見出し画像

あきらめてしまった私

 2005年1月、ポプラ社より『それでも私はあきらめない』という自叙伝を刊行した。書店でディレクターの目に留まり、“吉田照美のやる気MANMAN”(文化放送)に出演した。 この本はすでに絶版になっているので、内容をかいつまんで紹介する。

あきらめない小

第一章 『それでも私はあきらめない』

 23歳で大企業に勤める夫と結婚した。二児に恵まれて千葉県佐倉市に一戸建てを購入した。傍目には経済的になんの心配もない幸せな奥さんだった。
 しかし、私の心は結婚直後から病んでいた。子離れできない姑から執拗な嫌がらせを受けていたのだ。毎日続く無言電話、耳にははっきりと「クーチャン、オハヨー」という九官鳥の鳴き声がする。帰宅した夫に告げても、
「そんなバカなことするわけないだろ」と取り合ってくれない。そのうち家事すら出来なくなり、ただ涙が溢れる日々が続いた。そして、ついには入院となってしまった。


 そんな私を救ってくれたのは友人から譲り受けた中古のワープロだった。近所の印刷所から一文字0.3円の入力作業を請け負い、夢中になってキーボードを叩いた。パソコン通信を始めると都心部から仕事の依頼が来た。
「一文字1.8円出しますから今の仕事を辞めてください」
と言われ、二つ返事で承諾した。その頃、Windowsが発売されてインターネットの幕が開いた。私は迷わずに未知の眩ゆい光の中に飛び込んだ。家庭に閉じ込められている女性がたくさん存在することをネットで知った。私は真面目そうな10人に声をかけて“ドロッピーズ”という入力集団を築き上げた。顔も知らない兵隊が後ろにいる。私には何も怖いものは無かった。一部上場の企業にいきなり電話をかけて、営業したのだ。先方は、
「あなたは先見の明がある。是非取引しましょう」
と言ってくださり大量受注に成功したのだ。

 事業計画書なるものがこの世に存在するとは知らなかった。原稿を北海道から九州に点在する仲間に宅配便で送る。データを納品してもらう。検品後、クライアントに送信する。たったこれだけのアイデアで片田舎の専業主婦が月200万円の売上を得ていた。
 三日三晩寝ずに仕事をして、電車で打ち合わせに出向いた時には立ったまま爆睡してしまった。それでも、仕事に打ち込んでいると姑から受けた暴言の数々が消えていく感じがして心地良かった。
 貯金もできた。今夜はパワハラ夫に印籠を突きつけてやろう。部屋の明かりを消して膝を抱えて座り、離婚の意思を伝えるためのセリフを練習した。 
 夫は深夜二時に帰ってきた。寒々とした夫婦関係が続いていたので、夫も帰宅拒否症のような毎日だった。リビングの片隅の床に座る私を見て夫はタバコに火を点けた。

「話があるの。離婚したい」

出るか……いつものあのセリフ。

「なんだって? お前、誰のおかげで食えてると思ってるんだ」

私はここぞとばかりに答えた。

「私のお陰じゃない?」

 鳩が豆鉄砲をくらった顔というのはこういう顔のことを言うんだ……。と夫の顔をしみじみ観察した。この世の中には離婚したくても経済的な不安で我慢している女性が多くいるという。パソコンという魔法の箱のお陰で、私は離婚することができるのだ。子供二人を立派に育てて行く自信もあった。夫は何かにつけ子供たちに手を挙げて、躾という名の暴力をふるっていた。10カ月に及ぶ調停も子供たちの慰謝料だけ約束してもらって終わりにした。

 子供たちを実家に預けて、その間に私がやったことは、まず東京を通り過ぎて神奈川県への引っ越しである。当時はすでに多くのクライアントを抱えており、ビジネスマンとしては離婚の話など知らせたくなかった。そのため、“法人化したので引っ越しをした“”という表向きの理由を作った。今とは違って、個人事業の次は有限会社を作るのが一般的だった。なんとか自力で登記したかったが、最後の最後で挫折してしまった。まさしく場当たり的にその辺の司法書士事務所に飛び込んでことなきを得たのだった。

 子供たちを福井県の実家まで迎えに行った。十時間に及ぶ旅だから、新居に着いたときには2人とも熟睡していた。長男は小学4年生、次男は3年生。一人ずつおんぶをして3階まで階段を上った。重くて息が切れた。それと同時にこの重さは2人の息子を一人で育てるという責任の重さのようにも感じた。

 子供の野球チームがご縁で近所の奥さんと知り合いになった。少しでもいいからお小遣い稼ぎがしたいのだという。私にとって願ったり叶ったりの人材だった。そのころ、大企業からホームページの仕事を受注し、その仕事一本で500万円の売上となった。私はディレクションだけで手いっぱいの状態だった。これまで一人で行ってきた葉書き入力を全国の在宅ワーカーに振り分ける作業を行う時間がなかった。その奥さんは頼んだことを黙々とさばいてくれて本当に助かった。

 ある雑誌で私のことを知った大企業の会長がやってきたのはシングルマザーになって半年のことだった。誰もが知る玩具メーカーの会長で、若い起業家を応援するエンゼル活動を行っているということだった。リビングにはパソコンと業務用のFAX、雑然と積まれた書類の山、部屋の奥からは息子たちのじゃれあう声……。そんな環境を見た会長はこう言った。
「あなたは都心で仕事をする人です。家賃とか気にしなくていいから。あと、事務員は一人雇ったほうがいいね」
 せっかく在宅ワークというスタイルで仕事ができているのに、そのころの私は“都心に事務所を持つ”という魔法の言葉に踊らされてしまった。それからの行動は早かった。都内の賃貸マンションに引っ越し、子供たちの転校を決めた。

 エンゼルさんのおかげで、水道橋徒歩5分という立地のきれいなビルに事務所を構えた。その頃、出版した『本気ではじめる在宅ワーク術』(双葉社刊)が紀伊国屋書店で特集が組まれるほどの反響となり、重版を繰り返すヒットとなった。すぐにパート2、3と刊行を重ねた。株式会社に改組し、都心から都心へ営業ができるようになると、面白いように仕事が取れた。ひと月1,500万円の売上がレギュラーで見込める仕事も受注した。雑誌フライデーには“小さな会社の大きな社長”なるタイトルで見開きを飾り、それを見た他社の雑誌も芋づる式に取材に来た。テレビやラジオにも何度も出演した。


 国からも呼ばれて郵政大臣室で野田聖子氏と対談した。社員も4人となり、仕事を覚えてもらうと、今度は講演会に東奔西走することになる。昨日は秋田、今日は宮崎、そして明日は神戸といったスケジュールだった。まさに私の人生におけるバブル期だった。自分の身に何が起きているのかもわからず、ただスケジュールをこなす日々が続いた。経理担当の社員は一円たりとも間違えない。雇った税理士も的確なアドバイスをくれる。新入社員は夜遅くまで必死に仕事をこなしてくれる。パートの女の子はきれいな声で電話の対応をしてくれる。私が講演会で留守にしていても業務は淡々と進んでいた。あの千葉の片田舎でデータ入力の内職をはじめてからたった3年で、女性起業家の中で最も目立つ存在となっていたのだ。

 年商一億円が見えてきた頃、心の中がざわざわと落ち着かなくなった。なぜなら、私の行っている事業はそう長く続かないということがわかっていたからだ。20歳の頃からキーパンチャーとして高速入力を誇ってきたが、気が付けばそのくらいのスキルを持ち合わせている人はごまんといた。社内でこなせる仕事になってしまえば、私のような会社に外注する必要はなくなる。いつ仕事がなくなってもおかしくない。それと一円の誤差も許さないと信頼していた経理の女子が横領しているという内部告発を受けたのだ。朝までかかってチェックしたところ、私が決済していない子供のおもちゃなどの領収書が経費として使われていた。共に苦労を分かち合って来た仲だったので裏切られた気持ちは例えようもないほどショックだった。

 そんな不安な気持ちに付け込んできたのがWという男だ。いわゆる企業ゴロという人物で、いろんな会社に潜り込み、甘い汁を吸おうという輩だ。どうしてそんな怪しい奴に頼ってしまったのか、今となっては理解ができる。人を洗脳して操る能力を持った男だったのだ。もっともらしいプレゼンテーションでうまいこと私に取り入って、副社長になった彼は、私に銀行から多額の借金をさせ、高級車をリースさせ自分も外車に乗る。夜は毎晩のように六本木に繰り出し、“IT企業の役員だ”とキャバクラで名刺をまく。


 会社が傾くのはあっという間だ。例え500万円借りたとしても焼け石に水のごとく消えてしまう。私はWに売上を上げるように迫った。Wはすぐに鼻を高くして戻ってきた。
「金、作ってきたから保証人のところにサインして」
と言った。それは闇金融の借用書だった。一週間で利息の40万円を支払わなければならない。私は激怒してすぐに全額返済しに行った。私は取引先の社長に相談した。
「そんなヤツは今日限り解雇しなさい。それができないのなら経営者とは言えない。キミが言えないのなら私が言ってあげるよ。おまえの企画書なんて絵に描いた餅だってね」
 Wからの洗脳が一気に溶けた。私はその社長の言った通り、即日解雇をして出て行ってもらった。Wの最後の言葉が情けない。
「また本出すんでしょ。私のことは一切書かないという誓約書が欲しい」
 そんな約束はできませんわよ。こうしてしっかり書いて大手の出版社から無事に刊行することができました。
 その後、Wは私の知り合いの社長に取り入って、同じことを繰り返しているそう。ちなみにこのWとは男女の関係などありませんよ。だって後ろの百太郎みたいな容貌ですもの。

 Wが去って残ったのは四千万円という多額の借金だった。ひとり夜の街で飲んで高架橋の上で立ち止まった。足元には山手線が忙しく走っている。いいなぁ……電車に乗る誰もかれもが幸せなんだろうな。こんなお金に困る人生なんてもうここで終わらせてしまえ……。金網に手をかけたところで電話が鳴った。創業時からアドバイスをくれていた社長からだった。返事もせずにただ泣き続ける私にこう言った。
「なんだ、金に困っているのか。じゃ、明日振り込んでおくよ。300万あればなんとか乗り越えられるか? 出世払いでいいよ」
 その嬉しい声にまた涙が込み上げてきた。翌日、本当に社長から300万円が振り込まれた。女性の社員を二人だけ連れて、家賃の安い事務所に引っ越しをした。まだ受注はあったし、パソコン教室を開き、なんとか建て直せた。しかし、地面すれすれの低空飛行が続いていた。そこに現れたのが、もうすぐ東証一部上場を目指している取引先の大社長だった。副社長、弁護士、会計士を引き連れて経営状態を見に来てくれたのだ。


決算書類を見て会計士と弁護士は言った。
「こんな会社いくらでもありますよ。まだ倒産するほどでもありません」
 しかし、私は腹を括った。Wに洗脳されていた10カ月間、ストレスにより身体が悲鳴を上げていたのだ。ストレス性難聴、脂漏性湿疹、掌蹠膿疱症(しょうせきのうほうしょう)、慢性的な下痢……。
「いいえ、もう会社は倒産します。これ以上続けられません」
結婚よりも離婚のほうがエネルギーを使うように、会社の場合も創業より廃業するほうが大変だ。パソコン、机、テーブル、パーテーションなどなど、持ち物がたくさんある。それを処分するにもお金がかかる。そこで大社長が口を開いた。
「しょうがねぇなあ。じゃあ、荷物はうちの倉庫で預かってやるよ。社員2人は今日付けで解雇、で、明日からうちの社員として採用するから。キミも明日から来なさい。月に40万くらいでやっていけるだろ。月に300万円くらいの売上出せばいいよ」
 この時私は39歳。吹けば飛ぶような零細企業から東証一部に上場する社員となれる。しかし、私は出社しなかったのだ。倒産手続きのために弁護士費用までさんざんお世話になっておいて、背を向けてしまったのだ。これまで派手に新しい時代の起業家気取りで舞い上がっていた私は、いまさらタイムカードを押す社員にはなれない。管理されたくない……社員2人だけ採用してもらって私はフリーランスになるのだ。

 そうは言っても仕事がすぐにあるわけではない。そこに知り合いの映画監督が声をかけてくれた。沖縄の映画を撮るので脚本のワンシーンだけ書かせてくれると言うのだ。その仕事を通じて、
「そうか、私には書くという特技があるじゃないか」
と気が付いた。出版できるかどうかわからない。とにかく内職→個人事業主→有限会社→株式会社→倒産という一連の顛末を書いてみよう。離婚して企業して倒産してしまった私だけど、これは誰にでもできる体験ではない。本を書けばこれから起業する人の参考書になるのではないか。こんなボロボロになった私にでもまだやれることがあるんだ。こうやって強く生きていくんだ。私はまだあきらめないぞ!

 ここまでが『それでも私はあきらめない』の内容である。一カ月も経たないうちに原稿が仕上がった。原稿用紙800枚も書いてしまって削る作業が大変だった。すでに書籍を出した経験があるのと、もう原稿ができているというのが強みだった。
「芸能人でもあるまいし、誰があなたの自叙伝なんて読みたいのよ」
という心無い言葉も聞こえてきたが、臆せずに原稿を持ち込んでいった。それなりの評価をいただけたらしく、最後はポプラ社と宝島社の取り合いの形になった。ここからの人生は転落の一途をたどり、私は再び上昇することができないほどのダメージを受ける。あまりにもセンシティブな内容ですので、続きは有料となりますが、ぜひ読んでくださいね。

ここから先は

11,390字

¥ 300

よろしければサポートをお願いいたします。取材などの経費として大事に使用させていただきます。