見出し画像

わたしの福祉 #4_2

 町はずれの市営住宅でNさんの姉にあった。
「ご迷惑をおかけします」
 Nさんの姉は、Nさんよりも二歳上だった。まだ四十代だが、年齢以上に老けて見えた。人生に疲れ果てた印象だった。子どもがふたりいるらしい。ひとりは女の子で、高校を中退して、母親と同じ職業、介護士として働いているらしかった。息子は高校生だった。Nさんの姉は一応介護福祉士で、市内の特養で働いていた。
 室内は乱雑な印象があった。客が来るということで急遽片づけたのだろうが、普段の散らかりようがうかがえる部屋だった。Nさんの姉も、自分自身の中に何らかの問題を抱えているようだった。
「Nはここにきていません」
 姉は言った。
「心当たりはありませんか」
 牧野主任は訊いた。
「さあ、わかりません。でも、わたしのところには来ないように思います」
「どうしてですか?」
「ひどい姉弟喧嘩ばかりでしたからね。わたしのことを憎んでいると思います。わたしは二度弟を捨てました。最初は今から十年以上前。二度目は、弟を慈光会に預けたときです」
 Nさんの姉は、疲れているのではないのかもしれない。もしかするとNさんの姉は、どこかが壊れているのかもしれない。彼女は考えた。そして、Nさんの姉と自分には、どこか共通したものがあるように思えた。
 彼女は黙っていた。自分から話すつもりはなかった。話すのは牧野主任の役割だ。だが、その牧野主任は黙っていた。
 ふたりが黙っていたからでもないだろうが、Nの姉は話し始めた。
「親に捨てられて、二人だけで何とか生きようとしました。わたしはまだ中学生になったばかりで、弟は、まだ小学生の年齢でした。弟は学校に行っていません。行きかけたけれど、勉強についていけなくて、結局、行かなくなりました。
 ひどい家でした、私たちの家は。父親はひどいやつでね、酒にギャンブル、悪い仲間とつきあっていて、家庭内暴力もひどかった。やくざ気取りのろくでなしです。やくざとつるんで、食い物にされて、金をむしり取られて、母親がパートで稼ぐわずかな金で生活していました。
 その母親も、ある朝いなくなっていました。わたしたちを大切にしてくれた母親でしたが、何かが切れたんでしょうね。母親を恨んではいませんよ、ほんとです。わたしの旦那もひどいDV男でした。わたしも旦那から逃げましたから、わかるんですよ、逃げた母親の気持ちが。
 でも、わたしが母親と違うところは、子どもを連れて逃げたことです。子どもは捨てられませんでした。でも何度かそれを考えたことはあります。子どもがいなければ、子どもさえいなければ、こんなろくでなしと誰が一緒にいるもんかって。子どもを捨てて逃げればどれくらい楽になるだろうって、そう考えたことは数えきれないほどあります。でも、できなかった。
 ふと思うことがあるんですよ。もしかしたら、あのとき母親には男がいたんじゃないかって。母親が子どもを捨ててもと思うのは、結局、男だと思います。わたしもね、旦那に殴られていたとき、男がいれば、一緒に逃げようと思ったかもしれません。子どもを捨てても。たぶん子供を捨てて逃げたでしょうね。ひどい親だと思われるかもしれませんが、人間ってね、そんなところがありますよ。でも、あの頃わたしの周りにはそんな男はいなかったしね。
 まともに生きてきた皆さんにはわからないかもしれませんけど」
 彼女はNさんの姉の話を聞きながら、この人はやはりわたしと似ていると思った。堅実な公務員の父親と元教師の母親の間に生まれ、地方とはいえ国立大学を卒業している彼女とNさんの姉は、どこも似ているところがなかった。しかし、わたしたちは似ている。彼女はそう考えていた。
 Nさんの姉は話し続け、彼女と牧野主任は沈黙していた。
「わたしもね、多分賢くないです。そりゃ弟みたいなことはないにしても、そんなに賢くない。衝動的に動いちゃうことがあります。それで随分失敗しました。ろくでなしと結婚したのも、それだと思います。学校の成績も悪かったし、先々の計画が立てられないんですよ、わたし。なんか全部成り行き任せっていうか、そんな感じで生きてきました、今も生きている。仕事もね、何をやっても長続きしなかった。今やっている介護の仕事、これだけですね長続きしているの。一応介護福祉士ですけど、何で試験が受かったのか自分でもわからないです。ほんとに。
 あ、いま結婚って言いましたけど、本当は籍を入れていません。内縁関係ってやつですね。だから、子どもたちは私生児です。いま、私生児って言わないんでしたっけ、ま、いいか。
 とにかく、母親がいなくなって、しばらくは父と暮らしましたが、その父も姿を消して、わたしと弟だけが残されました。
 あのときはひどかった。家じゅうのお金、百円くらいしかなかった。仕方がないので、万引きをして生活をしました。そのうち弟が万引きで警察に捕まって、わたしたちのことがわかりました。わたしたちは児童養護施設に入れられました。わたしはそこで十八歳まで暮らしました。
 弟に知的障害があるとわかったのは施設に入ってからでした。薄々そうじゃないかと思っていました。字も覚えられないし、いつまでたっても考え方が幼いし、普通の子どもとやっぱり違うんです。検査の結果知的障害があるとわかったとき、なんだかほっとした気持ちでした。
 わたしは十八歳で養護施設を出ました。それから弟を引き取りました。皆にやめた方がいいって言われました。でも、引き取りました。
 ほんとに、わたしってばかでしょう。自分でも嫌になるくらいばか。わたしと弟がふたりで生きて行くなんてできっこないとわかっていたのに、どうしても弟と一緒に暮らすって、意地になってました。生活していくあてなんてどこにもなかった。弟には障害があって、少し考えれば、ふたりで生きて行くなんてこと、できるはずもない。でも、どうしてもそうするんだって。
 弟を引き取って、いろんな人に助けられて、ふたりで生活を始めました。
『もうふたりきりなんだから、頑張って生きて行こう』
 そう弟に言いました。弟も
『うん』
って頷いてくれました。嬉しかったなあ、あのとき。ほんとうにそんなふうに生きていけるんじゃないかって思いました。それから一生懸命生きようとしました、ふたりで。
 でも、うまくいかないんですよね。弟は知的障害があるし、わたしもそんなに利口じゃないし。何をやってもうまく行かないんですよ。いつも貧乏で、苛々していて、そんな感じでした。弟とはしょっちゅう喧嘩をしていました、そのうち、こんな弟がいるから、うまくいかないんだって、そんな気がしてきましたね。皆にやめろと言われたのに、聞かなかったわたしがばかなんだけど、弟に怒っているときは、そんなことはすっかり忘れて、ただ腹を立てていました。弟には責任ないですよ。わかってます。弟は弟なりに一生懸命生きてました。でも、あのときのわたしには、弟が足手まといに思えたんです。
 ふと思いました。こんな弟がいたら、わたしの人生までめちゃくちゃになる。そう思いました。もしかしたら、母親もそう思っていたのかもしれません。あのとき、少しだけかもしれないけれど、わたしたちを捨てて逃げた母親のことが分かったような気がしました。
 そして、弟を捨てました。わたしたちの両親がそうしたようにね。
 弟が眠っている間に、そっと家を抜け出しました。そのころわたしたちは、父親の遠縁の人だか何だかが貸してくれた掘っ立て小屋で暮らしていました。
 そこから駅まで、歩きました。小さな荷物を持って。走っていました。弟が追いかけてくるんじゃないかと思って。住んでいたところから駅まではけっこう距離がありました。そう、普通に歩いて二十分以上かかります。駅についたときはほっとしました。なんだか、逃げ切れたような気持になりました。
 駅前にあるバス停のベンチで始発電車が来るのを待ちました。まだ寒い時期でした。ほんとうに寒かった。でも、これで自由になれるんだと思うと嬉しかった。それから始発に乗って、都会に出ました。
 いろいろなことをしました。わたしにあるものといえば、この体ひとつでしたからね。体を売って生活しました。それからとんでもないDV男に引っ掛かって、一緒に暮らしはじめて、子どもが生まれて、ほんとに苦労しました。あるときとうとう我慢できなくなって、なんにも持たずに子どもだけを連れて、その男のところを逃げ出しました。それから役所の福祉関係者に助けられて、この町に戻りました。
 この町に戻るまで、弟のことは知りませんでした。どこで何をしているのか。でも、わたしを恨んでいるだろうとは思ってました。この町に戻ってからです、弟のことを色々と知ったのは。刑務所に入っていたこととかいろいろと。刑務所から出たあと、施設に入っていました。会いに行くかって訊かれて、はいと答えていました。合わせる顔なんてないのにそれでも会いたいと思いました。もうわたしには肉親といえば、弟しかいませんでしたから。
 会えば恨み言を聞かされる。そう思っていました。でもそうじゃなかった。笑ってくれました。笑って、
『元気にしてた』
 と、言ってくれました。それから、
『心配してたんだ』
 とも言ってくれました。泣きました。泣きながら、
『ごめん』
 と言って、何度も謝りました。
 そのとき、また一緒に暮らそうと思いました。施設にそのことを話すと、やめたほうがいいと言われました。でも反対を押し切って、また一緒に暮らしはじめました。前と同じ失敗です。擁護施設を出て、弟を引き取るといったあのときとおんなじ。今度こそうまく行くと思っていました。だって、わたしも大人になっていたし、いろんな経験もしていたし、今度は大丈夫だって。
 そういうところなんですよ、わたしが賢くないところは。あほなんです。そのときはうまく行くと思うんです。周りの方がよくわかっているんです。わたしがばかだってことを。だからとめてくれる。それでもわたしは言うことをきかない。弟は知的障害があるけど、わたしだってあんまり変わらないのかもしれない。うん、多分かわらないな、わたしと弟の違いなんてほんのわずかだと思います。冷静に考えることがどうしてもできないんです。ぱっと思いついて、ぱっと動いちゃうんですよね。
 で、また失敗しました。弟との暮らしはすぐにいきづまって、市の福祉局の人に泣きつきました。それで慈光会に弟を入れてもらったんです」
 そこまで話してNの姉ははっとしたような顔になり、
「ごめんなさい、なに話してるんだろう。ごめんなさい。弟が迷惑をかけているときに、身の上話なんかを長々と聞かせっちゃって」
「いえ」
 牧野主任は言った。曖昧な言い方だった。Nさんの姉の話は、多分、この社会の陽のあたらない片隅に、多くはないにしても、確実に存在している話だ。聞いても何もできない。でも、聞くべきだ。彼女はそう思った。
 そのとき、ふと彼女の頭に浮かんだことがあった。
「すみません」
 彼女は言った。
「何でしょう」
「Y公園って知ってますか」
「Y公園」
「そうです」
「それ、弟から聞いたんですか」
「そうです」
「弟は、あなたにそんなことまで話したんですね」
「ええ、話してくれました」
「Y公園は公園じゃありません」

 牧野主任は運転をしながら、後部座席に座っているNさんの姉に、
「Y公園って、空き家なんですか」
 と、言った。Nさんの姉は、
「そうです。T市のY地区にある空き家です」
 彼女たちは、Nさんが言っていたY公園に向かっていた。
 Y公園について聞いた後、彼女と牧野主任はそこに行ってみることにした。Nさんの姉が、わたしも連れて行ってください、と言った。牧野主任はすぐに答えることができなかった。いいですよ。言ったのは彼女だった。牧野主任は驚いた顔で彼女を見たが、だめだとは言わなかった。
「空き家なんですよ。ちょっとしゃれた感じの空き家。洋館風っていうのか、そんな空き家です。母親がいなくなった後、よく三人で遊びに行きました。父親とわたしと弟の三人で。その空き家を見つけたのは、父親でした。どうやって見つけたのか知りませんが、ある日、
『面白いところを見つけたから連れてってやる』
 と、言って連れていかれたんです。
 家の前の庭に、ブランコとか鉄棒があるから、公園、公園って言ってたんです。言い出したのは弟でした。自分が公園って言って、それを家族が真似てくれたから、弟はすごく喜んでました。
『今日は公園に遊びに行くぞ』
 みたいな感じで父親が言って、皆で遊びにいくんです」
「Y地区って、でも山の中でしょう」
 牧野主任が言った。牧野主任は地元の出身だった。T市は周辺を山に囲まれた小さな町だ。市街地を離れるとすぐに田園地帯になり、そこを過ぎるとT市を取り囲む山に入って行く。T市を取り囲んでいる山は、いずれも標高千メートル以下の、いわゆる低山だった。それでも山は山だ。そんなところに洋館風の空き家があるというのは奇妙だった。
「そう。だから凄く変な感じでした。なんでこんなところにこんな家が建ってるんだろうって思いました。ちょっと怖い感じもしました。当時はまだ新しかったと思います。だから空き家になって、そんなに時間が経っていなかったのかな。
 でもあれほんとうに空き家だったのかなぁ。空き家じゃなかったのかもしれない。長い旅行に行っていて家族がいなかっただけなのか、よくわからないけれど、わたしたちが遊びに行っていたころは、仮に家族がいたとしても、帰ってくるような様子はなかったですね」
「Nさんはそこでお父さんと別れたと話してくれました」
 彼女は言った。
「そうです。弟は父親において行かれたんです。そのことは、今でも覚えています。日曜日でした。父親がわたしに、
『ちょっとNと遊びに行ってくるから、お前は留守番をしてろ』
 そう言ったんです。ほんとうはわたしも一緒に行きたかったんですけどね、言えなかった。父親が怖かったからです。母親が出て行ってから、父親は荒れてました。それまでも、意味もなくわたしたちを殴っていた父親でしたけれど、いっそうひどくなってました。だから逆らえなかった。何か言って、父親の機嫌を損ねたら、また殴られますから。父親の気分が、どうして変わるのか、何が気に障るのか、わたしたちにはわかりませんでした。わたしの旦那、というか内縁関係ですけど、あいつもそんな感じでしたね。
 父親は弟を連れて出て行きました。出て行くとき、父親はいつ帰るとは言いませんでした。そのときは、いつか帰ってくるんだろう、くらいに思ってました。でも、夜になっても帰ってきませんでした。あんな父親だけど、それでも心配になりました。弟のことはもっと心配でした。いま、あんな父親だけど心配って言いましよね。父親だから心配したんじゃなくて、お金です。しょっちゅうわたしたちを殴っていた父親だったけど、それでも日銭稼ぎの仕事をして、金は家に入れてました。わずかなお金で、ぎりぎりの生活だったけど、それでもどうにか生活はできてました。でも父親がいなくなれば、そのお金も入らなくなります。怖かったですよ、飢え死にするんじゃないかって、本気で心配しました。
 ふたりを探しに行こうとは思ったんです。探しに行こうと思ったけど、もう夜で、暗くて怖かったからいけませんでした。そのまま朝まで待って、それから探し始めました。
 でも、どこを探していいのかわからなくて、焦りました。ものすごく嫌なことを考えました。もしかしたら、父親は弟を殺してしまったんじゃないかって」
「どうして、そんなことを考えたんですか」
 牧野主任は訊いた。牧野主任も彼女の暗い身の上話に、引き込まれているのだということは、それで分かった。Nさんの姉が話す身の上話は、Nさんの生活歴だった。話から推測するだけだが、Nさんの父親も、あるいは知的に問題があった可能性がある。そう彼女は考えた。Nさんの姉の心の中では、ある程度美化されているらしい母親にしても、もしかすると知的に問題があるか、何らかの精神疾患があったのかもしれない。心か知性に、何らかの問題を抱えた男女が出会って、暮らし始め、子どもが生まれた。やがて、ふたりが姿を消し、子どもたちだけが残された。絵に描いたような悲劇だったが、世の中にはそういうこともあるということを、彼女は知っていた。息子を通して、彼女が学んだことだ。
 Nさんにそういう背景があるということを、彼女はNさんの姉の話を聞いて初めて知った。様々な噂から、困難な人生を送ってきたのだろうということは予想していたが、予想通りの人生だった。清光で働きはじめたころ、一通り入居している利用者の記録に、彼女は目を通していた。それぞれ入所するまでの生活歴があったが、Nさんについてはそれがほとんどなかった。奇妙だと思った。Nさんの生活歴があれほど薄っぺらかったのは、山川所長が隠したからだ。それはNさんが姿を消す前の、山川所長との話し合いでわかった。
「予断を持って見てほしくない」
 山川所長はそう言ったが、それは問題のすり替えだと、聞かされたときも、聞かされてから時間が経過した今も彼女は考えていた。山川所長はようするに、真実を伝えれば職員が怯えるか、あるいは場合によっては逃げ出す者がいるかもしれないと思い、情報コントロールを行なったのだ。今回の出来事のきっかけは、吉田職員が殴られたことが始まりだったといってもいい。吉田職員は、問題のある職員だった。しかし、だからこそ、Nさんがどういう人物なのか知っておくべきだったと彼女は思う。Nさんが暴力的な環境の中で育ち、暴力を問題解決の手段として使うことを知っていれば、あるいはNさんへの対応も変わってきたかもしれない。山川所長の独断は、Nさんを追い詰め、そして職員も追い詰めていた。彼女の中にある、山川所長に対する怒りは、また一回り大きくなった。彼女ははっきりとそれを感じた。
 Nさんの姉は、牧野主任の質問に答えて、
「わかりません。ただなんとなくそんな気がしたんです。
 いや、違うな。違います。
 あのころの父親は本当におかしかったんです。わたしの頭じゃ、うまい言葉が浮かんでこないけれど、気が変になっているというか、狂っているっていうか。とにかく普通じゃありませんでしたから。暴力に歯止めがかからなくなっているみたいなところがありました。だから弟を殺すことがあってもおかしくないと思ったんです。
 とにかくあてもないのに探しました、二人を。探しているうちにふと思いついたんです。もしかしたらY公園にいるんじゃないかって。それから走りました。走ってY公園に向かいました。家を出て町の方を探していたから、Y公園に行くのは時間がかかりました。わたしは必死でした。
 Y公園が近づいてきたとき、歌が聞こえました」
「妹が白い粉で遊んだという歌ですね」
 彼女は言った。
「そうです。そのことも話したんですか」
 Nさんの姉は言った。
「いつも歌っていましたからNさん。聞いたらお父さんがいつも歌っていた歌だと教えてくれました。お父さんがいなくなったとき、その歌を歌ってずっと戻ってくるのを待っていたとNさんは言っていました。
 すみません、嫌なことを思い出させたかもしれませんね」
「そんなこと」
 Nさんの姉は言った。その顔にうっすらとした笑みが浮かんでいた。Nさんの姉の笑顔を見るのはそのときが初めてだった。笑うとNさんの姉の笑顔には、陰惨な影があった。殴られて血まみれになっている人が笑っているようだ。Nさんの姉は黒い笑いを浮かべたまま、
「そんなこと、なんにも気になりません。もっとずっとずっと嫌な目にあってきましたから、わたしと弟は。
 馬鹿にされて、蔑まれて、笑われて、嫌われて、ほんと嫌な思いばっかり。ほんと、どうしてわたしたちなんか生まれてきたんだろうって、何度も考えました。いまだって考えますよ。皆さんにはきっとわからないと思います」
 わたしにはわかる。彼女は思ったが、口に出さなかった。息子とふたり、公園でおにぎりを食べた日々のことが生々しく甦ってきた。どこにも行くところがなかったあの日々だ。
「父親は音楽なんて、まるで分らない人でした。それなのにあの歌だけはよくうたっていました。一体どこで覚えたのか。
 歌が聞こえたとき、わたしは泣きそうになりました。弟が生きているんだってわかりましたから。
 行くと、弟がベンチにポツンとひとり座って、歌っていました。わたしが近づいていくと、気がついて、
『ねえちゃん』
 と、笑いかけてきました。信じられませんでした。一晩中そこにいたんですよ。夜露に濡れてひどい恰好でした。でも笑いかけてくれた。わたし、泣きました。弟の方が驚いて、
『ねえちゃん、どうした』
 そう言って近づいてきました。わたしは弟を抱きしめました。弟はびっくりして、
『ねえちゃん、痛い。どうしたんだよ』
『ごめん』
 わたしは手を離しました。
『お父さんは』
 わたしが訊くと弟は、
『ここで待ってろ』
 と、言ってどこかに行ったと言いました。ずっと待ってたんだと弟は言いました。そのとき十歳でした。十歳の子どもが、町は近いといっても山の中でひとり待ってたんです。
『怖くなかった』
 わたしは訊きました。弟はわたしの言っていることがわからないみたいでした。怖がってはいないようでした。ただ、
『腹が減った』
 と、言いました。それから家に戻って。少しだけ残っていたお金で、パンと牛乳を買いました。そこからです、ふたりで暮らし始めたのは。あとはさっき話した通りです」
 Nの姉は悲惨な話を、淡々と話した。Nさんの姉は自分のことを利口ではないと言った。人の価値を一面的に判断するのは危険だし、してはいけないことだったが、確かに、Nさんの姉は十分に知的とは言えないかもしれない。しかしそういった人であっても、差別を受けず、困窮せず、暮らしていけることが、その国の価値ではないのか。生まれただけでよかった。あなたはそこにいてくれるだけでいい。その言葉は、誰にでも平等にかけられるべき言葉だった。果たしてこの国はそうなのか。彼女のなかにある怒りの炎はさらに大きくなり、忘れ去ることはもちろん消すことも、いよいよできなくなった。なぜNさんもNさんの姉も苦しまねばならないのか。息子はどうして苦しまねばならなかったのか。死に場所を求めて故郷を捨てたと彼女は思っていたが、もしかしたらそうではないのかもしれないと考えた。わたしは答えを求めているのかもしれないと彼女は考えた。どうして生まれただけでよかったと思えない世の中なのか。その答えを探しているのかもしれない。
 牧野主任が運転する公用車はY地区に向かっていた。市街地を抜けてその周辺に広がる農村集落地区に入っていた。道路はまっすぐ、前方にある低い山に向かっていた。
「あそこです、わたしたちが住んでいた家。借家ですけど」
 Nの視線が指す方を見ると、田圃のなかに小さな平屋が見えた。それは、錆びたトタン屋根の掘っ立て小屋だった。田圃の中にぽつんとあって、農機具か何かを入れておく小屋のように見えた。
「ひっどい家」
 Nさんの姉は言った。その声には笑いが混じっていた。その笑顔同様に、陰惨なものが混じった笑声だった。
 農業用水路にかかる橋を越えたところで、自転車に乗った初老の男性とすれ違った。自転車の人物は、彼女たちが乗った車とすれ違った後、自転車を止め、こちらを見ていた。牧野主任とNの姉は気づかなかったようだが、彼女はサイドミラーでその様子を見ていた。
 彼女は知らなかったが地元の人間にとってY地区といえば山の中という印象だったようだ。だが、実際は農業用水路を渡ったところからY地区は始まっていた。直線百メートルほどで道路は山の中に入った。山に向かう道路とはいっても、そのあたりは広くはないにしてもまだ二車線だった。道路は上り坂になった。両側の木々は雑木だった。
「もうすぐです」
 Nさんの姉は言った。その言葉が終わり、数秒後にその家は見えてきた。道路が上り坂になって、五十メートルほど進んだところだった。山に向かって緩やかに登っていく坂道の途中に、その家はあった。Nさんの姉が言った通り、それは二階建てで、レトロな洋館を模した建物だった。外壁は白のラップサイディング、玄関と二階のベランダにはカバードポーチと装飾手すり。普段から人が住む家というよりも別荘だったのかもしれないと彼女は思った。周囲には雑木が生い茂っていた。洋館の背後は山だ。
 牧野主任は公用車を洋館の前の道路に停めた。三人は車を降りた。Nの姉が言った通り、洋館の前庭は小さな公園のようだった。周囲には囲いもなく、自由に出入りすることができた。
「荒れてますね」
 Nの姉は言った。確かに荒れていた。公園のような前庭には雑草が生えていた。ブランコも鉄棒も赤く錆が浮いていた。洋館風の家も、風雨で汚れていた。窓にもシャッターが下りていた。それは確かに、長年放置された建物だった。しかし、荒れているというほど荒れているようではなかった。前庭の雑草も、確かに伸びてはいたが、十分踏みこめる程度で、見た感じ、定期的に手入れをされているのではないかと彼女は思った。
「こんなところに、こんな家があるって知ってましたか」
 彼女は牧野主任に訊いた。
「知りませんでした。
 廃屋マニアの間では有名だったのかもしれませんが、こんなところにこんな家が建っているなんて初めて知りました。これでも一応T市の人間なんですけどね」
 牧野主任は答えた。もしかしたらここには定期的に人がきているのかもしれないと、彼女は考えたが、それは口に出さなかった
「どうします?」
 牧野主任は訊いた。その顔には、いくらかの不安があらわれていた。来てはみたものの、Nがここにいると、牧野主任は思えないのだろう。それに、山の中に突然現れる洋館風の建物は、不気味でもあった。
 問いかけられはしたが、彼女は返事をしなかった。
「Nさん、ここにいるんですかね。なんか、いないような気がしますけど」
 彼女は答えなかった。だが、彼女は牧野主任とは別の感じを持っていた。Nさんはここにいるような気がしていた。Nさんは金を持っていなかった。普通に考えれば、Nさんは遠くに行けるはずがないのだ。道路をてくてく歩いていれば、誰かに見つかる。場合によっては警察に見つかることだって考えられる。警察に見つかれば、Nさんの様子から不審者として職質を受けるかもしれない。そうなれば法人に連絡がはいるのは時間の問題だった。
 彼女は洋館の庭に入った。
「ちょっと」
 牧野主任が言った。声に慌てたような感じがあった。彼女は牧野主任の声を無視して家に近づいて行った。なぜかわからない。だが、Nさんは近くにいるような気が、いよいよ強くなっていた。勘違いかもしれない。でも、もしかすると。
 少し遅れて、庭に入った牧野主任とNの姉が、彼女の横に並んだ。
「いいんですか、不法侵入にならないんですかね」
 牧野主任は言った。不安そうだった。彼女は答えなかった。三人は家に近づいて行った。その足取りはゆっくりとしたものだった。三人は家の前に立った。
「いないですよ、ここには」
 牧野主任は言った。
「いますよ」
 彼女は答えた。
「え? どうして?」
「わかりません。でもそんな感じがするんです」
 彼女は言った。家を見上げていた。
「感じって、そんな」
 牧野主任は言った。
 なぜそんなことを言ったのか、彼女自身にもわからなかった。牧野主任は困ったような顔で彼女を見ていたが、彼女は牧野主任を見ようとしなかった。
「とにかく、一度連絡をします」
 牧野主任は言った。スマホを取り出そうとして、上着のポケットを探ったがすぐに、
「車の中にスマホを忘れました」
 と、言った。牧野主任は車に戻っていった。家の前にいるのは彼女とNさんの姉だけだった。
 背後で人の動く気配がした。同時に悲鳴が聞こえた。彼女とNさんの姉は振り向いた。
 Nさんがそこにいた。Nさんは牧野主任を後ろから抱きしめるようにしていた。その右手には包丁が握られていた。包丁は牧野主任の咽喉にあてられていた。
「おれは帰らないからな」
 Nさんは震える声で言った。
「あんた、なにやってんの」
 Nさんの姉が言った。声に困惑と怒りが入り混じっていた。不思議なことに彼女は落ち着いていた。Nさんの手に握られている包丁はありふれた家庭用のものだった。
「それ、この家の中で見つけたのね」
 彼女は言った。
「そうだよ」
 Nさんは答えた。いきなり、どこから持ってきた包丁かと訊かれて、Nさんは戸惑っているようだった。
「よかった」
 彼女は言った。言葉が勝手に出てくる感じがしていた。自分がNさんに対して何を言いたいのかよくわかっていなかった。ただ、流れに従っていれば、言葉は自然に出てくるような気がしていた。いまのわたしが言いたいことは、わたしの心が知っているはずだ。そんな自信めいたものが、彼女にはあった。
「よかったってどういうことだよ」
「だってここにいれば、たとえ誰かに見つけられなくても、雨露はしのげるじゃない」
「言ってること、わからねえよ」
「わからなくてもいいの。わからなくても、かまわない。人の言うことなんてすべて理解する必要なんかない。わたしは無事にいてくれて喜んでいるの。本当よ。
 Nさん」
「なんだよ」
「一緒に帰ろう」
「いやだ」
 Nさんは言った。語気が荒くなった。
「馬鹿なことを言わないでよ!
 あんたが外で生きて行けるわけないじゃない。また悪いことをして、刑務所に入れられるわよ」
 Nさんの姉が言った。叫んでいるようだった。
「あそこにいても入れられるんだ」
 Nさんは言った。
「どういうことですか?」
 Nさんの姉は彼女を見た。
「所長がそう言ったんです」
 彼女は答えた。声は落ち着いていた。
「なんで? どうして、そんなことになるんですか? 弟がどんな悪いことをしたんですか?」
「職員を殴ったんです」
 彼女は言った。目はNさんに向けたままだった。
「あんた、なんでそんなに馬鹿なの。どうしてそんなことをしたのよ」
「あいつがおれを馬鹿にしたからだ」
「馬鹿にしたって、どういうことなのよ。なんで職員があんたを馬鹿にするの」
「字が読めないって、馬鹿にしやがった。あいつ、ひどいんだよ。おれが食堂の掲示板に書いてある字を読んでくれって頼んだんだ。そしたらあいつ、なんて言ったと思う。
『Nさんは平仮名は読めるんだろう。あそこに書いてあるのは、平仮名だよ』
 そう言ったんだよ。笑いながら。おれを馬鹿にしたんだ」
「平仮名を読めるって言ったの」
「言ったよ」
「馬鹿! どうしてそんな見栄を張るのよ。あんた、平仮名も満足に読めないじゃない。ぺらぺら喋ることはできても、字が読めないじゃない。正直に、最初から言っとけばよかったのよ」
「言えるかよ、そんなこと」
 Nさんは泣き出しそうな顔になっていた。彼女は耐えきれないような気持になった。息子のことを思い出していた。あの子もそうだった。ちょっとしたことで見栄を張った。漢字がどうしても覚えられなかった。それでも読めるふりをした。それがばれて、馬鹿にされ、いじめられるようになった。皆、知的障害者には自尊心がないと思っているのだろうか。そんなことはない。彼らは必死で生きている。必死で自分を保ち、自分の弱みをみせまいとして生きているのだ。それを踏みにじる、優しさのない世間に、彼女は強い怒りを覚えた。
「その見栄で失敗したんでしょう!
 あんたが刑務所に行ったのもそれだったんでしょう。弁護士さんから教えられたわ。
 あんた警察で調書をとられたとき、読めなかったんでしょう。何が書かれているのかわからなかったあんたは、取り調べをした刑事さんに読んでもらい、字が書けないあんたは、拇印を押した。でも、内容が違ったんだよね。あんたが刑事さんから聞かされた話と調書の内容は違った。刑事さんはあんたがそれほど悪くないような話をしたけれど、調書に書かれていたことは全く別のことだった。それであんたは、刑務所に行くことになった。
 後で弁護士さんが教えてくれたわ。そういうことを警察はするって。知的障害のある相手を、そうやって騙すんだって。調書を読めないことをいいことに、言って聞かせる内容と中身がまるで違う話を作って調書にして、知的障害者を犯罪者にするって。あんたはその犠牲者だって」
「おれは障害者じゃない!」
「馬鹿! いい加減で自分のことをわかりなさいよ。あんたは頭が悪いの。頭の悪いわたしよりももっと頭が悪いの!
 刑務所を早く出られたのだって、警察に騙されて、実際の罪よりも重い罪を被せられたあんたを、冤罪事件に取り組んでいる団体の人が偶然知って助けてくれたからじゃない。自分が馬鹿だってことを認めれば、皆助けてくれるの。あんたがいつまでもそうだから、誰も助けてくれないのよ!
 いい、よく聞いて。わたしたちみたいな、育ちもよくなくて、頭も悪い人間は、誰かに助けられなくちゃ生きていけないの。馬鹿にされて、悔しくても、我慢して生きて行くしかないの。あんただけじゃない。皆そう。わたしもそう。高校を中退したわたしの娘も、いま高校生やってる息子だって、おんなじ。息子なんて、高校をやっと出ても、どうせろくな仕事にもつけない。せめて父親のようなろくでなしにさえならなければいいって思ってる。
 わたしたちはね、底辺の仕事を転々として、そのうち生活に疲れて、同じような子どもをつくって、そんなどん底がどこまでも続いていくの。
 わたしの周りにいるのは、わたしも含めてみんな半端ものよ! 
 ほんと、もう嫌になる。嫌になっても生きて行かなきゃならない。どうしてわたしみたいなのが生まれてきたんだろうって思う。どうしてあんな馬鹿親父に女ができて、わたしたちみたいな子供が生まれたんだろうって、いつも考える。どうして子どもを作ったんだろうって。わたしもあんたも生まれてこなけりゃよかったのよ」
 Nさんの姉の叫び。彼女にはNさんの姉の言葉のひとつひとつが、胸に突き刺さってきた。
「おれは障害者じゃない」
 彼女の息子もそう言って荒れた。息子の知的レベルでは、障害という言葉の意味をどこまで理解できていたのかわからない。それでも自分が人よりも劣ったものだと言われていることはわかっていた。
「頭が悪いからいじめられていいのかよ!」
 Nさんは叫んだ。その叫びは、息子の叫びのように思えた。
「そうよ! 頭が悪いあんたは虐めれても、何をされても我慢するしかないの! あんただけじゃない。わたしもそう。馬鹿は虐められても、見くだされても、殴られても、じっと我慢して、笑っているしかないの。そうやってしか生きていけない。生きていけないんだから。
 包丁を捨てるの。お願い、包丁を捨てて。そして施設に戻って」
「何でおれみたいなのが生まれてきたんだよ! もう馬鹿にされて殴られるのはいやだ!」
「あんたは間違ってない!」
 叫んだのは彼女だった。Nさん、Nさんの姉、包丁を首にあてられている牧野主任までも、驚きの表情を浮かべた。
「あんたの言っていることが正しい。遥亮」
 彼女は息子の名前を呼んでいた。
「遥亮って、誰だ」
 Nさんは戸惑うように言った。彼女はNさんに向かってゆっくりと進み出た。わかっていた。そこにいるのは遥亮ではなく、慈光会の入所施設清光に入所しているNさんだった。そんなことはすべて理解しつつも、彼女にはそこにいるのが息子の遥亮としか思えなかった。
「遥亮。
 お母さん、ほんとうに馬鹿だった。あなたのことをわかっているつもりでなにもわかっていなかった。あなたのためにと思って、施設を探していたの。そこでしか生きられないと思って一生懸命探したの」
 Nさんは混乱していた。ちょっと怯えたような顔になり、
「なに言ってんだよ」
「そこでしか、遥亮は生きられないと思った。本当にそう思った。だって遥亮は知的障害者だから」
「だからおれは違うって言ってんだろう。知的障害者なんかじゃないって」
「そうよね。遥亮は知的障害者なんかじゃなかった。知的障害者なんて、わたしたちが勝手につけた呼び名で、あなたたちは障害者なんかじゃない。でもみんなそういうから、なんとなくわたしもそう思っていた。
 でもね、遥亮、これだけはわかってほしいの。わたしは遥亮を守ろうとした。本当に必死で守ろうとした。
 でも、間違いだった。あのとき、わたしがするべきだったのは、施設を探すことじゃなくて、遥亮が皆と一緒に生きていけるための道を探すことだった。わたしがそうありたいと思っているように、遥亮も同じだった。自由に、もっと自由に生きたかったんだって、今やっとわかった。何もかもなくした今になってわかった。
 わたしの愚かさが遥亮を殺した。遥亮、知っていたんでしょう。わたしが遥亮を守るつもりで、本当は遠くにやってしまおうと思っていたことを。遥亮がわたしに望んだのは、自分と一緒に、障害者を受け入れない世間と闘うことだったんだよね。わかっていなかった。なんにもわかっていなかった。遥亮が望んだのは、苦労をしても、外の世界で普通に生きることだった。
 どうして、あのときそれがわからなかったんだろう。わたし、馬鹿だった」
 話しながら彼女はNさんに近づいていた。彼女は自分がNさんに近づいていることを、意識していなかった。近づいているのはNさんではなく、遥亮だった。障害があった彼女の息子だ。
「近づくな、殺すぞ」
「いいよ」
 彼女は言った。その声は優しかった。
「なに」
「いいよ、好きなようにすればいい。でも、その人は離してあげて。代わりにわたしが一緒に死んであげる」
「なに言ってんだよお前。本当に何言ってんだ」
「遥亮、もうあんたを一人にはしない。あのとき遥亮はひとりで道路に飛び出した。わたしも一緒に飛び出せばよかったんだ。今度こそ、遥亮を一人にはしないから。わたしと一緒に死のう。
 正直に言うとね、遥亮が死んでから生きてるって気がしてなかった。人はいずれ死ぬんだってわかっているのにどうして生きているんだろうってそればかり考えていた。わたしね、死に場所を探して、故郷の町を捨てたの。ほんとうの気持ちはよくわからないけれど、どこかで死ねる場所を探していたような気がする。
 わかった。ここがそうだったんだ。わたしの死ぬ場所はここだったんだ。遥亮、一緒に死ぬからその人を離して」
 Nさんは怯えていた。彼女は本気で遥亮に話しかけていた。本気で一緒に死のうと思っていた。
「来るなって」
 Nさんは怯えた顔でさがった。そのときNさんは何かに躓いた。よろけたとき、牧野主任をかかえていた左手の力が緩んだ。牧野主任は反射的にNさんの腕を振りほどいて逃げた。Nさんは尻もちをついた。
「動くな」
 別の方向から男性の声が聞こえた。
 見ると、そちらに警察官がいた。銃を構えていた。
「動くな」
 警官は言った。警察官が構えた銃はNさんに向けられていた。距離は五メートルほどだった。いつの間に、警察官がそこに来たのかわからなかった。そもそもなぜそんなところに、警官がいるのだろう。
 Nさんはまだ包丁を手にしていたが、表情が呆けたようで、さっきまでの必死さはなかった。警察官はじりじりと、慎重に近づいてきた。
「包丁を捨てろ」
 警察官は言った。
 Nさんは包丁を捨てた。
 それは不意に起きた。Nさんは空を見上げ、内臓を吐き出すような号泣を放った。
「遥亮」
 彼女は呟くように言っていた。
 わたしの名前は遠野彩智だ。その瞬間までどこか遠くにあった自分の名前が、確かに自分の中に戻ってきたことを彼女、遠野彩智は感じていた。遠野遥亮の母親、遠野彩智。Nさんの号泣は、彩智にとって、遥亮の号泣だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?