Karla
彼女に旅をさせてみようと思った。 どこに行きつくのかは、わたしにもわからない。 もちろん、彼女にも。
わたしがいて、虚構のわたしがいて、嘘に嘘を重ねて真実にたどりつければ、もしかしたら……
窓辺に置いた小さなパソコンデスクの前でカーラは笑っていた。笑いが自然にこみあげてくる。 開いたノートパソコンのディスプレイに映し出されているのは、とある懸賞小説のwebサイトだ。カーラはたったいま書き上げた365枚の小説を送ったところだった。時刻は23時45分。あと少しで日付が替わる。ひたすら書いて完成させ、送ったのである。カーラが笑うのは当然だった。 とにかく二作目の長編を完成させて、送ることができた。今回送った小説も、賞がとれるとは考えていなかった。それどころか、一
カーラにとって福祉の仕事は、選択の余地もなく始めたところがあり、自ら進んでそれを選んだわけではなかった。 一般企業に勤めていたころ、不倫をして、相手の奥さんに会社に乗り込まれ、カーラは破滅した。その状況は、カーラがnoteに書いた小説『来る!』のなかで書いた。あそこで書いたような激しい罵倒も暴力も現実の場ではなかったが、それに近いことはあった。 自主退職の形を取っていたが、実質的に会社を解雇され、故郷に戻り、2年間の引きこもりの末に、福祉の仕事を始めた。どんなに落ち込ん
736枚書いた。そして494枚にした。もちろん小説だ。 その小説を完成させる過程で『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、たいへん役に立った。それはこの本に書かれている様々な小説創作の技術についてだけのことではない。過去に読んだ同じ系統の本に書かれていた内容を、再度理解させてくれるという意味でも役立った。過去にそれを目にしながら、浅い理解しかできなかった様々なことが見えるようになってきたということだ。 非常に乱暴な言い方をすれば、小説技法について書かれた本というのは、 「
その頭痛がいつ始まったのか、よくわからない。はっきりしていることは、六月、事務所に怒鳴り込んできた美幸に突き飛ばされて、したたかに後頭部を打った、あの日以前にはなかったということだ。 ではいつなのかということだが、はっきりとそれを意識した最初の日は、このグループホームに初めて来た日だった。どこかに前衛芸術の匂いがする、ということはつまり、ちょっと落ち着かない気分がする輝の建物を眺めていたとき、一瞬だが、こめかみにずきんときた。しかし、その日はその一瞬以外、特に頭痛はなかっ
聖書の話をしたからいい人とは限らない。それを言い出せば、福祉業界には福祉の意義や利用者への愛や寄り添う心について語りながら、やっていることは真逆という人間はざらにいる。たとえば堀川所長もそういうひとりだ。そういった人間の方が圧倒的に多いといってもいいくらいだった。 わたしは真壁理事長の言葉を真に受けたが、真壁理事長の人柄まで信じたわけではなかった。辞めてはいけないとわたしを諭した真壁理事長の言葉は、真実に通じていたかもしれない。しかし、本音の部分で打算がなかったと言えるだ
人間という生物は自分で思っているよりもずっと愚かなものだ。自分がことの当事者であるにもかかわらず、まったく気づかないことがある。まさかという思いが、真実を隠してしまう。わたしがそうだった。 その日、わたしの住んでいる地域が梅雨入りした。六月の初旬。雨は二日前から、しとしとと降りつづいていた。梅雨入り宣言の前に、感覚として、すでに梅雨だという気分があった。アパートの窓から外を眺めると、いかにも重たい灰色の雲が空を覆い、強くもないが弱くもない雨が降っていた。 わたしが暮らし
職場でとても嫌なことがあった。わたしというよりも、新しい職員に対する、ちょっとまえに入った職員の、露骨な嫌がらせ。わかくてちょっとかわいいから、嫉妬しているのかもしれないけれど、もう何度も見た光景。 こういうことがあるから書きたくなる。
町はずれの市営住宅でNさんの姉にあった。 「ご迷惑をおかけします」 Nさんの姉は、Nさんよりも二歳上だった。まだ四十代だが、年齢以上に老けて見えた。人生に疲れ果てた印象だった。子どもがふたりいるらしい。ひとりは女の子で、高校を中退して、母親と同じ職業、介護士として働いているらしかった。息子は高校生だった。Nさんの姉は一応介護福祉士で、市内の特養で働いていた。 室内は乱雑な印象があった。客が来るということで急遽片づけたのだろうが、普段の散らかりようがうかがえる部屋だった。
気がかりなことはNさんのことだった。山川所長のNさんに対するあのやり方は、明らかな虐待だった。身体的虐待だ。 しかし、彼女は自分が虐待を見過ごしたことについて、特に何も感じていなかった。障害者施設における、虐待、あるいはそこまでいかなくても権利侵害は、日常茶飯事だ。軽微な権利侵害は、それが権利侵害だと気づかずに行なってしまうことが職員にはあった。 例えば非常に忙しいとき、利用者が、 「ねえ、これをして」 と、言ってきたとする。そのとき職員が、 「ごめんちょっと待って」
後、桜の森の満開の下。 某所でこの話をするとシーンとする。特に女が生首で遊ぶ下りはまんまスプラッタ。 本当に物語は語り尽くされてると思う。語り口、文体、表現力。なんと呼んでもいいけど、そういったものが大切なのかなやっぱり。文体って思考のリズムみたいなものなのか。
小説ではないけれど、怪談牡丹燈籠、あれもすごかった。三遊亭円朝という人、生きていたら松本清張さんのような小説家になっていたんじゃないだろうか。 伴蔵のおみね殺しは本当に凄い。江戸の昔を知ってる人の作だから、リアルな描写もあって、震えた。
昔読んでどうしてこんなに凄いのかと思った作品のひとつに野火がある。文体が凄い、文章が凄い。なんと言っていいのかよくわからないが、あんな悲惨な話をどうしてこんなに豊かで美しい表現で書けるのかと思った。ほんと、どうやって書いたんだろう。
15年前、お酒を飲むことをやめました。自慢にもならない😶今は一滴も飲んでないけど、飲めば昔に戻る。間違いなく戻る。酒ですべてを失ったとは言わないけど、それに近かったかな。今は書くことに依存してるかも。お酒を飲まなくなって以来、ずーっと何かを書いている。依存しやすい体質なのかな。
小説みたいなものを書くときは、縦書き表示で対応してる。使っているエディタが縦書き対応で、自分で書いているときは縦書きじゃないとなんとなくしっくりこない。でも読むときは、別に横書きでもどうってことない。あ、これはものによるかな。わたし程度なら縦でも横でもあまり関係ないな。🤔
電子書籍が好きです。最近書籍といえば、ほぼ電子書籍。紙の本を読まなくなったなあと思う今日この頃。 ネットそのものがある種の電子書籍。いつでもどこでも読める便利に負けてしまう。小説の如きものを書いているわりには、そのあたり無頓着なわたし🥴
嘘か本当か知らない。しかし、ある有名な小説家が、三島由紀夫の作品には視点の乱れがあると書いていた。視点なんて作者の視点に決まっているだろう。三島由紀夫ならそう言い放つはずだと、その有名作家は書いていた。視点の乱れなどなにほどのこともない。必要なのは作家の揺るぎない自信だとも、その有名作家は書いている。 まだ小説を書こうとも書けるとも思わなかったそのころ、小説家の感性は凄いと思い、同時に憧れた。しかし、何が凄いのか、どこに憧れるのか、自分自身に対して、わたしはうまく説明でき