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[連載小説] 「青春の外堀 -TOKYO1980」第三話<神楽坂>

第三話『神楽坂へ。スポーツ外堀新聞会入部』

入学式が武道館であって、何日か後にガイダンスがあって、その後はいろんなサークルの勧誘がワイワイ行なわれる。「かしゆお」は、入りたいサークルをもう決めていた。「スポーツ新聞部」に入りたかったのだ。神宮の野球に憧れていたのだ。もともと、小学校から剣道部で、野球をやってたわけでもないが、大学生になったら神宮球場で野球の応援に行きたかったのだ。で、学部も社会学部社会学科というところで、マスコミ志望の学生が多いということもあったが、大学に入りたての頃は、将来、漠然とマスコミに行きたいと思っていた。なので、神宮×マスコミで「スポーツ新聞部」に入ろうと思ったのだ。各大学にスポーツ新聞部というのはあったが、外堀大学の場合は「スポーツ外堀新聞会」という名前だった。ガイダンスの日に、あたりを見回したら、チラシだかポスターだかがあって、入会説明会は「◯◯◯」教室と書いてあったので、早速行ってみた。断っておくが、この頃まだ、頭にはしっかりパーマが残っていたのだ。くるくるが少し長くなって、余計なんだか変な頭だった。その後、女の先輩に言われた。「いたいた。後ろの方に変な頭の、変なのがいた。覚えてる」。その時どんな説明を受けたか、まるで覚えていないが、事務所という場所に連れて行かれた。

そこは、大学のキャンパスの中ではなく、神楽坂の坂の上のアパートだった。元々その新聞部は体育会所属で「外堀スポーツ」という名前だったが、先輩たちが大学当局ともめたかなんだかで、キャンパスを飛び出して勝手に活動していた。そんな自由さも大学生らしくていいなと思った。そこは、神楽坂でも結構坂を登った場所にあった。平成になってから、神楽坂といえば、すごく人気のある風情のある場所として知られているが、その当時はごく普通の場所だった。だいたい、「和」という概念がださいものとして思われていた。その当時の最先端は、パルコとか西武とかだった。その一昔前のアメリカ文化への憧れもだんだんなくなって、日本というものに、国全体が自信満々だったんだろう。テレビのニュースでも何かと「世界第2位の経済大国に発展したわが国は」と連呼していた。かといって、今でいう「和モダン」という概念はなくて、どこよりもかっこいい「JAPAN」「TOKYO」という潮流が始まっていた。その象徴が「YMO」だった。1980年代、バブル経済まで続く日本の絶頂期に「かしゆお」は大学生になった。ただの貧乏学生だったけど。だいたい、東京は家賃が高すぎる。地方から来るとまず家賃が高いから貧乏になる。その点が、家が東京や神奈川にある「都会っ子」とは違う。そこは、ハンデであるが、逆にいいところでもあるだろう。ハングリー精神のようなものは、若い頃必要なのではないかと思う。別の日本語でいうと「田舎者のど根性」だ。

神楽坂は、今はフレンチとかもいっぱいあって、日本の中のフランスなんて言われているが、当時はたまに芸者さんも見かけるが、普通の商店街だった。そういえば、飯田橋も変わった。タワマンがすごいもんね。僕らの頃は「だばし」と呼んでダサい駅と思っていたので、おしゃれなかしゆおは、学校に行く時「市ヶ谷」で降りていた。市ヶ谷の方が女子校とか女子短大がいくつかあって、行き交う人も華やか。うちの学校の心ある男子学生は、みんな市ヶ谷派だった。きれいな女の子たちとお話しできるわけではない、見ながら歩くだけだけど。実際は市ヶ谷より飯田橋の方が何メートルか近いらしい(当時友達の誰かが歩数を数えたと言っていた。みんな暇だ)。それから数年後、社会学部と経済学部は多摩校舎への移転が決まっていた。この頃から社会学部が多摩校舎だったら、絶対受けなかったと思う。本当の田舎から出てきてんだぞ、本当の田舎にある大学に通ってどうする。それはいいけど、大学入ってキャンパスのあまりの狭さに笑ってしまった。第一志望だった地方の国立大学は、キャンパスが広大で、ちゃんと法学部の校舎、文学部の校舎とかが分かれている。なので、学部は建物というハード込みなのだけれど、わが外堀大学は(都心にありますので地価がすごく高い万円なのでございます)、いくつかの棟にいっぱい教室があるだけで、いろんな学部が共用で使うだけなのだ。これもかっこ悪いと思った(どうせ、この後ほとんど授業なんて行かなかったから関係ないけど)。社会学部の学生だと言ってもアイデンティティは心の中と、学生証に書いてあるだけなのだ。だから、サークルでも入らないと居場所がない。この頃は、チャラいサークルが花盛り、春夏秋はテニス、冬はスキーとか。丘サーファーとかいたぞ、髪型と日焼けしてるだけで、サーフィンしたことがないやつ。テニスもしないのにテニスラケットをいつも小脇に抱えているやつもいた。ボルグとマッケンローの時代だ(古いのお)。そんな中、スポーツ新聞部なんて、ダサい部類に入るのだろうけど、別にいいのだ。好きなものは、やりたいものは何かと、自分の心に聞いて決めたのだから。

てな訳で、サークルの事務所に行くには、外堀の桜並木をてくてく歩いて飯田橋行き、坂下から神楽坂をてくてく登る。急だし、長いし、毎日すごく嫌だったけど、結局4年間大学のキャンパスと同じくらいこの街で時間を過ごした。荻窪と、市ヶ谷と、神楽坂。それが「かしゆお」の最初の東京だった。

(写真は、現在の神楽坂)          毎週土曜日更新


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