自分の軸って何だ?
「自分軸」「他人軸」という言葉を最近よく聞くが、それって一体何なのだろう?「他人軸でなく自分軸で生きることが大事」という社会の風潮のようなものがある気がするが、果たしてそれは本当なのだろうか?
最近、始動させたいプロジェクト(コミュニティづくり)があるのだが、普段の自分らしくすぐに行動に移すことができずにいる
その原因のひとつが「自分には軸がない」と思っていることだ
「自分に軸がない」とはどのような状況を指すか
先日父と電話した際に、今後のキャリアについて相談したところ「自分の軸は持っておいたほうがいい」とアドバイスを受けた
ある程度のことは一通りできるが一つのことに秀でることができない、いわゆる器用貧乏の私にはグサリと刺さった一言だった
コンテンツやサービスを提供するコミュニティにおいて、軸(スキル)のない私にどんな価値提供ができるだろう?と弱気になってしまう自分がいる
コミュニティをつくろうと思ったのも他人からの声が発端だ
「ヨウさんがつくる場が心地いい」「止まり木のような場だね」
そう言われるたび嬉しくて、いつしか心地のいい空間とは何かを考えるようになった
他人が求めるものを作り出す、言うなれば「他人軸」そのものである
でもそれがいまの私の生きがいであり、やりたいと思える使命のようなものであるのは確かだ、これを「自分軸」と呼ばずに何とするか?
結局、「自分軸」「他人軸」なんて言葉で自分の気持ちややりたいことを区切る必要なんてないのだ
人のために何かがしたい、それが発端でも行動の原動力でも、自分がやりたいと思ったことなのであればそれは立派な「自分の意思」だと思うのだ
スキルという意味においての軸のある・なしに話を戻そう
私たち日本人は一つのことを継続したり極めたりすることに対し美徳を覚える
その価値観については人それぞれのものだからあえて是非を問うことはないが、私のような器用貧乏タイプの人…というとマイナスなイメージがあまりにも強いので、数年前に本で知った「マルチポテンシャライト」という肯定的な言葉を使っていきたい
マルチポテンシャライト:さまざまなことに興味をもち、多くのことをクリエイティブに探求する人
一つのことを極めるのは大変に難しいことだが、同時にいろんなことに興味を持ち、複数のことを同時進行できるポテンシャルを持つ人物も社会にとって貴重で必要な人材であるという考え方だ
ひとつひとつのことが中途半端でも、他のことを同時並行でやっているのだからそれは当たり前のことだ、ひとつのことを完遂することだけが何も人生の目的ではない、興味のあることすべてに全力投球できること自体が尊いのだ
私は典型的なマルチポテンシャライトだ、飽き性で、気分屋で、頭の回転が早いほうで、毎週違うことを考えている、興味のあることにはすぐに飛びつき、集中力も覚えもいいほうだ
私はずっとそのことをコンプレックスに感じていたし、今でも前述したとおり「自分には誇れる軸がない」と不安に思うときがある
でもそのガチガチの価値観に固められて、自分の可能性を潰してしまうのは勿体ないことだとも一方で思う、自分の多面的な性質を認め、逆に私と全く同じスキルを持っている人などいないと今まで自分が挑戦してきたことを全肯定していきたい
コンプレックスのリフレーミングがそのまま自己肯定感につながるとも考える、物事は全て捉え方次第だ
「自分の軸とは何か?」この記事のテーマについて私なりに結論づけるのであれば、人にはその人にしかない軸、つまりバックボーンのようなものが必ず存在している、言わばその人が辿ってきた人生の軌跡だ
自分か他人かなどという二元論に陥らず、自分自身を見つめることで見えてくるものがあるはずだ、その軸がひとつでもふたつでもいくつでも構わない、「自分には何にもない」と思っている人にこそ「何かが眠っている」と私は思う
思考整理をnoteでしていると、何故か明るい結論に導かれることが多い気がする、きっとどこかで誰かに言われたような言葉を覚えていて、その遠くにあった引き出しの中から大切なものを引っ張り出してきたような、そんな感覚だ
私には私の軸がある、価値提供なんて大袈裟なことを言わなくても、私にしかできないことがきっとあるはずだ
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