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風の通り道

袖無かさね



私たちはいつも、あたたかくてやわらかな空気の中にいました。風に揺れる木の枝で、太陽の光に包まれて。



その日、ちょうちょが遊びに来ました。私たちは、遠くの町の話を聞かせて、とせがみました。

「石畳の道に、レンガの家が並んでいるのよ。」

石とレンガ?
冷たくて固いかたまり?
かたまりの中に、風の通り道はあるのかしら。石とレンガしかなかったら、木はどこに根をはれば良いのかしら。

ああ、町って、なんて冷たい世界なのだろう。

私たちは、あたたかい空気の中で顔を見合わせました。



今日も、いいお天気でした。緑の葉っぱがさらさらと風に踊って、そのすきまから太陽の光がちらちらと私たちをくすぐるのです。



その日遊びに来た小鳥が、遠くの町の話を聞かせてくれました。

「ガラスの中に、美味しそうなパンや、赤やピンクの可愛いドレスが並んでいるのよ。」

ガラス?
透明な壁?
ガラスの中にいたら、パンやドレスは、どうやって風に出会うのかしら。太陽の光が暖かくふくらんだり、風の流れが気ままに遊ぶのを、どうやって感じることができるのかしら。

ああ、町って、なんて息苦しい世界なのだろう。

私たちは、風と葉っぱが踊る中で、ため息をつきました。



太陽は日に日に眩しくなって、私たちに歌を歌ってくれました。

 さあ、息を吸って、まあるく、深く
 そう、息をはいて、ふんわり、遠くに
 旅立ちの日まで
 顔を上げて、心をすまして
 泣きながら、歌おう
 笑う前に、笑おう

風は歌いながら、私たちに町の香りを運びました。

 石は冷たく、いさぎよく
 レンガはかたく、ゆるがない
 パンが焼ける香ばしさが
 ドレスにふりかかる香水が
 踊る、おどる、
 旅立ちの日まで



それからもいくつかの朝が来て、そして夜が来ました。そういえば、少し前まではあたたかくてやわらかかった空気が、だんだん、ひんやりと気取るようになりました。太陽の光は変わらず優しかったけれど、その光はぼんやりとかすみ、重たくなった私たちを抱いた木の枝は風と揺れることをやめました。



その日遊びにきた小さな女の子が、私たちを見上げて目を輝かせました。

「わぁ、オレンジ!」

女の子は私に向かって小さな手を伸ばしました。私が戸惑っていると、隣にいるきれいな女性が私を木の枝から切り離して、女の子の手のひらにのせました。



ああ、木の枝から離れてしまった。振り返ると、仲間たちがあんなに遠くに見えます。私は心細くてふるえました。そんな私を見て、太陽がかすんだ声で歌ってくれました。

 大丈夫、息を吸って、まあるく、深く
 大丈夫、息をはいて、ふんわり、遠くに
 旅立ちの日が来た
 顔を上げて、心をすまして
 泣きながら、歌え
 笑う前に、笑え

ひんやりとした風が私を優しく包みました。

 石は冷たく、いさぎよく
 レンガはかたく、ゆるがない
 パンが焼ける香ばしさに
 ドレスにふりかかる香水に
 踊れ、おどれ、
 旅立ちは、祝いの時

私は仲間たちを見上げました。みんなは黄色く赤く輝いて、私の背中を押してくれました。



私は木の枝に戻りたかったけれど、もうそこには戻れないことも分かりました。それで、私は、枝の上を振り返ることをやめました。



「やったぁ、オレンジ!」

シュタタタッ!女の子が走りました。シュタタタッ!私も女の子の手のひらの上で風を切りました。

「ママ、このオレンジでジャムを作ってほしいの。」

女の子が振り向くと、ピンクのスカートがくるんと広がりました。さっきのきれいな女性がにっこりとうなずきました。ジャム、ってなにかしら。私は不安に胸が痛くなって、女の子の手のひらで丸くなって泣きました。



それからしばらく、私は女の子のあたたかな手のひらに揺られていました。いつの間にかうとうとしていたみたいです。目を開けると、景色がすっかり変わっていました。町まで来たのだと、分かりました。

「ジャムを作るなら、パンも買わなきゃね。」

女性が、レンガの家の透明な壁の扉を開けました。ああ、これがきっとガラスだわ。女性が、棚にずらりと並んだ中からひとつ、香りを選び取りました。私たちは、パンの香りと一緒にガラスの扉を通り抜けました。香ばしい香りが通りました。こんな風もあるのだわ。私は胸いっぱいにパンの香りを吸い込みました。


ガラスの扉を出ると、そこは石畳の道でした。よく見ると、四角い石はみんな違う顔をしていています。
「よぉ。」
「やぁ。」
私たちが一歩進むたびに、女の子の足元の四角い石が私たちに声をかけました。
「ママ、早くはやく!」
シュタタタッ!
「おおっと、元気がいいな。」
「ほら、お嬢さん、転ぶなよ。」
「いっちに!いっちに!」
四角い石は、愉快そうに掛け声をかけました。愉快な声は、私の気持ちを軽くしてくれました。



見上げると、緑の葉っぱがさわさわと風に揺れていました。石畳の道が続いている景色の中に、背の高い木がずらりと並んでいるのです。私は、木の枝を思い出しました。太陽と風の歌を思い出しました。

 泣きながら、歌え
 笑う前に、笑え
 踊れ、おどれ
 旅立ちは、祝いの時

懐かしさに、また涙がこぼれました。ああ、太陽と風は、全部知っていたのだわ。



そうして、私はジャムになりました。甘いお鍋の中で、泣き笑いしながら、ちらちらと踊って。

「いいにおいー!」

私は歌いました。踊りました。その度に、女の子の笑顔がはじけました。

「うーん、おいしい!」



あの時女の子と旅立たなかったら、私は、女の子の笑顔を、香ばしい風があることを、石畳の愉快な掛け声を、今も知らないままだったでしょう。泣きながら歌えることも、笑う前に笑えることも。



木の枝を思い出すと、なつかしくて胸がいっぱいになります。でも、戻りたいとは、もう思わなくなりました。それより、今の私は、女の子とドレスを選びに行きたいのです。





おしまい


photo by @chin.gensai_yamamoto

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