったりすることもよくあるらしい。文字通り、その生命線が絶たれれば、暮らしや商いが立ち行かなくなる人もいるだろう。小さな個人が自由に生きていくための、そうした個々人(他人と他人)が支え合い共存していくためのコモンズは、喪失の危機に瀕しているとも言える。地域の人と長く、かつ、さまざまに結びついてきたつながりの束、としてのコモンズ。彼女の活動の真価は、その回復にこそある。

 「銭湯が消えることによって、銭湯を中心につながっていた地域の生態系ともいうべき関係性が崩れ、まちが一気に変貌してしまう[…]銭湯の隣にあった床屋が解体され、銭湯客が通っていた近隣の中華屋が閉店し、暗くなった夜道は無人となり、近くの風呂無し長屋が住めなくなって更地となる。何よりも、1日の唯一の楽しみと通っていた高齢者たちはどこへ行ってしまったのか」[*4]

廃業・解体を食い止めるために

 先日、彼女が代表をつとめる「せんとうとまち」で改修等を手がけた、東京都北区たきがわにある大正3年創業の「稲荷いなり湯」と隣接する「稲荷湯長屋」を訪れた。JR埼京線板橋駅、都営三田線西巣鴨駅から徒歩5、6分のところにある。稲荷湯は築年数90年を超える歴史的建築物。宮造りの銭湯として、「戦前の東京における銭湯の様相」を伝えるものだという。

 「せんとうとまち」は、「稲荷湯」と「稲荷湯長屋」の国の登録有形文化財化を手伝った。登録が叶った2020年には、同銭湯はワールド・モニュメント財団によって世界中の危機的遺産「ウォッチ・リスト」の一つに選ばれ、修復・耐震工事を行うことができた。修復や耐震工事は莫大な費用がかかり、廃業理由の一つでもあるから、これでまた一つの銭湯が生き延びたことになる。

 また、彼女たちは銭湯だけでなく、東隣にある、かつて銭湯の従業員の住まいとして使われていた二軒長屋の保存・再生にも大きく貢献した。1棟は原型に近い形に復元し、もう1棟は地域に開かれた自由な土間と小上がり空間に生まれ変わった。金、土、日の16時〜20時は「湯上がり処 地域サロン」として飲み物や、季節に応じたちょっとした小料理が食べられる「仮設」の空間となる。奥には、この建物の復元工事の時に出てきた古新聞だったり、おうの写真があり、囲碁や将棋などのおもちゃ箱、絵本棚もある。

 「銭湯に馴染みのない客も、長屋を自由に使うことができるように」――その言葉通り、わたしの訪れた日も、風呂上がりにビールを飲む人、ジェラートを食べに来る人、近くに住む老若男女、家族連れ、スイスから来たという文化人類学者など、本当に多くの人が出入りしていた。その中、おんとし90くらいだろうか、おばあさんがゆっくり押し車を引いて長屋前までやってきて、木製の引き戸を開けようとしているのが見えた。「昨日、関東大震災のことをNHKでやっていたけど、うちにもそういう本があったから」。「せんとうとまち」で一緒に活動するサムと彼女に手渡されたのは、『大正大震災大火災』と『東京市立小學校どう震災記念文集』の2冊。皆で少しだけ回し読みをした。

 人々の暮らしを、生活の声や言葉を、根こそぎスクラップしてしまうような「まちづくり」が少なくない中で、彼女たちはそうしたものを支えられるように、懸命に手を伸ばそうとしてきた。先のおばあさんの、ニッと笑った後の少し気恥ずかしそうな表情、だったように思う。忘れないだろう。

なぜ守れないのか

 ところで、なぜ、こうした「人間と呼吸し合いながら生きている」ような古い建築物――深いコミュニケーションが交わされる/交わされてきた場所――を守り継ぐことが、こんなにも難しいのだろうか。実際、その道はまったくないとは言わない。ある。ただ、非常に限られている。

 たとえば、公的な各種制度を利用すると(今回の場合でいえば国の登録有形文化財への登録)、一定の補助金や税制優遇が得られるが、金額は決して十分とはいえない。中には、文化財にしてしまうとがんじがらめの規制にあい、一切の自由を失ってしまうのではないかとそれを拒む所有者も少なくない。守るためにせっかく用意された制度も、利用障壁が高く、使われなかったりする。

 日本の歴史的建築物は、単純化すると3つの法律に関わっている。一つは、先ほどの登録有形文化財にも関わる「文化財保護法」(文化庁)[*5]、二つ目は「建築基準法」、「都市計画法」[*6]などのまちづくりに係る法(国土交通省)、三つ目は、「消防法」(消防庁)[*7]である。結論を急ぐと、日本の多くの歴史的建築物は、上記の法律で十分にカバーできなかった、すなわち「文化や歴史」と「都市の健全な発展」の両立が叶わなかったために、その多くが失われてきた[*8]。わたしたちのまちには、文化財には至らないが歴史的な建築物(文化財未満の建築物)である、というものが少なくない。それらは「文化財保護法」の適用外、補助対象外であり、まちづくりの中には居場所をごく最小限しか持ちえなかった。この連載に引きつけて言えば、わたしたちは(文化財未満の)歴史的建築物を守り継ぐ十分な「言葉」を持ってこなかった、ということになる[*9]。

 わたしたちのまちの構造的な課題は、「文化や歴史」と「都市の健全な発展」という2つがそもそも対等でなく(後者に圧倒的な比重が置かれて資源配分がなされているために)、「文化や歴史」を基盤にした都市計画・まちづくりの仕組みが存在しない点にある(詳細の説明は省くが、もちろん、必死にこの2つの分野の架橋が試みられてきたから、そのような仕組みも部分的には存在する[*10]。今日、わたしたちのまち、もしくは観光地で、歴史的・文化的な建物や現れが残っているのはそのためである。しかし、それでも、「文化や歴史」が部分的にしか制度的な居場所を得られていないこと、それらを守り継ぐ「言葉」を持てていないことは問題である)。

 神宮外苑の問題も、堀り下げればそこに行き着く。栗生さんの言葉を借りるなら、「都市の歴史や文脈を無視して建物が建」ってしまう制度があり、そのような制度があるのならば当然、建築・不動産業者はそのように建てるのである。

 栗生さんは、大学で建築学を専攻し、現在、前述のような活動の実践・研究・教育に携わっている。背景には、彼女の愛してやまないイタリアへの留学がある。当地で古い建築物を残しながら、さまざまに創意工夫をして、人々が都市をとことん楽しむ「仮設物」の事例を数多く体験したことが、「今につながっている」という。

「根の張ったものは建てたくないと思った。ものすごく大きな責任を持つから」

 彼女がそう話すのを、わたしはドキドキしながら聞いていた。

 なお、「仮設物」とは、期間を定めて一時的に都市に現れる建築物(屋台に代表される仮設店舗、仮設ベンチ、仮設テント等)を指すが、催事やイベントを伴うことも少なくない。「仮設物」の特徴としては、各種法規制から比較的自由であるという性格があるほか、常設の「建築物」の持つ権威や権力構造に取り込まれず、時にはそれに対抗しようと試みることのできる存在でもある。道路や広場といった公共空間と親和性が高い、とも言える。

 本稿でも紹介した「稲荷湯長屋」の週末限定開放だけでなく、銭湯山車だし[*11]の製作、そのほか各種ツアーやイベントなど、彼女はその自由な「仮設物」を通じて、建築とまちの間の細い糸を何本もつなぎ直しながら、暮らす人々に寄り添ってきた。結果として、「根の張ったものを建てたくない」はずの彼女は、建てた人(建築家)以上に、人や建築やまちに長く根づき、大きな責任や役割を引き受けることになった。彼女はいつも所有者や、地域でその建築を使いながら生活する人々とともにいる。その「言葉」の傍らにいる。

 彼女の活動に憧れ、各地で実践しようとする人も少なくない。建築家としゅ(クライアント)、建築家と利用者、建築家と地域住民。元来の職能においてはガチっと固定化された関係、あるいは無関係を超えて、彼女のような建築家の存在のあることのうれしさとよろこびを噛み締める。そして本当はその苦悩[*12]に寄り添うための筆を取らなければならないのだが、今回は力不足で叶わなかった。


【注釈】

[*1]銭湯の現状については「せんとうとまち」ウェブサイトを参照。

[*2]参考:一般社団法人せんとうとまち公式ウェブサイト

[*3]中井久夫「都市、明日の姿」『昨日のごとく――災厄の年の記録』みすず書房、1996年。

[*4]栗生はるか「銭湯から考えるまちづくり」『区画・再開発通信』2023年7月。

[*5]参考:文化財保護法

[*6]参考:建築基準法都市計画法

[*7]参考:消防法

[*8]歴史的建築物の減少には、法制度以外の理由ももちろん存在する。栗生さんは銭湯の減る理由として「相続税・相続問題」「建物の老朽化」「担い手の高齢化」「後継者の不在」等を挙げているが、これらは同様に、歴史的建築物にも当てはまる。また、歴史的建築物の保存・承継のハードルは「資材入手の困難さ(価格上昇、建築資材入手ルート滅失)」や「職人(技術者)の高齢化・減少」等からも高まっている。

[*9]「歴史的建築物」は現行法(建築基準法)に基づき、特に耐震や防火の観点において「数値化された安全性」で評価しようとすると、低い評価になることが少なくない。したがって、それらを現行の法律にしたがって残そう、直して使おう(例:用途変更や増築、大規模修繕等をしよう)とすれば、それに多くの費用と時間がかかることになり、現実的には残せない(つまり壊して新築したほうが安くて早い)仕組みとなっている。
 また、現行法通りに改修すると、歴史的な建築物特有の意匠や形態を残すのが難しいというそもそもの課題もある。例えば、「防火・準防火地域」(私たちの暮らす市街地の多くは「都市計画」でこの指定を受けている)などでは建物の不燃化・難燃化が目指されるため、その地域にあるまちを現行法通りに改修しようとすると、外部の開口部に木材を使えず、アルミサッシ等の防火基準のあるものに変える必要がある。また、歴史的建築物を不特定多数の人々が使うことのできる場所(例えば、カフェや宿など)として活用しようとした場合、元々は無かった箇所に、新たに耐震のための「壁」をたくさん設ける必要が出てきたりもする。これらはほんの一例だが、町家とは、歴史的建築物とはなんぞや、という話となる。その結果として、日本において「文化財保護法」に制度的回路を持たない歴史的建築物の多くは、漸次的に滅失してきた。
  そんな中で、新たに自ら「言葉」を得た自治体もある。例えば、京都市は京町家を守るためのルールとして、「建築基準法」を適用除外し、「京都市歴史的建築物の保存及び活用に関する条例」(平成24年)という自主条例を策定することで、文化的・景観的に特に重要なものとして位置づけられた京町家を、安全性を担保しながら合法的に継ぐ回路をひらいた。京都市だけでなく、この動きは現在全国25自治体に広がっている。ただし、先行し、最も同条例が活用されている京都市においても、平成24年の制定以降、現在までの活用は34棟に留まっている。残存する京町家は約4万棟、そのうち、年間800棟程度が滅失(参考:京町家まちづくり調査)している中、残念ながら、状況の処方箋となるまでには至っていない。

[*10]「文化や歴史」と「都市の健全な発展」の架橋を図るよう生み出された諸制度として、「風致地区」、「美観地区」(大正8年〈旧〉「都市計画法」)、「歴史的風土保存区域」、「歴史的風土特別保存地区」制度(昭和41年「古都保存法」)、伝統的建造物群保存地区(昭和50年「文化財保護法」改正)、「地区計画」(昭和55年)、「景観地区」、「景観重要建造物」(平成16年「景観法」)、「歴史的風致形成建造物」(平成20年〈愛称〉「歴史まちづくり法」)などがある。あなたのまちで見かける歴史的な建物や景観、風致はこれらの制度がなんらかのかたちで活用されたものであろう。

[*11]2021年7、8月、東京ビエンナーレ。廃業した銭湯から譲り受けた建材や備品を用いて「銭湯山車」(文京建築会ユース+栗生はるか、さんもんまさうちうみこうへい、村田ゆう)なるものが巡行された。「今はなき銭湯をとむらい、今を生きる銭湯を寿ことほぐ」、つまり、銭湯の跡を巡りながら銭湯の記憶を掘り起して、現役銭湯をめぐる企画、とのことだ。
 銭湯山車の写真を見たわたしは、自室のパソコンの前でお腹が痛くなるほど笑った。彼女たちは、保存運動の中で、たとえ解体が決まったとしてもその事実に立ち止まらずに、もう2度と手に入らないとして、銭湯の建材、職人技の光る建具、富士山の絵、タイル絵、ポスター、ケロリン洗面器、ロッカー、蛇口、扇風機、大時計、カゴ、下駄箱などを廃材や廃品とせずに、できる限り保管してきた(保管場所はどうしたんだろう、こんな大都会で、という感じではあるが、彼女たちは奇跡的にその場所を見つけることができたのである)。
 それらを使って、解体された歴史的建築物である銭湯を、今度は動産の山車に変身させて、まちに再び出現させようという取り組み。山車といえば、その都度解体され、年に数日の祭りの日にだけ組み直される「仮設」の元祖みたいなものでもある。確かに、町内(コミュニティ)所属の山車でなく、「せんとうとまち」というアソシエーション所属の山車があったっていい。2023年の巡行実績としては、神田祭がある。神出鬼没だがこの秋、10月1日~31日に墨田区で開催される芸術祭「すみだむこうじまEXPO2023」にて屋外常設展示が、さらに10月9日と10月22日には簡易的にではあるが巡行を開催予定とのこと。関心のある方はぜひ。

[*12]お気づきになった方も少なくないと思うが、そもそもなぜ、彼女たちの活動を海外のワールド・モニュメント財団が支援しているのか。同財団の支援理由は、本活動への支援が「日本に遺る数百軒(*)の銭湯のモデルとなるような地域の解決策をサポートする」ことになるからだという(参考:World Monuments Fund「Inari-yu Bathhouse」)。日本の財団、企業、市民は、なぜそうした活動を支援できないでいるのだろうか(*実際、日本に遺る銭湯は千棟以上とされる)。
 ところで、彼女たちの取組は、建築専門雑誌『新建築』2023年9月号に取り上げられ、ウェブ版では、本稿でも取り上げた「稲荷湯長屋」がトップ画像を飾っていた。嬉しい。だが、栗生さんが同誌に寄せた記事を読みながら、ふとした疑念が頭をもたげる。つまり、同誌には「建築」が建築家の「作品」のように掲載されているのだが、わたしたち読者は、彼女の活動をも建築家の「作品」と見立て、彼女は古い建物が好きだから「作品」としてリノベして蘇らせたのである、などという誤った理解にもとづいて礼賛しているのではないか、という疑念である。
 部分的にはもちろん、当てはまるところもあるのかもしれない。だが、そうした理解は、彼女の活動の本意を不可視化ないし矮小化しているのではないか。わたしたちは、彼女のまなざしが「建築」ではなく、それよりはるか手前にある「人」に届いていることを、そもそも理解できているのだろうか。もしそれが理解できないのだとすれば、それはいかにも、わたしたち建築・まちづくり分野らしい悪弊である。

著者:西本千尋(にしもと・ちひろ)
1983年埼玉県川越市生まれ。埼玉大学経済学部社会環境設計学科、京都大学公共政策大学院卒業。公共政策修士。NPO法人KOMPOSITION理事/JAM主宰。各種まちづくり活動に係る制度づくりの支援、全国ネットワークの立ち上げ・運営に従事。埼玉県文化芸術振興評議会委員、埼玉県景観アドバイザー、蕨市景観審議会委員、歴史的建築物活用ネットワーク(HARNET)事務局ほか。
大学時、岩見良太郎(埼玉大学名誉教授/NPO法人区画整理・再開発対策全国連絡会議代表世話人)に出会い、現代都市計画批判としてのまちづくり理論を学ぶ。2005年、株式会社ジャパンエリアマネジメントを立ち上げ、各地の住民主体のまちづくり活動の課題解決のための調査や制度設計に携わる。主な実績として、公道上のオープンカフェの設置や屋外広告物収入のまちづくり活動財源化、歴史的建築物の保存のための制度設計など。
以上の活動経験から、拡大する中間層を前提とした現行の都市計画、まちづくり制度の中で、深まる階層分化の影響が看取できていないこと、また、同分野においてケアのための都市計画・まちづくりモデルが未確立であることに関心を抱くようになる。2021年、その日常的実践のためNPO法人KOMPOSITIONへ参画。同年、理事就任。

連載『まちは言葉でできている』について
都市計画は「都市の健全な発展と秩序ある整備を図り、もつて国土の均衡ある発展と公共の福祉の増進に寄与すること」を目的に掲げ、新自由主義体制の下、資本の原理と強く結びつきながら、私たちの生活の場を規定してきた。そうした都市計画制度の中に、住民や市民が登場することはほとんどなかった。しかし今、経済成長と中間層拡大という「前提」を失った都市は、迷走している。誰のための都市なのか、それは誰が担うのか……。
「都市計画」はそもそも得体が知れない。だからこそ私たちは、それと対峙し、言葉で批判を展開するのに苦労する。しかも、言葉を飲み込んでしまえば、その沈黙は計画への「同意」を意味することになる。望んでもいなかったものが、望んだものとされてしまう。あまりに理不尽で、あまりに摩訶不思議な世界ではないか。
本連載では、「みんなのため」に始まる都市の暴力に屈しながらも抗うために、「わたしたちのまち」を「わたしたちの言葉」で語り直すことから始めたい。都市計画やまちづくりのもつ課題を「ケア」の視点からパブリックに開くためにも、「言葉」を探っていきたい。

この記事が参加している募集

仕事について話そう