本刷る家康:華やかな古活字版
『どうする家康』が絶賛放送中ですね(でした)。
天下統一で名高い徳川家康ですが、本好きの読書家、さらに古典を集め、出版にも関わったのはご存知でしょうか。
今回は、前回のnoteの続きで、日本の活字印刷が盛行した江戸初期あたりの出版事情を見ていきます。
前編はこちら。
活字が来た!2方向から
江戸時代に入る直前、ヨーロッパと朝鮮の2方向から「活字印刷」の技術がもたらされました。
「活字印刷」は、いわゆる「活版印刷」のことで、1文字ずつ文字が彫られた小さな「活字」を並べて組版し、印刷する方法です。
現代でも、活版印刷で作った名刺やポストカードが、レトロな雰囲気で人気かと思います。
この活字印刷の技術を用いて、江戸時代初期(文禄~慶安年間)に製作された本を、「古活字版」といいます。
活字はバラして別のページや作品に再利用できるので省スペースでエコな感じがしますが、最初に決めた部数しか作られないため、数の少ない贅沢品でした。
キリシタン版
ヨーロッパから輸入された活字・印刷機は、九州のキリシタン大名の代理としてヨーロッパに派遣されていた、天正遣欧使節が、天正一八年(1590)に持ち帰ってきたものです。
印刷機は長崎の加津佐や、天草のコレジオ(イエズス会の学校)に置かれ、ローマ字・国字両方の活字で、キリスト教関連の本や宣教師の日本語学習のための本が印刷されました。これらが「キリシタン版」です。
しかし禁教令によって活字や原本は失われてしまい、現存する数も少ないので、生きている間に現物が見れたらラッキーといったところ。
朝鮮活字に影響を受けた勅版
朝鮮からの活字・技術は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に持ち込まれ(奪ってきた)、秀吉はこれを後陽成天皇に献上しました。
高麗では13世紀に早くも金属活字の技術が発明されていたので、この時伝わったのも金属(銅)活字だったのでは?と言われていますが、詳細は不明です。
現存はしませんが、文禄二年(1593)には後陽成天皇が『古文孝経』を刊行したという記録があります(『時慶卿記』)。
さらに慶長二年(1597)には、朝鮮活字を真似して作った木活字で、漢詩文集の『錦繍段』と、朱熹の『勧学文』を刊行しています。
『勧学文』は、“今日勉強しなくても明日があるし〜と思うな!”という有名な詩です。
このように天皇の命によって刊行された本を「勅版」と呼びます。
これにあたるのは、後陽成と、続く後水尾の時代に刊行された十数種のみです。
家康の印刷事業
伏見版
後陽成に刺激されたか、家康は木活字を作らせると、自身が登用していた僧侶に命じて、漢籍を刊行させます。
足利学校の庠主(校長先生)であった三要元佶(閑室和尚)もその一人で、出版に尽力しました。
三要元佶が後に伏見の圓光寺の開山となり、ここでも印刷が行われたため、この時期の古活字版刊行物はまとめて「伏見版」といいます。
伏見版には、儒学の説話である『孔子家語』や、兵法書の『三略』、為政者の必読書とされた『貞観政要』、家康熟読の歴史書『吾妻鏡』などがあります。
「戦国時代真っ只中に、本づくりなんて呑気だなぁ~」と言われそうですが、自身の重んじる思想を教育させて、政治理念を普及するという家康の政治的な意図を読み取れます。
伏見版は他の武将にも影響を与えています。
豊臣秀頼は秀頼版『帝鑑図説』(しかも絵入り)、上杉家の家老・直江兼続は直江版『六臣註文選』(南宋の五臣注+唐の李善注=六臣注)を刊行しました。
駿河版
家康のもう一つの出版事業が、「駿河版」です。
将軍を2代目秀忠に譲り、駿河(静岡)の駿府城に移った家康は、儒者の林羅山と僧侶の以心崇伝(金地院崇伝)の側近二人に命じて、朝廷の朝鮮版活字を参考に新しく銅活字を鋳造させました。これが最初のMade in Japan 銅活字です(重要文化財)。
この駿河版銅活字を用いて、駿河版『大蔵一覧集』と『群書治要』が開版されました。
『大蔵一覧集』は、宋・陳実の編、仏教経典類の集大成である『大蔵経』から重要な部分を抜粋した書。『群書治要』は、唐・太宗の時、家臣の魏徴が『四書五経』などの古典から政治の要諦をまとめた書です。
和書も活字で!嵯峨本
これまで刊行されてきた古活字版の活字は、漢字がほとんど。刊行される本も、漢籍ばかりでした。
しかし京都では、ひらがなの古活字を用いて、『伊勢物語』や『徒然草』といった日本の古典が刊行されました。角倉素庵が監督した「嵯峨本」です。嵯峨野で印刷されたので、こう呼びます。
角倉素庵は、京都の豪商である角倉了以の息子。能筆家としても有名です。
「嵯峨本」の出版には、書の先生であった本阿弥光悦も関わったと言われています。
「嵯峨本」の特徴は、何と言ってもその美しさ。パッと見では、写本にも見えます。
活字にもこだわりが見られ、ひらがな2,3文字がひと続きで書かれた状態を再現するために、わざわざ「連綿体」の活字を作っています。
古活字版はなぜ衰えた?
要人によって競うように作られた古活字版ですが、盛行したのは60年ほど。この短い期間にしか作られなかったのは何故でしょうか?
背景には、人々の識字率の上昇と、本作りのビジネス化があります。
本の需要が高まれば、安く何度も印刷できる、整版印刷の方が向いています。
活字本は再版が決まっても、もう一度、一から活字を組まなくてはなりませんからね(異植字版という)。面倒です。
また、漢籍の場合は、今の教科書のように、返り点や送り仮名が書かれていた方が読みやすい。
しかしそういった細かい文字を活字で組むのは難しく、だったら最初から彫っちゃった方が楽だ、ということで、江戸時代中期以降、整版が再興したのです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
昔、博物館の展示で古活字版の本を見て、「古い活字で印刷した本なのかな」と思っていたのですが、全然違いました!(^o^;)
改めて考えると、日本の出版は、
整版 ▶︎ 活字 ▶︎ 整版 ▶︎ 活字
という流れを辿っているわけですね。
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