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星たちの光をめぐって――いくつかの岡村天斎監督作品について

 ここに書こうと思うのは岡村天斎監督作品のうちのDARKER THAN BLACKシリーズと、世界征服〜謀略のズヴィズダー〜についての考察だ。多分、Wolf’sRainについても書けば、もっときっちりした流れを追えるはずだが、しんどいから無理だ。クロムクロについてはこの流れの中で解釈が出来ないので無理だ。

 DARKER THAN BLACKについては何度か少しネットで調べたが、きちんとこの作品の細部を拾っている考察というのにあたらなかった。細部を読み取り繋げれば、登場人物の感情の機微と作品のテーマや、その意味が現れると私は思っている。それは分かり切ったことなのかもしれないが、万が一それが誰かに伝わることなしに埋もれていくかもしれないのは我慢がならないという気持ちがある。

 逆にそれを言葉にしてネットにあげてしまうのは野暮で、望まれてもいなかったのかもしれない。しかし、もう10年以上も前のアニメだし、アクセス数を見るとこのエッセイを読む人はそう多いわけでもない。

 その作品の意味を広く知って欲しいと思う反面、私が年老いて死んだ後くらいに広まったらいいなという思いがある。未来はわからないし、これを書いている9/11時点でちょっとしたことで今年2回目の入院になりそうなので、今後書けるタイミングがまた失われる可能性もある。だから、賽を投げるつもりでここに書いてそれをつたえる可能性を残しておこう。

 あまり人の感想や考察を読んだりしていないほうだと思うので、そんなこと分かりきったことだとか、すでに誰かが言っているということも、あるいは頓珍漢で全く作品を理解していないなんてことも多々あるかもしれない。また、このエッセイが気に入らなくても、もちろん作品そのものは浅はかで薄汚いこの私とは別物であるということだけは強調しておく。

 岡村天斎監督の作品についてきちんと書いてどこかに残しておきたいと思っていたのは随分前からだったが、今まで書いてこなかった。それより関係とは何かを考えることを優先していたり、意気消沈していたりしていてそれどころではないときもおおかった。

 きっと、関係に関する論考を書いたことで、私の小さな人生で最も大きな何かは終わった。だから今回は好きなことを書く。そしてもう一度、後は野となれ山となれ。

 知らない人のために一応あらすじを書くけれども、この文章は細かすぎて本編を見ていないとほとんど何もわからない。私も本編を一話一話見直しながら、ひとつひとつのシーンがどういう意味であったのか、再発見しながら書いている。


あらすじ

DARKER THAN BLACK -黒の契約者-

 10年前突如東京を襲った異変、通称「地獄門」(ヘルズ・ゲート)といわれる未知の領域が出現したその時からこの世界は本当の“空”を失い、夜空を覆う満天の星は偽りの星達のものとなった。また、時を同じくして「契約者」と呼ばれる、特別な能力を身につけた者達が現れはじめる。人間らしい感情や「契約対価」という代償と引き換えに、人外の能力を得た存在である彼らを利用して、このゲートに関する情報を得ようと、各国の諜報機関が東京にエージェントを送り込む。
 主人公・黒(ヘイ)もまたそうした契約者の一人である。彼はある“組織”に所属しており、他の諜報機関などからは「BK-201」または「黒の死神」と呼ばれている。そして、同じ“組織”のメンバーである銀(イン)・猫(マオ)・黄(ホァン)と共に、ゲートに関連する情報を集め“組織”の任務を実行している。

「あらすじ」「DARKER THAN BLACK -流星の双子-」Wikipedia(2022/7/10 閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/DARKER_THAN_BLACK_-黒の契約者-

DARKER THAN BLACK -流星の双子-

 突如東京に出現した謎の不可侵領域「地獄門」(ヘルズ・ゲート)。それに呼応するかのように世界中で「契約者」と呼ばれる特別な能力を持つ者たちが現れた。ゲートの秘密を得ようとする各国の諜報機関は「契約者」を利用し、エージェントとして東京に送り込まれた彼らは異能の戦いを繰り広げる。その果てに起きた未知の災厄「トーキョー・エクスプロージョン」より2年、冬のロシアを舞台に新たな物語が始まる。

「あらすじ」「DARKER THAN BLACK -流星の双子-」Wikipedia(2022/7/10 閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/DARKER_THAN_BLACK_-流星の双子-

世界征服〜謀略のズヴィズダー〜

 世界は国際的秘密結社ズヴィズダーに征服され、廃墟と化した街に壊されずに残っていた美しく成長した姿のヴィニエイラの巨大立像の前で一人の男が「我らがズヴィズダーの光を、あまねく世界に!」と叫んでいた。
 それから時を遡り、東京を中心に日本中が混乱していた「東京リベリオン(東京戦国時代)」の時代、親と大喧嘩して家出した地紋明日汰は行くアテもなく夜の西ウド川市を徘徊していたが、突如戒厳令が敷かれて巨大怪物と自衛隊が交戦に入った中、避難場所を探していた所で星宮ケイトに出会う。そして、世界征服を目論んでいる国際的秘密結社「ズヴィズダー」の存在と、ケイトがズヴィズダーを束ねる総帥・ヴィニエイラであることを知り、彼女に気に入られた明日汰はなし崩しに戦闘員として入団させられ、昼は学校、夜と休日はズヴィズダーの戦闘員として多忙な毎日を送るハメとなった。
 この物語は、日々の食事や嗜好といった些細なことから大衆に関わる後々の大局に至るまで、ズヴィズダーが世界を征服する軌跡を辿った物語である。

「あらすじ」「世界征服〜謀略のズヴィズダー〜」Wikipedia(2022/7/10 閲覧)
https://ja.wikipedia.org/wiki/世界征服〜謀略のズヴィズダー〜

 以上があらすじとなる。まずDARKER THAN BLACKについて述べていく。必要なところだけ、なるべく手短に。

偽りの向こうに――DARKER THAN BLACKについて

一期

登場人物の些細な行動に垣間見える感情が好きだ。

第一・二話

 DARKER THAN BLACKという作品を読み解く上で、最も重要なのは一期の第一話と第二話だと思う。ここにこの作品の一貫したテーマと最後の展開につながる伏線が集められている。設定の説明など物語の展開以上に、「偽物/本物」という対立について。

 事実、ここには偽物ばかりが集められている。契約者の能力発動とその命の灯火を表す偽物の星空の説明、互いを偽の名で呼び合う黒のチーム、更には冒頭から黒は偽名の偽名、李舜生と名乗って登場し、古びたアパート、海月荘にやってくる。

 黒は海月荘でPANDORAから研究成果を持ち出し、原口と名を変え身分を偽り、逃走の途上にある篠田千晶と出会う。それは組織の手によって仕組まれた出会いであり、その後も銀のサポートで偶然を装い遭遇する。

 公安に追われ公園に逃げ込んだ篠田は、偽物の夜空を望遠鏡で眺める黒に再び出会う。そこで、恋人のふりをして匿われ、何か話そうとする言葉を遮って口づけをされ、難を逃れる。フランスのエージェントに捕まりながらも海月荘に逃げ帰った2人だが、篠田のかりそめの住処は荒らされている。黒が自室に戻ろうとするところで篠田は叫ぶ、「ひとりにしないで」と。

 そして、篠田の部屋と左右反転している、偽物のような黒の部屋に2人で寝転ぶ。そこで身分を偽り生きている今、「本当に生きている」と感じたと、篠田の偽物、プログラミングされた人格のドールが語る。その後パスポートを偽造して、海外逃亡の企てを黒から持ちかけられるも、フランスのエージェントに発見され逃走する。

 ちなみに新宿のビルで休んでいる時の回想で篠田の見た契約者のシルエットは黒の実の妹、白に似ていて、彼女の両親を殺害したのは白である可能性がある。篠田と黒の間には、人と契約者の憎しみの対立が横たわりながらも、契約者の光への憧れの入り混じる浅からぬ因縁があるのかもしれない。偽物であることが発覚してすぐに死んでしまうから気づきにくいかもしれないが、篠田千晶(のドール)は作品を解釈する上で最も重要な登場人物の1人である。

 黒は篠田から目的の研究成果(の偽物)を奪うと、彼女を警察署の前で気絶させる。言うまでもないがここには黒の優しさが現れているだろう。その後、黒を追ってきた篠田の人格をコピーしたドールに再度こう語る「契約者は嘘つきだ」と。契約者の能力を持つ黒が語る、真偽の定まらない自己言及のパラドクスをはらむこの言葉は一貫して黒が「どっちつかず」であることを象徴しているものだ。このようにDAKER THAN BLACKは一話からして偽物ばかりであり、この作品は何より「偽物/本物」という対立とそれに還元できないなにかにまつわる物語だ。

 そして、戦闘の末、心を持たないはずのドールに庇われ黒は命を救われる。黒は強力な戦闘能力をもっているが、ここで既に一歩間違えれば死んでいる状況に追い込まれている。
 作中でも語られるが、こういったことは時間を操る能力者、アンバーの力なしでは黒はどこかで死んでいただろうということ、彼が危うい普通の人間であることを示している。だから、関連する事件に謎と死がつきまとう「黒の死神」という二つ名はアンバーによって命を救われ続けた結果、意図せずしてそう呼ばれ始めた名であるだろう。

第三・四話

 あまり話の内容について語れることはないが、黒は舞に自身の妹の姿を重ねているかもしれないということは触れないわけにはいかないだろう。そうでなければ、最後に舞が契約者として目覚め、自分の意志で人を殺めようとしたとき、「やめるんだ」とは言わないだろうから。
 おそらく彼の今回の任務とは矛盾しているが、黒は舞に自身の妹、白のようにはなってほしくなかったのではないだろうか。彼の任務はほぼ全て彼の意志とは矛盾しているだろう。

第五・六話

 007っぽいノーベンバーイレブンの煙草の話が披露される。
 煙草が命を削る嗜好品であることへの(自己)批判というのは謀略のズヴィズダーでも一貫してなされる。黒の大食いは生きることへの意志として、対照的に描かれているのではないだろうか。

 契約者を消失させる計画を企てていたエリック西島に対して、ハヴォックが「不安があるのはそちらだろう」と言うシーンはこの物語の結末の一つの暗示だろう。理解できないものを恐れながらもそれを隠し、相手に投影している人間の姿を表していて印象的だ。また、黒が怒りにまかせてハヴォックを拷問するも、ルーマニアの家族の子どもたちの話をする彼女に心を動かされたのが分かる。

 それはともかくとして、この話の最後に銀が黒の手を握るシーンは作中でもかなり気に入っている。銀は水のある場所に観測霊を飛ばすことができる。これはエイプリルの雨を降らせる能力と非常に相性がいい。直接的な描写はないが、任務を遂行している以上、銀はMI6が黒を追い詰めた水に濡れる廃墟で起こった一部始終を観測しているだろう。

 だから、雨の中でのハヴォックと黒の会話と、先に進もうとする黒の手を彼女が放してしまったところを銀は見ているはずだ。銀が最後にハヴォックを失った黒の手を握ったのは偶然ではなく、それを踏まえて発したメッセージだろう。「ハヴォックの手は離れてしまっても、私はあなたの手を掴む」というような。

 銀が黒の手を握ったその一瞬、黒はハヴォックが蘇ったかのような感覚に陥っただろう。もちろん、黒にとって銀はハヴォックの“代わり”には決してならない。この時、銀は黒に対してハヴォックの“偽物”として相対してしまったが故に、黒は怒って手を払い退けてしまう。

 しかし、ここで黒の手を離してしまったハヴォックの手を“模倣”して銀が黒の手を掴むことで、作中で初めてプログラミングされた偽物の人格を持つドールである銀に心が宿っていること、あるいはその身体に意志が再び生まれ始めたことが示される。そして、黒もなぜ銀が手を握ったのか考え、見られていたことに思い至っているかもしれない。ここは好きなシーンだ。

第七・八話

 自身の「本物」の身体を失った契約者たちの話。言うまでもないけれど、一見非合理的な、自分の身体のにおいが残る靴下をかぐ契約者やその理由を理解するマオと、理解しようとしない普通の人間である黄の冷淡さが対比されている。
 「本物」の身体を失った郷愁を引きずる男と、かりそめの猫の身体で死地を生きるマオ。人は「本物」の身体を失っても、人間でさえなくなっても、楽しく生きていけるのかもしれない。マオは作中で夢を見ることを明言した最初の契約者でもある。
 ちなみ私立探偵のガイもまた偽の名を名乗る男であったりする。「本当の自分」を忘れて生きている普通の男。

第九・十話

 特に語れることがない…。ハチを素手で掴む達人…。ホシを追う刑事が登場するのはなんとなくわかるが、霧原をはじめなぜ公安はポンコツ描写が多いのか。
 それはともかく、黒は李瞬臣としての一般人との交流も結構大事に思っていたようだ。アンバーに裏切られたと思っているためか、霧原が「裏切られた」ということに反応し、恐らくは共感しているのであろうし、ファンブックにも普通の人との交流について書いてあったと思う。
 李瞬臣としての顔は「完全な偽物」ではなく、もちろん、「黒の死神」としても、チームの中での黒も、「完全な本物」ではなく、その境界は曖昧なのだろう。

第十一・十二話

 重要な話だ。かなりわかりやすいところだけれど、ポイントは三つ。

①契約者を見抜く方法はない(契約者と普通の人間の区別はつかない)
②ゲートの中では失ったものが現れる
③黒(白)と同じ能力を持つニックの登場

①契約者を見抜く方法はない(契約者と普通の人間の区別はつかない)

 教祖アルマの話を先にするが、契約者の持つ特殊能力は何か別の進化の付随物に過ぎないと言われている。恐らくそれよりも重要なのは契約者が「合理的」に進化した存在であるということだ。しかしながら、それも完全ではなく、契約者たちも普通の人のようにではないが感情を持ち、夢も見る。だから、普通の人間と契約者の区別はつかない。これについては最後にまとめて語りたい。

②ゲートの中では失ったものが現れる

 ゲートの中では「失ったもの」が現れたり(カリーナ・モク、黒、ミーナ・カンダスワミが幻想を見ていると思われる)、不思議な物質が現れたり、壁を歩けたり、物理法則が歪められている描写が多い。そして、ミーナは話の最後に恐らく黒の幻想を見ているので、「失ったもの」は実際にそれが「失われている」かに関係がない。

 また、ゲートの中では悪い事ばかりが起こっているわけではない。黒とニックは彼らの望んでいた本当の星空を見ているし、特にニックは彼のまだ生きているはずの妹と一緒に子どもに戻り、ロケットで「本当の宇宙」に旅立っている。黒はそれでセルゲイを責めたようだが。ゲートは謎と恐ろしさばかりが強調されるが、東京のヘルズゲートと南米のヘブンズゲートが表裏一体であるように、その内側は地獄であり、かつ天国でもあるのだ。

 それはさておき、ゲートの中では「現実」に起こっていない、あるいは失われてしまった「他の可能性」がそこに踏み入る者に対して、相対的に現れると見ていいだろう。そして、流星の欠片を持った状態の黒(白)、おそらくはニックも電子を操る能力、その延長にある物質を変容させる力によって、世界そのものを作り変え、その可能性を現実のものとすることができるようだ。ゲートの中心に近づかなかったので、ニックだけがその力の影響を受けたようだが。

 ニックが旅立ったゲートの中の世界は量子の「重ね合わせの状態」が少し意識されているのかもしれない。少なくとも、ゲートの中は選択――他の可能性の排除――という事象が発生する日常の世界が歪む、恐ろしくも甘美な、可能性(夢)と現実の境目がなくなる空間という一面を持っている。ゲートからは他にもいろんなものが出てきているので、「一面を持っている」としか言えない。
 そして、失ったものを取り戻すとき、他に取り得た可能性を現実にするとき、人は選択、他の可能性の排除という対価を払わなければならないだろう。

③黒(白)と同じ能力を持つニックの登場

 先走って少し述べたがニックの存在は重要だ。同じように「望遠鏡で星を見て」、「妹がいて」、「同じ能力」を持つニックは黒と互いの似姿である。黒も、白も、そしてニックも、誰かが特別であったわけでなく、ただ偶然彼らはこの世界の中で彼ら自身の位置にいて、能力を手に入れさせられただけだ。その差異は絶対的なものであるものの、黒が全ての契約者と全ての一般人の両方を救うことのできるポジションに立っていたのも偶然だったということを示すものだ。

 互いに互いの「他に取り得る可能性」である彼らが、「選択」という現象が歪むゲートの中で鉢合わせするのは物語の構造としては必然であり、その数奇な巡り会いが表現されているナイスな回だ。

 あとは、契約者であるニックも普通の人間であるミーナも夢を見ているとか、黒がニックに共感したと思えば、感情的になってすべて否定するとか、黒の夢が妹と再開すること(そしておそらく彼女と星を見ること?)であることが示唆されるとか、またもやニックとの戦いですんでのところで死にかけているとか、ミーナに優しいとか、銀との絆が深まったとかがみどころだろう。
 妹への手掛かりに近づくと同時に銀との絆が深まるというタイミングはちょっと重要かもしれない。

第十三・十四話

 銀の過去が明かされる。過去の銀、キルシーは少し怒りっぽいが、感情豊かな少女だったらしい。冒頭のピアノのシーンから「月の光」、「形」、「心」、「言葉を遮ること」、重要なモチーフが描かれている。また、契約者と異なり霊媒は「夢を見ない」ということ、観測霊を捕獲する契約者、イツァークにはドールの「意識がリンク」し、その記憶が一部流れ込んでくるということも。このことや観測霊を引き抜かれたドールがさまよってしまうことは、観測霊がドールの魂のようなものであることを示すだろう。誰が見てもわかるが、これは魂のない抜け殻としてのドール、”形”に心が宿る物語。

 一期の銀はある意味でハヴォックの回から最終回まで徹底的に偽物として描かれている。黒のチームの全員と同じくその名は偽名であり、その人格はキルシーであるわけではなく、ドールに書き込まれたプログラムがもとになっているはずだ。というのも、人格をプログラミングされないドールは全く動くことができないからだ。失った心を求めて放浪し、消えてしまった月の光、決して戻らない光を「観測霊」の集まりというにせものに見出し涙を流す。

 本物の名を呼びながら「帰ろう」と繰り返し、言葉を話す自由を封じるカスティネンに対して、黒はにせものの銀の意志をありのままに肯定し、選択をする自由を与える。そして、銀はカスティネンのキルシーと呼ぶ口を遮り、黒とともに銀として歩むことを選ぶ。この話で銀とカスティネンは終始すれ違っていたよう思える。

 銀が黒たちを選んだ後、「いいのか?」と黒は問う。銀はその後少し口を動かした。恐らく彼女は何かを喋りたいのではなかった。彼女はきっと、黒に笑顔を見せて意志を伝えたかったのだろう。しかし、ドールになってから何年間も無表情だった彼女は笑顔になることができなかった。だから、手で作ったつくり物の笑顔でその意志を黒に表した。

 特にこのシーンもそうだけれども、この物語の中では偽物であることは否定的なこととしてのみ描かれてはいないし、むしろここでは美しいとさえ思う。心の再生が描かれたこのつくられた笑顔の向こうに浮かぶのは満面の笑みか、あるいははにかんだ笑顔なのか、それは想像するほかない。

 ちなみに面白いのはこの話で誰よりも本当に人間らしい心を取り戻したのはドールでも契約者でもない人間の黄だったかもしれないということだ。というのも、銀と黒とマオはこれより前の話から心をもっていることが示されていたのに対し、黄は銀の涙を見て初めて契約者張りの冷酷さを捨てて、彼女を処分しないことを決めたという情を見せたから。

 原作が岡村天斎監督でない、私が疲れているなどの理由からここでは追わないけれど、月の光はWolf’sRainに影響を受けたモチーフだろう。穏やかで満たされた楽園のような銀色の光と、死と願望の成就を同時にあらわす流れ星は強く対比されて、それは黒が結果的に流れ星を流す契約者、白とアンバーではなく、月の光を象徴する銀を選ぶ一期のエンディングに深く関わっている。

第十五・十六話

 アンバーが本格的に登場してくる回だ。契約者のマキに挨拶をきちんとできるよう教えるアンバー、そして模範のように彼に挨拶をする黒。アンバーと黒がマキに教えているように見えるが、その実、黒がアンバーと白に、そして、アンバーが黒に「さようなら」という別れの挨拶を交わせるようになるために必要だった一つの通過点なのだろう。そして、黒がマキに言った「君の笑顔をずっと守ってくれますように」という言葉は、アンバーが黒に伝えた言葉だ。教えられる者と教える者の区別はひどく曖昧で、言葉と振る舞いは伝える者と伝えられる者が移り変わりながら、偽物も本物もなく、繰り返されていく。

 アンバーを見つけ出すために駆けている黒の回想は作中でも一二を争う名シーンだ(私の中で。)。アンバーはブレッドナイフを貸してほしいという何気ない言葉で黒の持つナイフ、人を殺めるための道具を取り上げて、代わりに「あなたの笑顔をずっと守ってくれますように」とお守りを返す。

 彼女が「逃げようか」と言ったとき、黒は夜空を見上げた。その時、幼少時に白と見た星空を思い出したのか、ただ星を見上げたのかはわからない。黒が逃亡先を尋ねると、アンバーはおそらくは星を見上げる黒を見て――彼女自身に本当に逃避行の目的地があったのかはわからない――「どこか遠く、星の見えるところ」と答えて、黒は微笑む。このときの二人は心を通じ合わせていたのかもしれない。

 この一連のやり取りには黒に争わず笑顔でいてほしいというアンバーの願いと、彼女が最期に本物の星空が見える白のいる場所に黒を導く結末、そしてその時、彼らの本当の別れが訪れることが暗示されている。だから、このシーンは一期の全ての縮図となっている。

 些細なことで躊躇なく能力を使用し、若返ることで自身の寿命を縮める彼女の振る舞いからは満ち足りた諦念のようなものを感じる。
 一期の後、彼女が人類のために残した予言の存在を考えれば、この物語のヒーローは黒ではなく、憂いに満ちた朗らかな笑顔を浮かべるアンバー以外にはいないだろう。彼女は万能ではないにせよ、間違いなく作中で最強の能力者であり、その力を際限なく悪用できたにも関わらず、自らの意志で未来の人類のために予言を残したのだから。

第十七・十八話

 イブニングプリムローズにまつわるダミーの目的を表明する声明文と、南米で起こった事件の経緯の誤解にまみれた説明から始まる。

 海月荘の住人とやくざの舎弟の健児との話。特に言えることはないのだが、ステレオタイプにはまっているところはあっても、この作品は国際色豊かで好きだ。

 あえて言うなら、健児の李さんの背中が寂しそうというのは、的を得ていた発言なのかもしれないとか、ヤクザから健児をかばう黒の気まぐれな優しさが出ているとか、ドールに心が宿るということはジュライや銀に特別なことではないとか、黄に言われた言葉を黒が健児に繰り返しているとか、そして、健児にかけた忠告がアンバーの口から繰り返され、自身の未来にも当てはまっていくとか、健児や一橋がアンバーと同じ言葉を口走っているとか、黒はまたすんでのところで死にかけているとか、契約者よりも非人間的だった黃が黒の様子を気にかけているとか。

第十九・二十話

 黄が人間らしさを取り戻す話であり、教祖アルマからDARKER THAN BLACKにおいて重要な情報が開示される回だ。

 契約者である岸田志保子は仕組まれた出会いから、演技を通した黄との交流の中で、人間としての感情を取り戻し、心を通わすもそれははかなき夢と散る。契約者と普通の人間の区別は揺らいでいく。

 教祖アルマの言葉は作中で最も重要な情報の一つだ。アンバーと対称をなす老化を伴う変身能力により、自らの本当の姿を忘却しながら、もはや何も望むものがないかのように満足げに能力を発動し”自身の業”から解き放たれて安らかに眠る。方便を信じ始めたという彼女は、人間の偽物の望みと本物のそれが入れ変わることを示していて、岸田志保子の演技の中に本当の心が宿っていたことと並列されて表現されており、黒の望みの変化の前触れと言ってもいい。

 教祖アルマの述べる話の中で、最も重要なのは契約者の能力はおまけのようなものに過ぎず、ただ感情を失って冷徹な「合理的判断」を行うことに「人間」との違いがあるということだ。そして、詳しくは最後に述べるが、この話の主要な登場人物である黄の冷徹さを考えれば、それすらもまた曖昧になるということも重要だ。

 黄はこの回で岸田志保子をかなり気にかけていたものの、銀の過去話より前では一貫して普通の人間が契約者以上に冷酷になり得る一例として示されている。私はそういったことは現実の世界でも珍しくないことなのではないかと思う。

 日常的な想像力や慣習の限界という制約があることが大きいが、家族や共同体を超えた社会の人たち、国境を越えたところにいる人々、時間を超えた未来の人間に私たちは自らの合理性を超えた温情を示しているといえるのか、いつも疑問に思っている。

第二十一・二十二話

 「好きな食べ物は?」というノーベンバーイレブンの冗談の質問に対して「リンゴ」という冗談を返したアンバーが死地に向かった彼への別れの挨拶とともにリンゴをかじる。ノーベンバーイレブンがディケイドの殺害を決意したのは、ジュライが彼を探しに来た時なのかもしれない。

 「誰も巻き込みたくない」、白がかつて黒に対して抱いていた思いを黒自身が口にし、互いを偽りの名で呼びあうチームの心が通い合い、その絆が本物へと変わり、引き裂かれていく。

第二十三話

 南米での黒の記憶。黒が極限状態で白を守るために戦っていたこと、彼女が自身の能力で大量に星を流して、他の契約者を殺めていたことがわかる。
 白を抱いて星を見上げ、「やることがないから見ているだけ」という黒と「見あげていても昔の星は見えない」というアンバーはこの時点では既に何かすれ違っていて、彼女は白の首に手をかける黒の涙を見てそれに気づいていたのかもしれない。

 昔の星空を見ることができるという噂。特に関心も思い入れもない人、過去の思い出を振り返る人、様々な思いを持つ人、持たない人たちがいるようだ。黒はこのへんで最終的な思いを固めていったとか。

 全く根拠のない想像だが、第十一・十二話で宇宙へ飛び立ったニックが言ったように、このとき誰もが昔の星空が見えると思い、心を通わせたなら、本当の星空が見えたのではないだろうか。

第二十四話

 致命傷と思われる傷を負った黄の、決して現実になることのない安らかな未来への嘘で始まる。それに対して、黒はもはや実効性のない煙草はやめるんだという気遣いを返し、銀は黄を抱擁し、おとりの役目を引き受けた彼と別れを告げる。

 組織(エリック西島)と契約者の争いの経緯が明らかになり、EPRとの戦闘が開始。この時点でもアンバーの真の目的はEPRにも組織の側にも明かされていなかったようだ。

 PANDORAに潜入する前に雨霧がアンバーに卵を渡したとき、雨霧の本当に言いたかった言葉は別にあり、アンバーはそれを知っていて聞かなかったように見える。そして、アンバーは陽動をかねたおとりのサターンリング破壊を達成するために未来を修正し、結果的に雨霧の贈与を拒絶する。外伝で雨霧が生き残っていたときには、少し安堵した。
 マオが消え、恐らくはアンバーが黒をゲートの中心へ導くために配置したかりそめのチームは銀だけが残り、その先に未来のない幼女としてアンバーは現れる。

第二十五話

 アンバーによって、南米で何があったのか、どのようにして契約者が連帯してきたのか、白もまたその1人であり、黒を巻き込みたくなかったという白の意志や、アンバーが時間を巻き戻し何度も天国戦争を経験したことが示され、その経緯が語られる。そして、これまでの一連の出来事はその先の遥か未来に起こり、続いていく何かのほんの始まりに過ぎないということも。

 アンバーが黒に問う「白に会いたい?」という言葉は、嘘とは言わないまでも、何か本当の意志を隠しているようで、黒に白と会いに行くよう迫る。そして、契約者を選び東京を消失させる決断ができない黒にアンバーは流星のかけらを用いて、強制的にその力を解放させる。

 電子を操る力の延長線上にある物質を変容させる力は、本当の星空が見える不可侵領域を発生させる。そこは時空間が定まらず、失われたものはよみがえり、敵対していた者どもが融和する、琥珀色に似た光にみたされた甘美な場所なき場所。

 黄は黒に契約者と普通の人間のどちらか選べないのであれば、両方を選べと説得し、黒の似姿であるニックは手を差し伸べる。この時、黒と関わりを持った契約者や死んでしまった人々が再登場している。教祖アルマ、雨霧、ブリタ、マキ、ノーベンバーイレブン、魏志軍、岸田志保子、そしてここからのシーンを読み解くためにもっとも重要な人物、ハヴォックと篠田千晶の人格が書き込まれたドール。

 アンバーは両方を選べばまた争いに巻き込まれると説くが、黒は彼女が言葉を言い切らないうちに抱擁し、アンバーもまた何か言おうとする黒の言葉を遮り、口づけをする。かつて一話で黒がドールの言葉を遮って偽りのそれをして、銀とカスティネンが互いに互いの言葉を遮ったように。

 それから、黒と白が別れの挨拶をかわすと、幼女の状態のアンバーが現れ、最後の力で黒を東京消失前の時点へと送り返す。この場所で黒の見た、自身の意志を無意識に偽っていたアンバーと、笑顔で黒を見送ったアンバーはどちらかが偽物でも本物というわけでもなく、黒は選択のゆがむ重ね合わさっている世界を移動していたのではないだろうか。

 そして、本物の空が消えて、茫然自失状態の黒を呼び戻すのは銀の呼び声と彼女が差し出した観測霊の手。銀の発した「私をひとりにしないで」という言葉は篠田千晶の偽物のドールが言った「ひとりにしないで」という言葉、その差し出した手は黒の手を離してしまったハヴォックの手の反復である。

 振る舞いと言葉がそれを伝える者の移り変わる中で、黒は銀の声に応答し、今度はその手を離さず掴み返す。その銀と黒のやり取りは他の誰かの言葉と振る舞いの偽物でありながら、心を通わせあった本物であり、「偽物/本物」という対立を超えた何かだろう。

 そして、アンバーは能力の対価により消失し、黒は契約者と普通の人間の両方を救う道を選んだ。それから、恐らくは契約者への恐怖を隠しながら、自らの正しさを信じて疑うことのなかったエリック西島は宝来に殺害され、霧原はその宝来を逮捕することで黒と同じく第三の道を選択する。そして、銀の観測霊の進化が示唆されながら一期は終了する。

一期についての所感――黒の笑顔について

 一期で黒が黒として笑ったのはマオと喋っている時や、黃のタバコを破裂させたときなど数えるくらいで、心底の笑顔は一度も見せていない。その笑顔はおそらくはアンバーと白しか知らない。黒はその本当の思惑が些細な仕草にしか現れていないことが多いよう思える。

 アンバーは黒の笑顔を見るために、黒と白が生存し、再開するように選択を重ねて、さらにそれを超えて未来を見るために悠久に近い時間を生きてきたはずだ。しかし、第一話で少し触れたように、黒を救い続ける結果として、「黒の死神」という仮面を彼にかぶせてしまうジレンマを引き起こしたのだろう。

 一期はアンバーが一度だけ見た黒の笑顔、とても永い時間を生きた彼女のその一瞬に対する恋の終わりの物語でもある。アンバーは最期に笑顔で黒を見送ったけれど、個人的にはここまでした彼女が見た黒の笑顔や、天国戦争の話を見てみたかった。もうやらないだろうけれど。

 DARKER THAN BLACKは陰鬱なスパイアクションもののなりをしているが、二期との接続という面から考えても、天然ジゴロである黒を中心とした恋の物語と思ったほうが、すっきりするかもしれない。ゲームにするならギャルゲーとのことであるし。

二期

 結構訳が分からないことだらけなので全体的に何も言えない。エッセイを後から読み返すと本当に重要な考察は最終話にしかないからそれ以外は読まなくていいかもしれない。

 とりあえず二期は黒がカッコイイ物語を期待して見ると肩透かしを食らう。黒は蘇芳がなぜ恋をするのか不思議なくらい、カッコイイヒーローではないからだ。
 これは蘇芳の恋の物語であり、一期の補足として見るものなのだろう。DTB世界では恋をするのは命がけ。

第一話

 偽物の星空を眺める偽物の記憶から開始する。「偽物/本物」という対立は二期でも徹底されている。存在自体が紫苑の偽物の蘇芳、紫苑の部屋に飾られた番いの動物の折り紙(方舟としてもう一つの偽物の地球にコピーされる動物を暗示するもの)、コピー(偽物)を作り出すという紫苑の契約者としての能力、そして、父親の偽物が死ぬ。

 作品を読み解くキーワードを挙げておく。ニカの恋は蘇芳の恋の前触れ。「壁」を撮る母親の写真集を手に取る。マオのブラフの野良猫。蘇芳の恋と夢の行方。水が当たるだけで身体に風穴があくゴランは一体どんなスピードで走っているのか。

第二話

 再び偽物の記憶から。特に何も言えることがない。みんな本物の紫苑を求めて紫苑の偽物を追っているのに、黒は偽物だとわかっても蘇芳を助けてしまうくらい。黒は気まぐれで優しい。

第三話

 黒の荒れっぷりがすごく、たぶん誰もこんな黒を求めていなかっただろう。少なくとも私は最初はなぜこんなことに?と思った。黒の性格と世界観の設定、諸々の作劇の都合上そうなったようだ。大切な人を失ったショックも原因だが、なんというか、黒はどうしようもないやつだ。

 今回もマオが登場するけれどバックアップ(偽物)であること、ひいてはそもそも本当の身体を失った時点でシミュラークル(本物と偽物の区別がない存在)であったことがさらっと明かされる。

 それを踏まえた上で、蘇芳の言った「誰にだって代わりなんていない」という言葉はなかなか面白い。アイロニカルにきこえるけれどそれは決してアイロニーにはなりえない。コピーである蘇芳の持つ感情は決して紫苑の代替物ではないし、いくら心と記憶と身体のシミュラークルを並べてもそれらが異なる空間の上に場を占める限り、そこには各々に固有の関係が紡がれるだろうから。

 黒の目的が銀を殺すことであることが明らかに、ただ、黒はやはりどっちつかずでこの時点では決断できていない、もしくは決断できていてもまた揺らいでしまったようだ。彼は人の死を求めていなかった蘇芳に自身を重ねているかもしれない。

第四話

 くじら、前話の池袋のページに挟まっていた折り紙からイメージが引き継がれ、本物が現れるも、蘇芳は無感動になってしまった。
 霧原も偽名仲間に。みんな紫苑目当て。黒が偽名を変えた。鳥の折り紙。明日のジョーっぽい?訓練…なんだこれは。殺せない蘇芳。黒の生きる意志の象徴、大食いは飲酒に変わる。この時の蘇芳にとって黒は財布代わり。ニカに似たノリオの恋。スナックの名前が”ノアの方舟”なのは、コピーされる地球の暗示のようだ。

第五話

 マダム・オレイユと霧原の密会。三鷹文書の話。三号機関が黒を追う。蘇芳が生き物を殺す訓練。黒が蘇芳に興味を持ち始めて少し生きる意志が湧いたようだ、食欲が復活する。しかしながら、蘇芳が契約者として任務を引き受ける最低の日と言う。黒はたまに優しい。

 水族館での偽物の記憶、クジラのイメージが引き続き登場し、偽物のクジラ、銀を載せる潜水艦が現れる。

第六話

 特に言えることがない。標的が銀と知り決断が揺らぐ黒。やはりどっちつかず。蘇芳の折り紙、水に濡れた方舟。人間の心を少し取り戻す蘇芳。黒が断酒して感動。

第七話

 パブリチェンコ博士の逃走は計画的だったことが説明される。棺桶に入れられたジュライは、最後に出現する少年の暗示かもしれないがどうなのだろう。

第八話

 夏の記憶、マダム・オレイユがアンバーの残した予言、三鷹文書に触れてスタート。
 マダム・オレイユが霧原の何の行動でどんな情報を得たのかは推測するしかないが、三鷹の天文台で鎮目の何らかの情報が割れたのかもしれない。

 個人的に、作中で決して見ることのできなかった笑顔をのぞけば、黒の一番のチャームポイントは大食いだと思う。
 契約者を自殺させるイザナミ、銀の力の説明がされる。この力については後述。ジュライは蘇芳に恋をしたようだ。蘇芳と黒のすれ違い。

第九話

 ここも特に言えることがない。アンバーの予言を聞く霧原と矛盾するメッセージに悩む蘇芳、自虐ネタから開始。黒がひげを剃る。蘇芳が死んでいた事実が発覚。

第十話

 蘇芳が自身の存在が偽物であることを知る。ゲートの向こう側にある池袋の水族館の記憶も偽物。ある意味で蘇芳はゲートから生まれた存在であったのであり、「壁」を撮り続ける紫苑の母親が「壁」が直されていくことを確かめていたのか、自身も「壁」を乗り越えることを心のどこかで望んでいたのか、その本意はわからない。

 マダム・オレイユの双子のドールはドール(観測霊)を媒体とするドールなのかもしれない。マオの趣味がふいに出てきて驚き。

 偽物でも本物でも関わりなく蘇芳の存在を肯定した黒。蘇芳との関わりを通して、黒は自身の未熟さを認めて成長したように見える。

第十一話

 ペリメニはおいしい。天国戦争が三鷹文書の解釈をめぐって行われたことが明らかに。サンシャイン水族館でのお話。偽物の空から流星核が落ちてきたその時に紫苑はイザナミに出会ったのかもしれない。

 鎮目が読んでいたのは、蘇芳の母親の写真集のようだ。ドールのネットワークはマダム・オレイユのドールが中継しているのかもしれない。

 そして、未来人っぽい服装でマダム・オレイユ登場、なんじゃこりゃ。
 パブリチェンコ博士は蘇芳が偽物であることに拘泥していなかったようだ。紫苑と蘇芳はこの時は会いたいという願いが一致していた。 

第十二話

 訳が分からないがとりあえず書く。紫苑はパブリチェンコ博士とともに夢を見ていたようだ。同じ「会いたい」という願いを持ったが、紫苑と蘇芳はともに理解しあうことができない。蘇芳に恋をしたジュライもまた進化したようだ。銀が黒にそうしたように蘇芳の腕を掴んで、紫苑のもとへと導く。

 紫苑はイザナミの力を借りてコピーの地球を完成させる。実際にどういう取引をしたのかは直接描写されていないが、人類の記憶を保持するために流星核と同等の機能をコピーした地球で機能させることと、蘇芳をそこに送り届けることを求めたのだろう。

 そして、流星核が割れて記憶を失っていく蘇芳が最後に銀にライフルを向けたとき、かつてアンバーが黒にそうしようとしたように、黒は蘇芳の武器を取り上げて、「旅は続く」と嘘をつく。二人のやりとりは互いにその偽りを知りながら心を通じ合わせていて、蘇芳は失われていく記憶のなかで「黒」という偽りの名を呼び返して眠り、偽物の地球に転送される。

 このとき銀が二人に分裂していて、両方の銀がそれぞれ意思をもっているようだ。かなり自信がないが、私はこれは以下のように説明することができると思う。

 まず、大前提として観測霊とはそれまで普通に生きてきた人間がドールになる際に抜け落ちる魂のようなものである。一期の三話でドールに変化する前のモラトリアムの状態にあった舞は「魂が抜けているかもしれない」とこぼし、十三話、十四話のイツァークの能力から観測霊に記憶が、少なくともその一部が定着しているのを知ることができ、そして、十七話、十八話で登場する健児の連れ出したドールや天文台やEPRの集めたドールがピクリとも動かないのを見ると、人格がプログラミングされる前の魂が抜けた状態は真っ白な抜け殻で何もできないのだと考えられる。

 観測霊が魂であれば、銀のそれが誰の魂であるかは明瞭で、キルシーのもの以外にはありえない。だから、ここであらわれた二人目の銀は分裂したというよりは、観測霊となってしまったキルシーが、進化することでその本来の姿を取り戻したと考えるのが妥当である。逆に言えば、寧ろ偽物なのはプログラムから生まれた銀の方だということだ。

 それが正しければ、一期の最後から外伝にかけて現れる銀の進化した観測霊は、キルシーの魂と観測霊それ自体の性質やその進化の先にある何かが混じり合った存在となる。だから、銀は外伝で観測霊が暴走し始めた当初彼女を警戒せず、そして、銀と同じようにキルシーも黒に惹かれ、彼を守り、後に述べるがおそらくは「争いたくない」という黒の願い、そして彼が外伝で抱いたもう一つの願いを叶えようとしていたのかもしれない。

 この後で黒と銀がどのような会話をしていたのかは定かではない。駆けつけた霧原から見た黒のいた場所に白い光が発生していたこと、また霧原の視点が上空からに切り替わった後に見えた黒と銀のいた場所と、加えて、その直前でBK201の星が輝き、黒が自身の能力、物質を変容させる力を使っていたことから考えれば、黒はコピーした地球に向かわず、大規模な不可侵領域を発生させることなく一期の最後に現れたあの琥珀色の場所に銀とともにとどまることを選んだのかもしれない。

 その後、霧原が黒の消息を掴めないということ、コピーされた地球で蘇芳が「何かが欠けている」と言い、黒が一期でそうしていたように、夜空を天体望遠鏡で見上げ「さようなら」と別れを告げることも、黒が両方の世界にいないことを示唆するので、それを支持するように思うが、本当のところはわからない。ただ、そうであれば本物でも偽物でもない何かに留まるという黒の在りかたに沿った終わりだと思う。

 そして、ゴルゴ登場…からのマダム・オレイユ合流、新しい組織の発足で物語は終わる。

二期についての所感――「組織」について

 一期の終わりくらいにはすでにそうだったのではないかと思うが、どこまでいっても暴力性が存在せざるを得ないこの世界や、「組織」というものについての考え方が、岡村天斎監督のなかでかなり変遷していたのではないだろうか。次作のタイトル「ズヴィズダー」は二期と関連のあるロシア語であり、秘密結社という「組織」の話で、それまでの陰鬱な世界観からの転換の萌芽がこのエンディングから読み取れるのではないかと思う。

外伝

第一話

 敵の口からのアンバーの言葉の反復と、意志が強くなり、さらに進化しつつある銀の様子が描かれて始まる。銀は何年間も無表情だったから、もしくは先程は述べなかったが、作られた人格なので表情の作り方を自然に生得していないから、表情が死んでいるが、新婚旅行を楽しみたかったのだろう。黒がアンバーの姿を装った契約者に動揺するのは、あんな別れ方をしてしまっては仕方がないかもしれないが、銀が怒ったとしても無理はないかもしれない。銀の感情が読み取りづらいのでよくわからない。そして、銀は黒の手を掴めない。

 黒の誤ちから銀がさらわれ、契約者の襲撃を受けた時、銀の観測霊、恐らくはキルシーによって二度死にかけた黒が助けられている。人体を制御する能力者のクロードは黒だけでなく、銀にも幻を見せていたということになるのだろうけれど、幻相手に銀が能力を使用したことを感知できるというのはすごい能力だ。

 そして、黒は「俺をひとりにしないでくれ」と篠田千晶のドールの言葉を繰り返し、傍にいた少年のドールに影響をあたえる。偽物の言葉は移り変わり、黒の本物の願いに変わる。

第二話

 ドールは夢を見ないはずだが、銀は黒のいない浅草で得体のしれない何者かに手を掴まれ、銀の観測霊が手を伸ばす夢を見ている。得体のしれない何者かは、視聴者には知りえない観測霊としての進化の先のようなもので、観測霊はキルシーの魂ということになるだろう。

 そして、銀が黒に自身をおとりにする作戦を提案、違う人格が出ている。これがキルシーだと思う。彼女はわりかし短気そうだったから、成長してもこんな感じかもしれないがどうなのだろう。観測霊として存在していたから、会話においてある種の社会性がかけていても不自然ではない。

 ワイヤーで空中を移動する黒が重力操作の能力者に二度敗北しているというのには何か意味がありそうな気もしなくはない。一期の最初と最後に出てきた契約者も空を飛ぶ能力者であり、現実が歪んで跳躍する力と、結局はより強力な力に囚われてしまうことを示していそうだ。雨霧は生きていてよかったけど、死んでしまう。

第三話

 黒の夢、ものすごく混乱しているのだろうか。怒る雨霧が優しい。銀は自らに語りかけてくるものを「観測霊とは違う」と言うので、本当に私の読みが当たっているのかはよくわからないが、私の読みで言うならそれは二期の最終話に現れた銀髪の少年になる。

 この話で恐らくは作品を理解するにあたって最も重要な設定についての情報が開示されている。それはマダム・オレイユの言葉、「契約者はドールのなりそこない」だということだ。この物語において、ドールは契約者の進化のより発展した段階だということには注意したい。これについては最後に述べたい。

 なぜ視聴者が限られているOVAでそんな重要な情報を開示しているのか、と思うが、それはそこまでこの物語が理解されることにこだわっていなかったか、あるいは寧ろ、ごく少数の分かった人にだけ伝えたかったものなのかもしれない。そうであれば、これがもしも正しくて、そして何かの間違いで広がってしまったら本当に申し訳がない。でも書き残さないというわけにはいかない。

 クロードは愉快犯じみたヒールだが、イザナミの進化への興味を彼に湧かせた変化のきっかけは恐らく外伝一話での黒の非合理的行動なのではないかという推測が私の中にあり、憎み切れないというか、何かどうしようもない諦念をいだいてしまう。
 陳さんは善良な小悪党だ。

第四話

 クロードが銀に何を吹き込んだのかは定かではないが、精神が不安定になったということであれば、黒を装って何かしたのだろうか。彼の「合理的かどうかは何を目的としているかで異なる」という言葉に、この物語の中での「合理性」という概念が、自己の利益を目的としたもののみを指し示さないのがわかる。

 「余計な夢をみないことは契約者のいいところじゃないか」という野良犬の言葉も一理あると思う。彼女が最期に発した「あんたは何を夢見たんだ?」という言葉に対する答えは黒が銀に言った「俺をひとりにしないでくれ」という言葉であるかもしれない。銀はそれを叶えようとして暴走し、野良犬が死んだ後、黒を抱き寄せたり、離させたりするのも黒の矛盾する願いを叶えるためかもしれない。

 そして、銀を失ったやさぐれ黒が誕生する。

 銀は最後に何者かと会話をしているが、「ここはどこだい?」「君は誰?」という言葉から、その何者かはそれまでの銀の別人格とは異なるように思える。銀の別人格は明らかに自分自身と黒を認識しているし、周囲の状況を冷静に把握していたからだ。この何者かが「まだ君以外と話ができない」ということから黒とも会話をしていないということがわかる。
 私の読解の線で行けば、繰り返すが銀の別人格はキルシーで、「集めたサンプル」は取り込まれた契約者の魂であり、この何者かは最後の銀髪の少年であると推測される。

外伝についての所感――外伝と二期

 本編で見れなかった銀と黒の不器用ななれ合いからベッタリした様子が描かれていて、訳の分からない二期よりも断然外伝が気に入っていたのだが、今回二期のエンディングについてちゃんと考えてみると、二期も悪くないなと思った。外伝の逃避行と、やさぐれていた黒が最終的にアンバーと同じ行動を取るまでに回復・成長している二期は甲乙つけがたい。

 それはともかく、保留してきた契約者の合理性やそれとドールとの関連、進化した銀の能力の意味について、最後にまとめておく。

合理的な契約者、ドール、銀と最後の少年

 なぜ「契約者はドールのなりそこない」なのか。私はそれは契約者の「合理的判断」に関わる話だと考えている。では「合理性」とは一体なんだろうか。多分その問いに対して答えを出そうとすると、恐ろしく深い議論を誘発してしまうが、ここでは仮に、合理性というものを「ある一者の目的とする状態を実現するために、有効性のある選択をする性向」と定義しておく。

 それの目指す目的の状態はなんであっても構わない。例えば、「幸せに暮らす」ということであれば、経済合理性があまりない暮らしをしても合理的でありうるし、ある「未開社会のしきたり」が科学的に合理的でなくとも、「その生活文化」を守るために合理的であるし、日本一の芸人を目指すというのであれば「ナンセンス」な行為も合理的だし、「ファッションが好き」なのであれば「おしゃれな服を集める」も合理的だ。

 マックス・ウェーバーは価値合理性と目的合理性を区別していたけれど、この場合「選択」を軸に、目的を価値を含めたあらゆるものに関する状態――選択肢――として、統合して考えているかもしれない。

 極論を言えば、ただひたすらに「ナンセンスな行為をする」あるいは「合理性のない行為をする」ということが目的であれば、その一者のあらゆる行為は「合理的」だと言える。というのも例えば「ナンセンスな行為をする」という目的のために「意味のある行為」をするのであれば、それは「ナンセンス」であり、普通に「ナンセンス」な行為をするのであれば、それは「ナンセンス」となるから。「ナンセンス」と「非合理」を目的としたあらゆる行為は常に合理的だというパラドクスがここには存在する。これは自己言及のパラドクスと似ているかもしれない。

 このように合理性というものを考える時、その概念は都度都度明示的にあるいは暗黙のうちに設定される目的や意思、さらにそれを超えてある状態を目指す性向に付随するものとなる。そして、私たちの身体がそれ自身としては生を目指す機構であり、私たちの意志を超える文化が行動様式を維持する傾向があることから、私たちの生きる上での振る舞いの中に「合理性」を持たない行為はほぼ存在しなくなるだろう。

 このような観点からすれば「合理的でない」という言葉は「あなたと私の目的は違う」という言葉の拙い表現であることも多いかもしれないし、「合理性」のない人間というのは目的が定まらないような状態の人間や、目的に対して間違った選択をする人間だといえるし、「合理性」はある一者の行動の様々な階層に存在するということになる。この意味でいえば気まぐれで行動する黒は決して合理的ではない。

 作品とはあまり関係のない話に見えるが、このような定義とそれにまつわるパラドクスを考えれば契約者の合理性について、そしてその進化の形としてのドールという存在を紐解く手がかりになると思う。たとえばこの考え方からすれば、「合理的でない人間はほとんどいない」ということになり、心や感情とは違う側面から見ても「契約者と普通の人間の区別はつかない」。

 では、以上のように合理性というものを考えた時、契約者はどのように合理的だろうか。恐らく、この作品の契約者は大まかには「あらゆる文化や他者との心の交流を捨て、ただ自己の目的と利益のためだけに生きる」合理性を有している。契約者もそれが表面に出ないだけで心を持っているから、その傾向が強くなってしまったということになるだろう。それは他者との競争を生き延びるための進化だろうと教祖アルマは述べている。

 では、そのさらなる進化の先であるドールはどうか。ドールはプログラミングをされなければ1人では生きていけない、意志のない抜け殻として描かれている。私はこれはドールという存在が契約者よりもさらに「合理性」を追求し、「合理性」そのものを「目的」とするようになった結果至った進化の形ではないかと思っている。これは少し不思議かもしれない。なぜ合理性を追求する結果、何もできなくなるのか。

 ここで考えてみたいのは、上で見たような「合理性」は常に目的と選択の間の「関係」として存在しており、それ自体は何か精神的な感情や価値を含むようなものでも、現実の物理的対象を含むものでもないということだ。だから、「合理性」のために「合理的」になる時、人は現実と心に関するあらゆる「目的」を見失う。

 なぜそんなことが言えるのかというと、実際に私がある時期躁鬱に悩まされる中で、とち狂って徹底的に合理的に生きたいと思ってなりきれずに、奇行を繰り返していたときに、そう思ったことがあったからだ。馬鹿げた話だが、それは確かこの作品を知る前の話だったと思う。だからこそこの作品が他のどんな作品よりも好きだったりする。

 そして、このような倒錯は何か珍しいことではないことも述べておく。理念型としての資本の運動は、マルクスによればG→G'の交換を続けていくことであり、物理的欲求を満たすためでもなく、通常の物心崇拝を行うでもなく、ある種の合理性、交換可能性そのものであるところの貨幣を増大させることである。

 それは個人の中には存在しなくても、ある組織が営利目的の形態を取れば、掲げる理念がどうであれ否応なく競争に巻き込まれるから、この世にかなりの規模で存在しているだろうということは言える、もちろんそれが善か悪かは差し置いての話だ。

 それはともかく、ドールと化した人間の現実に対する関心の薄れは、淡く心を取り戻しつつある銀の「悲しくないことが悲しい」という言葉、メタレベルの感情、離人症のような状況に現れていると言っていいと思う。ちなみに、契約者にも類似したことが起こっているのが20話での岸田志保子の「契約者の記憶は普通の人間の記憶と違って冷たい」という言葉から推測できる。

 つまり、恐らくはドールは契約者以上に「合理性」を求める「合理性」に突発的に、強力に取り憑かれ、現実と心に関するあらゆる目的を見失い、文字通り離人症の如く魂が観測霊として抜け落ちる「進化」を遂げた人間の形なのだ。

 それはあるいは、あらゆる欲求と欲望を失うという点で、極めて暴力的に涅槃や悟りに似た何かに陥った状態と言えるかもしれない。そう考えれば、自己の願いの成就を求めて合理的に他者を殺し流れ星を流す契約者が、意志さえも持たず何も求めることがないドールの進化の途上であることが理解できるだろう。そして、その両者とも人間の歩みうる状態が部分的に増幅され、過剰に進化してしまった形態であることも。特殊な能力を得ることは二の次であり、この「進化」こそが契約者とドールを特色付けるものなのだ。

 これに関してはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を考えてみてもいい。ある種の宗教的な禁欲と資本主義の精神は徹底した合理性がたどり着く場所として、類似しているという一つの例にはなるだろう。

 では契約者が「他者との競争を生き延びるための進化」といった点についてはドールはどのように関連するのだろうか。ここで考えたいのは通常の「ドール」を超えて意思を持ち進化していった銀の存在とそしてその後に現れた少年である。契約者の進化の先としてのドールもまだ一つの進化の途上であるのだ。

 外伝、流星の双子の銀は契約者の能力を暴走させ殺害し、周囲にいるドールや契約者、人間から観測霊を引き抜く存在に変貌している。引き抜かれた観測霊は銀の周囲を飛び回っている。さらに、銀のいなくなった後に出現した少年も同じだ。これは「他者との競争の世界を生き残る」ための、「他者と競争しなくてもいい世界」を作るための、一つの進化だと思う。

 つまり、銀は対抗相手となる他の契約者を殺害、ドールを自らに取り込んでいくことで競争に打ち勝つと同時に契約者の煩悩、欲求を暴力的な形で解消し救済し、最後の少年も他者を観測霊に変えることで、人間を争いの存在するフィジカルな存在から魂だけの存在に作りかえて保存し、DARKER THAN BLACKの「万人による闘争」の世界に対して、争いの消失という一つの解決策を実行していく存在に進化していたのだろうということだ。こういったモチーフはやはりエヴァンゲリヲンからの影響を強く受けているだろう。

 また、これは同時に外伝で黒が銀に言った「俺をひとりにしないでくれ」という願いを叶える行為でもあるかもしれない。魂を収集することで、孤独の解消を叶えてしまうのである。

 この銀の進化の引き金は黒の優しさだったり、銀との共依存に近い愛情だったりするわけだが、この作品の世界観から考えて、恐らく黒がいなくとも、黒と同じくらい優しい人がドールのそばにいれば、確実に同じ道をこの世界は歩んでいただろう。蘇芳に恋をしたジュライや健児と一緒にいたドールも変化をきたしているのだから、この最後の少年がもたらすであろう災いを黒の責に帰すことは酷なのではないかと思う。

 もちろんこれらのドールの進化は、個体としての人間にとっては脅威であり、それに対抗するために新しい「組織」や、紫苑の偽物である蘇芳のコピーされた地球、契約者とドールのいない偽物の地球が生み出された。

 以上が作品に登場する契約者、ドール、銀、最後に現れた少年に対する私の解釈となる。誰が見てもわかることではあるが、DARKER THAN BLACKは全体として、幾多もの増幅された合理性の衝突とその回避をめぐる物語としての側面を持つということだ。

 そして、アンバーの残した予言「争いは果てなく続く」は少なくとも2つの解釈ができる。①最後に出てきた少年をめぐって人間の間で争いが続く。②最後に出てきた少年、全ての人間を一つにする少年を克服したからこそ人間の間で争いが続く。それが本当に何を意味するのかは想像するほかない。

 そして、最後にひとつだけ。岡村天斎監督はこの作品では他の作品にはしばしば出てくるような有名な能力が登場しておらず、それはこの作品のテーマに関わるものだと言っている。これについて勘で私の答えを書いておこう。

 それは「心を通じ合わせること」、読心術やテレパシーのような能力ではないかと思う。というのも人間が何を考えているかわからない契約者を恐れている描写は多く、その困難な相互理解はこの作品のテーマの一つかと思うので、その力が登場すると作品がなりたたないからだ。

 当てずっぽうの答えを書いたところで、このパートを終わりにする。

この星の光をあまねく世界に――謀略のズヴィズダーについて

 DARKER THAN BLACK(以下DTB)は各話を解説してきたが、ズヴィズダーはあまりに理解不能なので、そういう形ではなく、解釈可能なところを可能な限り説明していく。

 私の考えた結論から述べれば、謀略のズヴィズダーはディオゲネスやカントに連なる世界市民思想を萌え?アニメの中に堂々と忍ばせた愛に満ちた野心的作品である(ジャンルがよくわからないが、萌えアニメで通しておく)。

 そして、ここには無駄のない幾多もの合理性の衝突で死にみちていて、それでいて穏やかな救いを求め破綻していたような、それまでの陰鬱な世界観への快活なアンチテーゼが仕込まれている。ここまでの自己批判というのはなかなかできるものではないと思う。

 深読みしすぎかもしれないが、私なりの解釈を一つ一つ説明していくしかあるまい。各話のストーリーはもうよくわからないので傍に置いておく。さあ、もうどうにでもなりやがれ。

●なぜみんな仮面を被っているのか

 DTBでは黒が仮面を被っていたのがなんか悲壮な感じだったのだが、人間の本当の顔など誰にもわからないのだから、他人に理解されることも他人を理解することも諦めて、もう被ったまま楽しんで生きていこうということだろう。
 このことにはもう一つ別の意味があるが後述。

●ガラクーチカとは何か

 「ガラクタ」と「銀河」のダブルミーニングである。ロシア語ではあるものを愛情や愛着、親近感をもって呼ぶとき、指小辞がついて、рука(ルカー)→ручка(ルーチカ)(日本語訳:手)のように単語が「チカ」という語尾に変形することがある(ロシア語を勉強していたのがずいぶん前なので発音などに自信がないが、そういう変化は確かあった)。

 なので、「ガラクーチカ」は文字通りロシア語で「銀河」つまりこの世界を表現すると同時に、暴力性を免れないこの世界を、幼児のぬいぐるみという何の価値もないものとして日本語の単語での「我楽多、ガラクタ」と見なす高慢な絶望を表しながら、それは性愛の象徴である兎の形をもち、その単語をロシア語の文法で変換させて指小形を作り、愛着や愛情をもって呼ぶという多義的な意味を持つ。ロシア語のつづりでは齟齬が出ていると思うが、まあ日本語とロシア語のキメラだから仕方あるまい。

 ガラクーチカ、それは暴力に満ちた世界への高慢な絶望、そしてそれを乗り越える愛情と愛着を象徴する、このどうしようもない世界を愛そうという意志が込められた底なしに陽気なアイテムなのである。だから、それを失ったヴィニエイラは精神が不安定になる。

 幼女がこのアイテムをもってして説得する相手をぶん殴るというのはなかなかに痛快だ。きっと私も、というよりも私こそこれでぶん殴ってもらわないといけない人間だ。

●クルクルとは何か

 未来が「来る」ということだと思う。この作品の解釈はなかなかにロマンチックかもしれない。知性の涙が未来を呼び寄せるといった感じだろうか。

●たばこ批判

 第一話の騒動で天安門事件をパロディーしながら、ただ立ち尽くすだけでなく説得術で積極的に戦車をぶち壊すことでそれを乗り越えることを暗に宣言しつつも、結果けが人0であることからわかるように、不条理全開ながらも基本的に反戦で人命尊重、生命礼賛である。

 生を健康的に謳歌するという観点から、人間の命を削る愉楽であるタバコは批判される。まあ、それよりも自虐ネタだろう。学生運動のパロディでそれ自体も揶揄されているし、ズヴィズダーの一員に喫煙者のヤスがいるので、そういったものが完全に排除できるものでもないことも示唆されている。

●ズヴィズダーという組織名

 DTBからの流れで解釈することができる。DTBでは銀色の月の光は満たされた安らかな楽園のイメージであり、流星は願望の成就と契約者の死を意味した。

 この作品ではロシア語で星を意味するズヴィズダーの名を冠することで、秘密結社というその「組織」自体が、ヴィニエイラ、星宮ケイトによる世界征服という達成すべき目的、願いを持つ一つの星であることを示す。

 そして、月はモチーフとしては消失しているが、満たされた安らかな楽園のような心は完全に消えているわけではないと思う。星宮ケイトの髪の色が銀色であるのがその名残で、ズヴィズダーは安らかな満ち足りた心で、不条理な騒動を巻き起こしながら、世界の説得=征服を行っていくのだと私は推測している。

●ヴィニエイラの説得術

 ヴィニエイラの説得が拳の暴力として描かれるのは、ヴィニエイラ自体が不条理な存在であることを示すと同時に、説得という限りなく理性的な方法であっても、"選択"という暴力を免れないからではないかと思う。それは少なくとも2つの側面から他の可能性を排除する。

 一つはコンスタティブな側面で、人は言葉や記号を使用するとき、意味のレベルで必ず他にとりうる可能性を排除している。もう一つはパフォーマティブな側面で、相手を議論に付き合わせるという姿勢、それは相手がその時他にとりうる行為を排除する。

 例えば、ソクラテスが対話の際にしつこすぎて相手に殴られたという逸話はこの2つ目の側面、議論をふっかけられた相手の煩わしさを示すものであり、さらに言えば、対話という文化がない社会に議会制を持ち込んだりするとき、それまであった制度を破壊することになるだろう。善か悪かは差し置き、選択には必ず排除の暴力が存する。

 また、一見平和な1つ目のコンスタティブな側面は場合によってはパフォーマティブなレベルよりもずっと悪質なものになりうる。なぜならある一者が悪意ある者に説得させられた場合、説き伏せられた者は自らの誤りを訂正するはずの意志そのものに干渉を受け、ある行動を取る際説得される前なら選択し得た選択肢を失ってしまうためだ。そして、それはパフォーマティブなレベルのように一回性のものではなく、説得以降、心変わりをするまでの間ずっとある一者の持つ選択肢群を支配することになる。私はこれが未来に関するものであるとき、とても恐ろしい。

 このように、基本的に説得してしまうという行為は相手の持つ選択肢に干渉するという暴力を伴うものであることを、この馬鹿げた説得術は表現していると思う。なんなればこのアニメが萌えアニメの体裁を取っているのは、快活さと陽気さと性愛のモチーフを生むためでありながら、見るものを"説得しない倫理"のためのカモフラージュを兼ねているとさえ思える。そうであれば私はそれをぶち壊しかねないのだが。

 ちなみにこのような”取り得る行動の選択肢群への干渉”という観点から”権力”というものを考えれば、ミシェル・フーコーの生-権力論と通常の意味での権威や強制力のような形での権力という概念を包括して同じ形式で捉えることができる可能性があると私は考えている。ただ、ここまで抽象化すると、このような関係性は様々なものに広く見られるから、その同一性が指し示し始めるものが、"権力"という概念だけにとどまらず、あまりに広範な何かへと広がりうる。

 もしその関係性にただ一つ名をつけて、あらゆる場面で人がそれを用いてコミュニケーションを取ろうとすると、現在の概念の体系では言葉を交わすことが非常に困難になる。私はおそらく、人間の自然言語でそういったことはできないのだろうと思う。それに、「選択」というものをあらゆるものに見出してそればかり見ていると世界はつまらなくなると思っている。ここではただ、フーコーの生-権力とそれまでの"権力"に共通してある同一性について指摘しておきたかったというだけだ。

 それはさておき、このアニメはその説得の暴力を否定しているわけではない。なぜなら事実ヴィニエイラは不条理そのものとして、地球上の全人類を"説得"して回るつもりだからだ。人を殺すなどは全くせず、命を削る娯楽、喫煙を批判して生を賞賛しながら、限りなく暴力性の少ないはた迷惑な不条理で世界を征服するのである。

 それに、取りうる可能性の排除という暴力から人間が逃れるすべは存在しないから、その点に関しては開き直るほかない。なぜなら、「説得しない」場合、「説得した場合」の選択肢群を排除するのだから、どちらに転んでも選択肢は排除される。そのどちらが良かったか、私たちが死んだ後の遥か未来においてどちらが良かったといわれるのかは究極のところ私達にはわからない。流れゆく時の中で、取り得た選択の結果を完全に再現することはできず、選択したあとから他のありえた世界を見てもそれは想像でしかない。

 だから言ってしまえば、「選択の暴力」を読み取るとき、人は半分夢の世界に足を踏み入れているのである。行動の選択や価値の判断に必要な「可能性を並べて比べる」という行為、差異ある可能性の集合としての比較尺度を事象に当てるという比較行為は人の視座の少なくとも片足を「現実」でない世界に踏み込ませているのであり、その「可能性」に序列をつけて「良い/悪い」を論じても、半分は夢の話でしかない。

 夢の世界に片足を踏み込むことなしには価値判断や道徳的な評価としての「善/悪」も、選択の暴力も、情報による認識も在り得ない。情報による認識については量子力学の世界でそう言えるのかはわからないが、人間の自然言語と肉体的な知覚レベルでは確実にそうだと思う。フォン・ノイマンの言葉であれば「影の社会」、柄谷行人の言葉なら「現実世界は可能世界から見られている」ということ、そういった「他に取りうる可能性」は生きる上で、認識を行う上で見て取らざるを得ない、この世に存在しないものである。

 そして、それは他者との倫理を紡ぐためにも、「何かが存在しない」ということを知ること、「何かであって、何かでない」ということを知ること、差異と同一性を感知することに必要不可欠でありながら、それに深く耽溺しすぎたとき、人は何かを失うのだと思う。

●なぜウドがエネルギー源なのか

 DTBとの対比でみるとわかる。DTBの契約者は自己の利益を動機とした合理性を有しており、無駄なことをほぼしなかったが、ズヴィズダーではまったく逆になるということだ。ズヴィズダーは独活の大木、何の意味もない無駄なもの、無用の長物、余剰を動力源とするのである。陰鬱で合理的に無駄なく自己の利益を求める前作への陽気なアンチテーゼである。

●世界市民思想としての解釈

 分かり切ったことであるかもしれないが私の解釈によるこの作品の根幹のテーマを説明する。逆にそんな深い意味はないだろうといわれるかもしれないが、DTBくらい込み入った謎と意味を残すものを作る人が、ただの作品をつくるはずがないと思う。

 第一話冒頭では荒廃した都市でただ1人の男が大人になったヴィニエイラの像の前でズヴィズダーの合言葉を宣言する。最終話の最終シーンではヴィニエイラが手に持つガラクーチカの目が輝き、明日汰に対する征服の実行が開始されることが示され物語が終わる。この時、「征服」のハンコは押されない。この解釈は次のようなことだと思う。

 みればすぐにわかることだが、この作品では物語の始まりと終わりが完全に逆転している。ヴィニエイラは最終話において、地紋京志郎、つまりこの「大地」における「今日」、「現在」の征服を完了し、そして、次に明日汰、つまり「明日」、「未来」の征服を開始することを宣言しているのであり、第一話冒頭において地球最後の人類がヴィニエイラ、”性愛と美を司る女神”の像を前にズヴィズダーの合言葉を述べることで、世界征服が完了したことを示す。

 つまり、そこにおいて、地球最後の人間が性愛と美、人間の持ちうる一つの愛によって征服されたため、ヴィニエイラの野望が達成されたのである。もちろん、周囲が荒廃しているあたり、その統治についてかなり怪しいものがあるのだが、それはもはや人類が生存可能な環境がなくなる極限の長期間を生きて、地球が荒廃していてもなお、ヴィニエイラ、性愛と美を礼賛することができた、後悔も恐れもなく幸せに最期を迎えることができた、という可能性を排除するものではない。少なくとも「地上に立つ最後の人間」がこの世界を愛することができたのだと思う。

 それが正しければ、これは紛れもなくディオゲネスやカントに連なる世界市民思想の表現であり、それは地球上で時空間を超えて普く人間に愛を伝播させるという理念であるとみることができる。それを伝える媒体が萌えアニメであるというのが奇抜なところであるが、世界市民思想として可能な限りあらゆる文化を許容するならば、その媒体に制限をかける意味はない。寧ろ誰もそこにそんなものを配置すると予想しないような萌えアニメを媒体としたことにその倫理と思想の発現があるとみてもいい。

 これを初めて観たときの前後で確か私は『貨幣論』を読み返していて、「貨幣」は「未来の他者」からの贈与であるのに、環境問題は「未来の他者」の生存環境を著しく破壊していると思って憤慨していた。そんな中で「未来の他者」について考えていても、このような最後の人間を拾い上げる思想があり得るということを、私は決して思いつくことが出来ていなかった。だから、この作品を見て理念として解釈したとき、驚愕し、感極まるものがあった。創作された作品を見ていて、これ以上の驚きを覚えたことはないと思う。

 私は自分で作った低俗で幼稚な文化テロ作品における根幹の思想をここからオマージュというか、もろパクリしたくらいだ。舞台の設定など諸々の事情から、性愛と余剰のテーマは抜け落ち、美のテーマは少し異なるものにすり替わったのだけれど。

 この作品とDTBのアンバーの言葉には、ある種の、人間が自身の生涯を超えない範囲、「現在」での快楽を追い求め、今現時点でこの世界に存在するものより何かすぐれたものが存在しないかのように、「現在」すでにあるものに頂点を設定する「現在中心主義」と呼べるような、人が気づくと保有してしまっている態度への強烈なアンチテーゼを含んでいる。岡村天斎監督の作品が作品内で描写されてきた物語が、その後に始まる巨大な変化の「始まり」の部分でしかないことを示唆して終わるようになっているのもその態度の表れであろう。岡村天斎監督の作品において、私が最も高く評価したいと思う点はそこだ。

 「現在中心」の思考を全て捨てるのは悲劇だが、事実資本主義下での社会や現在の大衆の意志や国家はそういったもの、個人の生涯を超えない利益に飲み込まれすぎていると思う。少なくとも、資本主義社会のまま環境問題や格差の問題を解決するにしても、そうでなく異なる社会に移行しようとも、いかなる道を進むのであれ、この「現在中心主義」を多かれ少なかれ軌道修正する必要があるのではないだろうか。もちろん、きっと社会が「未開」のままであれば永遠に「現在中心」でも良かったのだ。いやむしろ、共同体の神話と物語が紡がれる「未開社会」に「現在中心」の行動様式があるというよりは、もっと異なる時間が流れているのかもしれないが。少なくとも、現在の状況では二重の意味で「現在中心主義」に「未来」はないのではないかと思う。

 だから、これらの岡村天斎監督作品に読み取れる、私の考えが及びもしなかった思考、危険な香りを漂わせ自ら警戒させながらも、地球上で現在を超えて、時空間を超えて、"遥か未来"まで愛をあまねく広めるという世界市民思想を堂々と萌えアニメに忍ばせるその挑戦に、私は惜しみなくもてる限りの最高の賛辞を贈りたい。これが私がこの7〜8年間、岡村天斎監督の作品について論じたかった、というか褒め称えたかったことである。

●お宝編

 お宝が何なのかは不明だが、それを手にして巨大に変身することで、ヴィニエイラが人間ではないことが明示される。そして、明日汰、「未来」を征服することができないことに苛立ちを憶えている。このとき、「誰もが世界征服者となり得る」という言葉とともに「東京都の軍隊」やプラーミャやウーム、ホワイトイーグレットが映るが、これは彼らが全員人間の姿をしていながら、「性愛と美」に並ぶ一つの概念を象徴していることを示している。この作品の登場人物は人間であると同時に概念の顕現であって、その点なにかの神話に近いものがあるように思う。

 プラーミャとピェーペルは炎と灰で「争い」、ウームは「知」、ホワイトイーグレットはホワイトライトの一員であり、それは飛鳥時代の陰陽寮というやたらと古い起源が示唆されているが、陰と陽を分けるもの、恐らくは「正義」の概念の象徴だ。そして、その中でも駒鳥蓮華だけは「良心」の象徴である。ホワイトライトではクイズがよく出題されているが、それは「正義」が生きる人間のために機能するとき、「良心」への問いかけが行われているということだろう。東京都の軍隊は何といっていいかわからないが、「命を削り、後ろ暗い手を使う正義や愉楽、憂鬱」のようなものだろう。このどれもが征服を競い合い、最終的にヴィニエイラがすべてを掌握し、勝利したということになる。
 また、明日汰が「自分は子分」だといって仮面をかぶるが、それは仮面と忠誠の言葉という征服の証が同時に明日汰の本当の表情を隠してしまうものであることを示す。それが続く限り、未来がどうなるかは誰にも分からない。

●なぜヴィニエイラの成長は止まっていたのか

 よくわからない。無理やり説明しようと思うと、ヴィニエイラ自体が「性愛と美」の観念そのものという抽象的な存在であることを示すと同時に、世界のあまねくすべての場所で、遥か未来、最後の人類までがそれらを礼賛できるようでなければ、その愛は未熟なものにとどまったままだということを示すのではないかという解釈くらいしか私はできない。

 ヴィニエイラはバイクの免許証がやたらと古く、1万2000年周期でウドが枯れることを知っているほどの恐ろしく古い存在であることが示されている。恐らくヴィニエイラが「性愛と美」の観念そのものであるため、時に凶悪な姿で暴走しながらも、太古の時代から存在しているものであることの暗示だと思う。

 結論として、時空間を超えて普遍的でない愛は未熟なものでしかなく、この作品はそれをもってあまねく世界を征服するという壮大な野望、輝く星として表現された一つの願いであると、そう思う。この星の光があまねく世界に広がることを、こっそりと願っている。

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