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谷崎潤一郎「陰翳礼讃」にみる和文化の真髄3 〜漆と闇の文化〜

みなさまこんにちは。
葛西です。


いはやは、残暑厳しき折、もう9月も末だというのに29度。
秋の到来が待ち遠しい今日この頃でございます。


さてさて、本日も一緒に、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」について読み進めていきましょう。

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本日は「闇」に関するお話。

この「闇」というキーワード。
陰翳礼讃はじめ、日本文化を研究する書物の中で頻繁に出てくるワードであります。
日本文化とは、すなわち「闇の文化」である、と。

最初こそ「はて?」という感じだったのですが、いろいろ勉強しているうちに最近では、「なるほど、日本文化は闇の文化だ!」と納得がいくようになりまして、
昨年には「闇」をテーマにした楽曲「天の羽衣(あまのはごろも)」も発表させていただいた次第です。

このあたりはまた詳しく書くとして、本日は導入箇所から読み進めていきましょう。


京都に「わらんじや」と云う有名な料理屋があって、こゝの家では近頃まで客間に電燈をともさず、古風な燭台を使うのが名物になっていたが、ことしの春、久しぶりで行ってみると、いつの間にか行燈式の電燈を使うようになっている。

という一文から始まります。

この「わらんじや」という料理屋さん、ぜひ行ってみたいと思い調べてみると、現在は「わらじや」として現存するようですが、当時とは名前と場所が違うようです。

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*写真はhttps://tabelog.com/kyoto/A2601/A260304/26000406/より拝借

「わらんじや」は東山公園内にあったそうですが、「わらじや」は七条通りにあるそうです。
メニューも、当時は大根のふろふきが有名だったそうですが、現在のわらじやさんは、「鰻雑炊」がただ一つのメニューである、と。
(それもそれで食べてみたい!)
どちらにせよ、いつか京都にいく機会があったら行ってみたいと思います。
行ったことがある方、ぜひコメントくださいませ!


話は戻り、「闇」の話。
料理屋の客間で蝋燭を使うのが名物だったとのこと。
その意味について、谷崎氏は下記のように述べています。

その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明かりの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことだった。(中略)
その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。そしてわれわれの祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである。

薄明かりの中で見る漆器の美しさについての鋭い見解を述べています。

私、父親が青森県は弘前の出身でして、実家の箸やお椀は全て「津軽塗り」のものだったんですね。

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*写真は青森県漆器共同組合連合会(https://www.tsugarunuri.org/)さんより拝借

こうして見ると、本当に美しい。
恥ずかしながら幼少期は「変わった模様だな〜」くらいにしか思っておらず、実家を出てからはそういった器も使わなくなってしまったのですが、こういった文書に出会うと、改めて薄明かりのもと漆器で食事をしてみたい、と思うのであります。


さて、続きます。

漆器と云うと、野暮くさい、雅味のないものにさえてしまっているが、それは一つには、採光や照明の設備がもたらした「明るさ」のせいではないだろうか。事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていい。(中略)昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包み込む暗黒の中から必然的に生まれ出たもののように思える。

ここではじめて、「闇」という言葉が出現します。
漆器の美しさは「闇」を条件に作られており、翻って、「闇」を前提に漆器は作られているのである、と。

古えの工藝家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光の中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。つまり金蒔絵は明るい所で一度にぱっとその全体を見るものではなく、暗い所でいろいろの部分がときどき少しずつ底光りするのを見るように出来ているのであって、豪華絢爛な模様の大半を闇に隠してしまっているのが、云い知れぬ余情を催すのである。そして、あのピカピカ光る肌のつやも、暗い所に置いてみると、それがともし火の穂のゆらめきを映し、静かな部屋にもおりおり風のおとずれのあることを教えて、そぞろに人を瞑想に誘い込む。

ここにてようやく、「漆」という文化が持つ意味、さらに蒔絵をはじめとした金箔の絵の意味が明かされるのであります。
なるほど確かに、周りを闇で埋め尽くすからこそ、その美しさが一層際立つ、と。
さらにはそれがはっきりと表に出て来ず、「ときどき少しずつ底光りする」のを日本人としては「美」とするのでしょう。

実は和太鼓にも漆が、そして物によっては蒔絵が施されているのでありますが、いやはや、これらはこうした暗闇の中でこそ、真価を発揮するのですね。

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では一体なぜ、日本人はこういった美的感覚を手に入れたのでしょうか。
なぜ日本人は、「はっきりと表に出て来ず、ときどき少しずつ底光りするのを「美」とする」のでしょうか。

そのヒントとなるのは、引用箇所の最後の一言、「そぞろに人を瞑想に誘い込む」というところ。

この「瞑想」というキーワード、これも日本文化を考える上で非常に重要なキーワードであると私は考えています。

日本人にとって「瞑想」、つまり、自分の想像の中に自由に幸せな空間を作ることがとても重要であって、そのために(瞑想しやすい環境を作るために)、様々な文化、建築が成されてきたのではないか?

というのが個人的な仮説です。

翻ってこれは、「現実世界に幸せを求めることを早いうちから諦めることができる」=「諦めの文化」と捉えることもできます。
長くなってしまったので細かくはまた書きますが、個人的には、

日本人は現実世界への諦めが早い
→想像の世界に幸せを作り出すことが得意
→その装置としての「闇」の文化が出来上がっていった

というプロセスがあるのではないか、と考えています。

もしそうだとしたら、SNSを始めとした「見えすぎることによる疲弊感」がはびこる現代において、意図的に闇を作り出し、個々人の想像の中に幸せな空間を設けようとする試みは、非常に意味のあるものになりますね。


そんな取り組みをやっていきたいなあ〜とずっと思っております。

いわば、「現代に闇の空間を取り戻せプロジェクト!」

蝋燭師さん?とか、ご賛同いただける方お待ちしております〜笑
(そもそもそんな職業があるのか謎ですが)

ではでは、本日はここまで。
本日もお付き合いくださいましてありがとうございました!


<本日のコメント募集>
本ブログでは、たくさんの方と意見交換をしながら「和」の未来を考えていきたいと思います。
毎回テーマを設けますので、ぜひお気軽に、コメントを記入してご意見寄せていただけると嬉しいです。

さて、本日のテーマは「わらんじやさんのような、薄明かりの残る料理屋さん」
今でもどこどこの料理屋さんにそういう雰囲気が残ってるよ!という情報はもちろん、現存していなくても、以前そういったお店にいかれたことがある、など、ぜひ情報をお寄せください〜

私もぜひ、そんな薄明かりの下で漆器を用いて、食事をいただいてみたいと思います。

それでは!


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