見出し画像

来る! 3

 その頭痛がいつ始まったのか、よくわからない。はっきりしていることは、六月、事務所に怒鳴り込んできた美幸に突き飛ばされて、したたかに後頭部を打った、あの日以前にはなかったということだ。
 ではいつなのかということだが、はっきりとそれを意識した最初の日は、このグループホームに初めて来た日だった。どこかに前衛芸術の匂いがする、ということはつまり、ちょっと落ち着かない気分がする輝の建物を眺めていたとき、一瞬だが、こめかみにずきんときた。しかし、その日はその一瞬以外、特に頭痛はなかった。雨霧主任から優しい言葉を掛けられ、涙を流したとき、頭痛のことはすっかり忘れていた。
 しかし、その翌日、朝起きたとき、頭痛があった。こめかみがずきんとする一瞬の痛みではなく、頭の芯に残る鈍い痛みだった。不吉な予感がした。この頭痛は、この先も残るのではないかといういやな予感だ。それでもまだそのときは、いずれ頭痛も収まるだろうと思っていた。頭痛も、職場に行くころには治っていた。
 しかし、その翌日もやはり頭痛はあった。しかも痛みは、前日よりも、確実に強くなっていた。そして、前日よりも長く続いた。不安は感じたが、それでもまだ大丈夫だろうくらいに思っていた。事実、その痛みは、前日よりも長引きはしたものの職場につくころには収まっていた。だが、その翌日も、その次の日も、そしてその次の日も、わたしは頭痛とともに目覚めた。目覚めと頭痛がセットになった暮らしが、日常になっていた。頭が痛いということが特別なことではなく、目覚めるということは頭が痛いものなのだということになってしまった。
 もちろん、それほど長く頭痛が続くということは、尋常なことではなかった。頭痛薬を飲んでみたが治らなかった。そのうち、目覚めそのものがすっきりとしないものになってきた。
 法人の、いってみれば離れ小島のようなグループホームで働くようになってから、周囲の好奇や軽蔑の視線にさらされなくなり、わたしは解放された気持ちになっていた。親友の夫と不倫をして、その親友を結果的とはいえ、殺人未遂にまで駆り立て、挙句に精神病院に入院させたわたしが、解放されたと感じるなどもってのほかだという気持ちはあった。いや、それ以前に辞めようと思った法人に残った理由が、不倫相手がまだここにいるからという、反省のかけらもない理由であることを意識すれば、自分が解放されたり救われたりすることは、許されないことだということはわかっていた。
 イエスに許された姦淫の罪を犯した女は、その後どうしたのだろうと考えた。姦淫の罪を犯した女は、自分の過ちを悔いたのだろう。しかし、わたしは確かに後悔の念を心の内に秘めながら、それでもまだ罪を犯そうとしていた。人は、反省をする。しかし、反省をすることが二度と罪を犯さない証明にはならないのだ。少なくともわたしはそうだった。何度でも同じ罠に足をとられる。わたしはほんとうに愚かな女だった。愚かで罪深い人間だった。だから頭痛は、もしかしたら反省のないわたしへの罰かもしれないと思うことさえあった。
 とにかく頭痛は日々、わずかずつだが強くなっていった。罰せられているのかもしれないと本気で思ったが、そういうこととは別に、病気かもしれないと思い医者にもかかった。紹介状を書いてもらい、大病院で精密検査を受けた。結果は、何もなかった。わたしの脳は健康そのものだと医師に言われた。
「もしかすると、精神的なものかもしれませんね。心療内科を受診してみましょうか」
 考えさせてくださいとわたしは答えた。
 精神的なものということが引っ掛かっていた。頭痛の原因が精神的なものなら、原因はあのできごと以外考えられなかった。心療内科にかかったことはなかったが、医者のすすめに従い受診をしたとして、そこで不倫のことを話すのは、嫌だった。
 わたしは頭痛を抱えたまま仕事を続けた。そのころになると、頭痛は昼間仕事をしているときも、襲ってくるようになっていた。頭痛薬は、わたしの常備品となった。薬を飲み、頭痛を抑え、わたしは仕事を続けた。しかしあまりに頭痛がひどいときは、雨霧主任に話して、少し休みをもらうこともあった。いったいこのままどこまで頭痛と二人三脚を続けるのかとかんがえると、暗澹たる気持ちになったが、それでも職場の居心地の良さは救いでもあった。
 職場は、わたしにとって一種の救いだった。頭痛はあっても、そこで仕事をしていると、心の痛みを忘れることができた。そのころになると、わたしにとって、職場は救いになっていた。職場を離れたわたしは頭痛に苦しみ、自分の犯した罪と、これから犯すかもしれない罪に向き合い、悶々としていた。
 頭痛はわたしの日常の一部となった。頭痛は、わたしに奇妙な想像をもたらした。これは美幸の呪いかもしれない。わたしは美幸がいまも精神病院にいるのだろうと思っていた。精神病院の病室か、あるいは保護室で、わたしを呪いながら過ごしている。その怨念が、わたしにこの頭痛をもたらしているのではないか。それはばかげた妄想だった。しかし、ときに呼吸することさえ困難と感じるその頭痛と、美幸の呪いを重ねることは、比較的容易だった。人の想念はときに力を持つという。この原因不明の頭痛は、もしかするとわたしを殺すかもしれない。ひとり、アパートの部屋で、激しい頭痛にのたうち回るようにして耐えているとき、そういった想像がわたしを襲い、不安と恐怖と、なかば諦めの気持ちをもたらすのだった。諦めの気持ちは、わたしはそれだけのことをしたという、己の罪への認識だった。
 頭痛は一種の生き物で、わたしの頭の中にいて、外に向かって出口を求め、暴れているかのように感じられることがあった。あるいは、遠く、精神病院の病室か、あるいは鍵のかかる保護室から、美幸の想念の腕が伸びてきて、わたしの耳から頭蓋内に入り込み、脳をひっかきまわしているようなイメージもわたしにはあった。
 ある朝、職場に来ないわたしを心配して、様子を見に来た雨霧主任が、部屋中に飛び散った頭蓋骨の破片と脳みそとおびただしい血の中で絶命しているわたしを発見する。わたしの脳内で起きた美幸の怨念の爆発が、頭蓋骨を粉々にして、わたしの命を奪った。
 それは、くだらない想像だった。しかし、頭痛はそれを現実のもののように感じさせた。
 わたしは美幸の夢を見るわけではなかった。それでも、わたしは美幸がいつか必ず来るという想像を持った。特に頭痛がひどい時には、その想像がリアリティをもった。わたしは美幸に殺されるかもしれないと思い、殺されても、あるいは仕方がないのかもしれないと思った。
 その一方で、わたしは篤との未来を密かに夢見た。わたしは頭痛に悩まされながら、親友の夫と不倫の関係を持ったことを深く悔いながら、やはり篤に抱かれたいと思った。そしてさらに、
(もし、このことが原因で美幸と篤が離婚するようなことになれば、わたしは篤と一緒になれるかもしれない)
 と、考えてしまう人間だった。わたしにとって篤は、薬物依存症患者の薬物のようなものだった。断ち切ろうとして断ち切れるものではなかった。イエスは多分知っていたと思う。姦淫の女は、また同じ間違いを犯すということを。人は長く正義の側にとどまることができないことを知りつつ、イエスはあの女を行かせた。二度と過ちをおかしてはいけない。その言葉は薬のようなものだ。薬の効果には期限がある。床に後頭部をぶつけたことがわたしにとっての薬だったとすれば、その薬効はすでに切れかけていた。あるいはもう切れていた。頭痛は、もしかすると薬が切れかけていることをわたしに知らせる、自分自身の魂が発するメッセージのようなものだったのかもしれない。
 医者に脳に問題がないと言われた日の夜だった。篤から電話があった。
 わたしは雨霧主任に頼んで通院日を公休にしてもらっていた。すると雨霧主任は通院日の翌日も公休を入れてくれた。二連休にしてくれたのだ。グループホームの勤務は変則勤務が基本で、土日が休みと決まってはいなかったのだが、わたしの場合はケアマネージャーということもあり、基本、平日勤務の土日祝が休みだった。しかし、この時は、金曜日と土曜日が休みになっていた。日曜日は出勤だった。
 篤から電話があったのは、午後七時だった。医者からもらった薬で、頭の芯に鈍い痛みのような感覚は残っていたが、いつもの頭蓋骨を吹き飛ばされるような痛みに比べれば、遥かに楽だった。午後五時ごろに夕食を食べ終え、シャワーを浴びて、横になっていた。ほんの三十分ほど眠って目が覚めたとき、まるで狙いすましたかのように、篤から電話がかかってきたのだ。
 嬉しかった。スマホのディスプレイに篤の名前が表示されたとき、不覚にも涙がこぼれそうになった。それでも、電話に出ることに躊躇いを感じた。
「はい」
「久しぶり」
 篤の声には躊躇うような感じがあった。
「どうしてる?」
 篤は訊いた。
「仕事をしている」
 わたしは答えた。
「それはわかっている。今度のところはどう?」
「いい人が多いわ。主任さんがね、雨霧さんという人、知ってる?」
「知っている。あったことがある。いい人だよね」
「すごくいい人。優しくしてくれる。だからとても過ごしやすい。そっちは?」
「こっちは針の筵だよ。女性職員は、挨拶をしても口もきいてくれないよ」
「いま、どこにいるの?」
「自宅だ。美幸はまだ入院している」
「退院の目途は立たないの」
「立たない。保護室に入っている。外に出すと何をするかわからないらしい」
 篤の溜息が聞こえた。
 わたしは何を言っていいのかわからなかった。美幸を壊したのはわたしだという罪悪感はあった。美幸を壊し、美幸の家庭を壊したのは、わたしだった。胸の中は罪悪感でいっぱいだった。わたしは篤を罠にかけた。ほんとうのところ、篤がわたしのことをどう思っていたのかわからない。嫌われているとは思わなかったけれど、家庭を壊してまでわたしを手に入れたいと思っていたのかどうか。
 篤はこの業界によくいるタイプの、優しさと優純不断の境目が曖昧な男だった。支援者に対して優しいということは、決断を先延ばしにするということとどこかで通じていた。優しさを手段にする、というと誤解を生むかもしれないが、あえていえば優しさを手段にできるのは賢さだ。狡猾というが利口でなければ狡猾にもなれない。篤には狡猾な支援者になれるほどの賢さがなかった。だからわたしの罠にかかったのだ。
 この業界にきて、わたしはずいぶん篤のようなタイプを見てきた。利用者に優しい。先輩のいうことを良く聞き、後輩の言うことも良く聞いてくれる。そして良き家庭人。家庭を大切にしている。妻子を大切にする。妻を愛している。そういう態度を示す者は、浮気をするだけの勇気がないだけの者が多かった。決断が必要なときに決断できない人間を、あの人は優しいと言ったりするものだ。
 そういう連中がいるのがこの業界だった。臆病だから、そばに性欲を刺激する女がいても手が出せないだけのことだった。だからわたしは体を開いて、篤に差し出した。篤はまんまとわたしの体にむしゃぶりついてきた。わたしはお人好しの篤を、親友から奪った。そばにいてくれる誰かがほしい? いや、そんなロマンチックな感情ではない。もっと動物的な本能として、雄が欲しかった。セックスの快楽などというが、それだけではなかった。篤のセックスはいつもぎこちなかった。たとえば過去に一度だけいったことのある女性用風俗の男性に比べれば、篤の性技は高校生並みだった。自分の欲望を満たすことだけが精いっぱいのようなところがあった。セックスのとき、篤は、美幸とは長い間セックスをしていないと言った。わかっていた。長く夫婦でいるとそういうことになる。篤はセックスで弾けそうになっていたのだろう。美幸に内緒で、自慰をしていたはずだ。わたしがつけいることは簡単だった。
 そしていままた、チャンスが巡ってきたような気がした。美幸はもう戻らないかもしれない。もし戻らなければ、
(本当に篤をわたしのものにできるかもしれない)
 決して考えてはいけないことを、わたしは考えていた。頭痛くらい仕方がないのかもしれない。わたしの心の場所の多くを占めている打算が、そもそも頭痛の種だ。
「迷ったよ。電話をしようかどうか。でもまあ、どうしても君の近況を知りたかった。噂も聞かない。嫌われているぼくには、誰も教えてくれないからね」
 正直、わたしは自分の気持ちの整理がつかなかった。それでも、嬉しかったのは間違いない。わたしは篤が強い人間ではないことを知っていた。福祉を仕事に選んだ人間なのだ。奇妙なもので、福祉関係の仕事に就く男は弱く、女は強かった。
「どうして辞めなかったの? わたしは辞めようと思った。理事長に思いとどまるように言われた。でも、理事長に言われたからここに残ったんじゃない。篤はどうしてここに残ったの?」
「なぜだろうな。残れば、大変な目に合うことはわかっていた。でも、残った。たぶん、それは、君がいたからだと思う」
 心臓を撃ち抜かれたと思った。わたしは嬉しかった。しかし、同時に頭に太い錐を突っ込まれたような痛みを感じて、わたしは思わず顔をしかめていた。
「わたしもそう」
 激しい頭痛を堪えながらわたしは言った。
「わたしも篤がいたからここに残った」
「ありがとう」
「嬉しい」
「今日は、突然電話をして悪かった」
「いいの、篤の声が聞けてうれしかった」
「また、電話をしていいかな」
「いつでもいいよ」
「ありがとう」
 電話が終わった。頭痛がひどくなっていた。わたしはスマホを投げ出し、頭を両手で抱え、目を閉じた。それでも君がいたから残ったと言ってくれた篤の言葉に、わたしは心を躍らせていた。
 ふと、誰かが部屋の中にいるような気がした。もちろん錯覚だが、それは美幸であるような気がした。頭痛はさらにひどくなった。このまま死んでしまうかもしれないと思った。美幸に殺されるのなら、それも仕方がないと思った。
「篤」
 思わず声に出してわたしは名前を呼んでいた。篤の名前を呼びながら死んでいけるのなら、それでいいと思った。

 その日、わたしは夜勤に入ることになった。ケアマネージャーであるわたしは、基本は日勤が中心だった。変則勤務や夜勤に入るのは、職員がよんどころない事情で休んだ場合だった。体調不良、家庭の問題等々だ。その日の夜勤も、職員の家族が急病となり、わたしが入ることになったのだった。
 夜勤といってもグループホームの夜は静かなものだった。それまでに三度、夜勤に入ったことがあったが、いずれも朝まで何事もなく終わった。今回もそうだろうと思っていた。グループホームの夜は、障害者施設の夜とはまったく別のものだった。
 夜勤者は二十一時半に職場に入る。わたしが職場にいったとき、遅番者がほぼ仕事を済ませていた。入居者は全員が居室で眠っていた。
「たぶん、今夜は穏やかだと思うよ」
 六十代の介護職員は言った。
「ありがとうございます」
「あんた」
「なんですか」
「顔色悪いよ。ちゃんと寝た」
「ええ、眠ましたよ。でも」
「頭痛?」
「はい」
「よくないね。医者に行った?」
「行きました。どこも悪くないと言われました」
「あんたねえ。こんなことを言うと、嫌味を言っていると思われると嫌なんだけど、心の問題じゃないのかなあ。気を悪くしないでね。今度そういうところを受診してみたら」
「心療内科とか精神科ですか」
「それ。診てもらった方がいいんじゃないかな」
「お医者さんにもそう言われました」
「だろうね。ずっと頭痛と一緒にやっていくわけにもいかないだろう」
「はい。考えます」
 遅番の職員は帰っていった。
 その直後から強い雨が降り始めた。とうとう来たかという感じだった。それまで雨が降りそうな気配はあったのだ。遠くで雷鳴が聞こえた。一瞬、わたしの頭を、嫌な、迷信的な考えがよぎった。まるで、わたしがひとりになることを待っていたみたいじゃない。それにしても強い雨だった。
 時刻は二十二時だった。わたしはひとりだった。入居者は眠っていた。緑風会の夜勤は八時間。明日の午前六時半までだった。あっという間に夜勤は終わる。わたしはリビングに立ち、明かりを落としたグループホーム内を眺めた。
 リビングから中庭へは掃き出し窓から、出入りすることができた。掃き出し窓はカーテンが閉められ、外を見ることはできなかった。
 激しい雨の音と、雷鳴は聞こえていた。わたしは不安に駆られた。理由はわからない。頭痛は医者の薬のせいで抑えられてはいたが、頭の芯に確かに鈍い痛みが残っていた。ほんとうに心療内科を受診するべきかもしれない。そんなことを思った。それを思った理由は、もし美幸が、このまま病院から戻らなければと考えたからだった。もし、美幸が病院から戻らなければ、
(あるいは)
 と、考えた。わたしは篤と一緒になることができる。ずきんとひときわ強い頭痛が電撃のようにわたしを打った。雷鳴が聞こえた。
「美幸、やめてよ」
 わたしは知らぬ間に呟いていた。また雷鳴だった。頭痛の原因は美幸にあると、半ば本気で考え始めている自分がいた。
(もし、美幸が戻らなければ、わたしは篤と一緒になることができる。どこかでこの頭痛を何とかしなければ、篤との生活に支障が出る)
 ズボンのポケットに入れているスマホが振動して、着信を知らせた。わたしはスマホを取り出した。本当なら支援現場にスマホを持ち込むことは禁止されていた。しかし、夜勤の場合は緊急連絡もあり、職員はスマホを持って仕事をしていた。連絡は篤からだった。
「まずいことが起きた」
「どうしたの?」
「美幸が病院を抜け出した」
 ひときわ大きな雷鳴が聞こえた。
「どうして?」
「詳しいことはわからない。ついさっき病院から連絡があった」
 また雷鳴が轟き、頭痛がわたしを襲った。なぜかわからないが、
(来る!)
 と、わたしは思った。
「ねえ」
「なに?」
「ここへ来ると思ってる」
「まさか。どうしてそう思う」
「わからない。でもそんな気がした。篤も、そう思ったから電話をくれたんじゃないの」
「今どこにいるんだ」
「今夜は夜勤なの」
「じゃ、職場にいるんだね」
「そう、朝までいるわ」
「そうか、それならいい」
「やっぱりわたしのところに来ると考えていたのね」
「わからない。だが、美幸は普通じゃない。狂ってる。君への憎しみは、いや、君への憎しみを口にしたとかそういうことじゃないんだが」
「わかってる。わたしを殺したいほど憎んでるわよね」
「まさかとは思うが、それでもまあ」
「もし、美幸が行くとしたらわたしのアパートね」
 また雷鳴だ。しかも今度はごく間近だった。空気が裂けるような凄まじい音がリビングに響き渡った。体がびくっと震えた。美幸がやってくるというイメージは、ある意味ばかばかしいものだったが、絶対にありえないというものではなかった。しかし、可能性というのなら、それはほぼ起きないできごとだった。それでも、わたしは美幸がやってくるのではないかという考えを捨て去ることができなかった。
 血管が頭の中で、波打っているような頭痛が、ひどくなっていた。まるで雷鳴に呼応しているように思えた。雷鳴も、この頭痛も、美幸の怒りが引き起こしているように思えた。実際にそんなことがあるとは思えなかったが、それでも美幸のわたしへの憎悪は本物で、殺意はさらに間違いのない本物だった。実際に美幸はわたしを殺そうとしたのだ。
「警察も探しているんでしょう、美幸のことを」
「それははっきりと聞いていないが、きっとそうだと思う」
「警察に連絡していないの、病院は」
「したと思うが、はっきりとは聞いていない」
 真横からこめかみのあたりを殴られたような痛みが雷鳴と共にわたしの頭を揺さぶった。どうしてそこを訊かないの。篤の気の利かなさに、一瞬苛立ちが心の中で高まった。篤のことは好きだが、それでも、微妙にずれた感覚に苛立つことがあった。本当のところ、職場における篤は、副所長だったが、さほど優秀であるとは思えなかった。福祉業界で評価を得るということは、優秀であることの証明にならないことが多い。上司の言うことを素直に聞くという態度のほうがはるかに必要だということを、わたしは知っていた。篤はその典型だった。
「そうね、病院も患者が逃げ出したんだもの、そのくらいのことはしているわよね」
「そう思う」
「どうするの? これから」
「病院から連絡を待つよ」
「そうよね、それしかないわね」
「夜勤と聞いて安心した。そこにいれば大丈夫だね」
 頭痛が強まり、わたしは顔をしかめたが普通な感じを装い、
「ここなら大丈夫よ」
 と、言った。しかし言った直後にまた頭痛が強くなった。
「なにかわかればまた連絡をする」
 そう言って篤が電話を切った直後、また強烈な雷鳴が一撃した。同時に、頭痛が一瞬強まる。ここにきて頭痛はその質を変えていた。頭痛というよりも、鉄の焼けた針を頭に突っ込まれるような痛みを感じるのだ。凄まじい雷鳴が轟いた。鋭い頭痛にわたしは顔をしかめる。
 それにしても病院を抜け出したというのはどういうことなのだろう。仕事柄精神病院については知っているが、簡単に抜け出せるようなところではない。まして、美幸は保護室に入っていたという。一体どうやれば抜け出せるというのだ。保護室を持たない緑風会の入所施設でさえ、厳重に出入り口も窓も、およそ開く場所はすべて、厳重に施錠されて、利用者が出て行かないようになっている。精神病院における安全管理の厳しさは、障害者施設を凌ぐはずだ。美幸はそんなところからどうやって抜け出したというのだろう。
 また雷鳴が轟いた。この雷は移動していないのか。わたしは考え、同時に鋭い頭痛を感じた。思えば篤と話しはじめてからずっと間近で雷鳴は轟いていた。そして頭痛だ。雷鳴の度に、頭に突き刺さるような頭痛が襲い掛かってくる。雷鳴も頭痛も、一定のリズムを持っているわけではなかった。でたらめに、立て続けに訪れたかと思うと、小休止があり、再び訪れる。わたしはリビングのキッチンカウンターで椅子に座っていた。薄暗いリビングにはわたしひとりだった。この雷と頭痛は、あとどのくらい続くのだろう。
 と、そこまで考えたときだった。
(美幸が来る!)
 ふいにそのイメージがわたしのなかに生まれた。
 もちろん、美幸など来るはずがない。
(頭痛)
 絶対に来るはずがないのだ。
(雷鳴)
 美幸の入院していた精神病院は、隣町にあった。そこまでの距離は二十キロと少し。車で走っても三十分はかかる。しかもこの町も隣の町も、盆地の中にあり、ふたつの町をつなぐ国道は山の中を走っている。雷鳴が轟き、稲妻が閃き、地面を破壊するような激しい雨の中を、ひとり歩いている女がいる。誰かが見つければ、間違いなく警察に通報する。美幸は保護される。
 美幸がわたしにどれほどの憎悪を持っていたとしても、復讐のためにやってくるというのはあまりにもばかげた想像だった。
(頭痛)
 美幸がやってくるはずがない。
(雷鳴)
 いや、美幸はもう来ているのかもしれない。この頭痛が何よりの証だ。精神を病んだ美幸は、不可解な力に目覚めたのかもしれないという奇妙な妄想に、わたしは囚われた。精神的な苦痛の極限に達した美幸は、超能力に目覚めた。この頭痛は美幸の力の影響なのかもしれない。それはあまりにもばかげた発想だった。ばかげているが、
(頭痛!)
 否定しきることはできなかった。
(雷鳴)
 仮に、耐えがたい苦痛が美幸の精神を破壊したとする。それと入れ替わりに、眠っていた力が目覚める。それはホラー小説のストーリーとしては面白いかもしれないが、現実の世界では絶対に怒らない。現実の世界はいつだって面白くもおかしくもないものだ。人は幸福も不幸も、過剰に想像するという。同じことだ。だから頭痛は頭痛だった。超能力などではない原因があり、治せるものなら医学の力によって治る。そして、雷は、ただの雷だった。
(頭痛!)
(頭痛!)
(頭痛!)
 でも、仮の話として、ほんとうに美幸に超能力が目覚めたのだとしたら、どうだろう。美幸の強い憎悪の思念はわたしに向けられている。だとすれば、頭痛の理由もすべてはっきりとする。医者にも原因がわからないこの頭痛は、すべて美幸の中に目覚めた何らかの力のせいだとすれば。
 わたしはなぜか答えを見たような気がした。頭痛。美幸は説明のできない力を手に入れた、精神の崩壊と引き換えに。
(視線)
 キッチンのカウンターに座っているわたしは、気がつくと中庭の方向に視線を向けていた。カーテンに閉ざされて見えない中庭に誰かがいる。
(雷鳴)
 間違いなく誰かがいる。カーテンに閉ざされて、その向こうに何があるのか見えないはずなのに、わたしは確信していた。気がつくとわたしは立ち上がり、リビングを横切り中庭に出ることができる、掃き出し窓のところに行った。激しい雨音はさっきから絶えることなく続いていた。建物を揺るがすような雷鳴もいっこうに衰えない。
 雨はともかく、果たして雷鳴はこれほど続くものだろうか。カーテンの前に立ち、やまない雨と雷雨について考えながら、同時にその向こうにいるはずの視線の主について考えていた。誰がいるのかは決まっている。
(美幸)
(頭痛)
(頭痛)
(雷鳴)
 わたしは巻き上げ式カーテンの操作チェーンを引いて、ゆっくりとカーテンを巻き上げた。徐々に上がっていくカーテン。五十センチほどカーテンを引き上げて、わたしはそこでいったん止めた。水滴がべったりとついた窓ガラスが見えた。もし、美幸がそこに立っていれば、足が見えたはずだ。しかし、そこに足は見えなかった。
 そこには誰もいない。そうわかってもなお、わたしはまだ視線を感じていた。視線はさっきよりも強くなり、そして、
(頭痛)
 は、さらに強く、鋭く、衰えることもなく、わたしの頭に突き刺さってくるのだった。
 わたしは絶え間なく襲ってくる頭痛に顔を歪めながら、自分の中で何かが壊れつつあるのを感じていた。この頭痛をわたしにもたらしているのは、間違いなく美幸だ。
「わかっているのよ! そこにいるんでしょう! 美幸!」
 わたしは一気にカーテンを引き上げた。同時に雷鳴が轟き、閃光が青白く闇を切り裂いた。小さな中庭が稲光に浮かび上がる。
 誰もいなかった。
 奇妙なことに、わたしは安堵しなかった。そんなはずがないと思った。美幸がわたしを見ているのは間違いない。わたしは掃き出し窓のガラスに鼻先がくっつくほどに顔を近づけた。それと同時だった。
 グワン!
 と、建物を大きく揺さぶるような雷鳴が轟いた。閃光が一瞬、闇を追い払った。わたしの目の前、ガラスの向こうに、美幸の顔がぱっと現れた。
(頭痛!)
 ひときわ強烈な頭痛が右のこめかみから左のこめかみへ、光の速度で一気に駆け抜けた。意識が飛びそうになった。
「美幸!」
 わたしは叫んでいた。恐怖も驚きも感じていないのに、わたしは掃き出し窓から反射的に飛び離れていた。はずみでそばにあったゴミ箱が倒れてがらんと音を立てた。わたしは掃き出し窓をのぞき込むように見た。そこには闇があるだけだった。再び雷鳴が轟き、稲妻が闇を切り裂いたが、美幸の顔がガラスの向こうに浮かび上がることはなかった。
(頭痛! 頭痛! 頭痛!)
 頭痛と雷鳴はすさまじかったが、恐怖は全く感じていなかった。自分の感情がいまどうなっているのか、わたしにはわからなかった。あるいはそのとき、わたしは恐怖など感じず、むしろ安堵していたのかもしれない。
 美幸は来た。
 やはり来た。
 美幸がきたというその事実が、わたしを落ち着かせていた。いずれ美幸は来るとわかっていた。来るものなら早く来てくれた方がいい。いまは見えないが美幸がいるのは間違いなかった。
 わたしは恐れるでもなく、掃き出し窓に近づいて行った。再び、窓ガラスに顔を近づけて、闇の中に美幸を見ようとした。雷鳴が轟き、稲妻が夜の闇を一瞬追い払った。頭痛が鋭利な錐のように脳のどこかを突き抜けていった。しかし、美幸の姿は見えなかった。
 そのとき、背後で自動ドアの開く音がした。わたしは振りむいた。自動ドアが開き、ずぶ濡れの美幸がぬっと入ってきた。
 あのときと同じだとわたしは思った。篤の浮気を知った美幸が、事務所に飛び込んできたあのとき同じなのだ。あのときも美幸はずぶ濡れだった。いまはあのときよりも、さらに濡れそぼっていた。
「美幸」
 わたしはその名を呟いた。
 美幸はわたしを見つめていた。じっと怨みのこもった目で。あのとき、怨みを飲んで入水自殺をした女が、その怨みを晴らすべく、水底から這い出してきたようだと思った。同じことをその時も思った。
 まったく不意に、わたしはケタケタと狂ったように笑いだした。激しい頭痛が頭の中で、跳弾さながらに跳ね回っていたが、わたしは狂気の笑いを抑えることができなかった。頭の中で何かが壊れていた。壊れているのは美幸ではなく、わたしだった。
「何て格好をしてるの」
 わたしは笑いながら言った。しかし美幸は、何も言わず、青ざめた顔でわたしを見つめていた。
「ちっとも怖くない。美幸が生きていようが死んでいようが、なーんにも怖くない。いまさら何で出てきたのよ。ずっと病院に入っていればよかったのに」
 雷鳴が轟いた。それはまるでリビングの中に稲妻が飛び込んできたかと思うほどの、凄まじい音だった。
「雷よ、わかる美幸」
(篤のスマホを見たの)
 声が聞こえたような気がした。美幸の声だったが、その声は頭の中で聞こえた。頭の中のどこといってわからない、ほぼすべての場所に存在している痛みの隙間を埋めるようにして、美幸の声が聞こえるのだ。
(スマホに残っていたあんたと篤のやり取りを読んだ。篤の様子が、なぜか違っていた。だから、スマホを見てしまった。君のフェラチオは最高だったと、あのおとなしい篤が書いていた)
 いつのころだったのか忘れたが確かに、そんなメッセージを篤が送ってきたことがあった。気がつくと、狂気の笑いはどこかに行ってしまっていた。何がおかしかったんだろう。どうしてわたしは笑っていたんだろう。ぼんやりと美幸を眺めた。
(あんたの性器は最高だとも篤は書いていた。またあんたの性器を舐めたいとも篤は書いていた。あのひとはわたしのあそこを、一度だって舐めたことはない。あんたのあそこは舐められるんだ。そう思うと、あんたを殺したくなった。本気で殺したくなった)
 それも書いてあった。それを読んだ記憶もあった。
「あんたも篤のあれを咥えてあげればよかったのよ。舌を這わして、舐めて、しゃぶって、口に含んでやればよかった。それをしていれば、篤をわたしにとられることなんてなかった」
(写真もあったわ。あんたが裸で眠っている姿を写した写真。あんたの陰毛もはっきり写っていた)
 篤が知らない間に写したのだろうと思った。篤とセックスをして、疲れて眠ったわたしをこっそり撮影したのだ。
(馬鹿なことをして)
 と、思ったが、腹は立たなかった。
「うん、やっぱり死人みたいに見えるわ。ほんとうはもう死んでいるの? 死んでいても、生きていても、美幸はわたしを殺しに来たのよね。わかっている。いつか来ると思っていた。頭がひどく痛いけど、でも、まあね。
 美幸。あなたには悪いことをしたと思っている。でも、お願い、わかって。篤のことが好きなの。どこが好きか、自分でもよくわからない。たぶんね、近くにいたからだと思う。篤ってさ、そんなに切れる人じゃないわよね。仕事ができるってタイプでもない。優しいけど、ただの優柔不断かもしれない。見た感じは、ちょっとイケメンに見えるけれど、よく見ると、バランスの悪い顔だと思う。右と左の目の大きさがかなり違う。ほんのちょっとしたところで、イケメンになりそこなった顔だと思う。近くにいなければ、多分好きにはならなかったと思うのよ。ほんと、近くにいて、話をして、だから好きになったんだと思う。
 それと、もうひとつ。これは、言うとなんてひどい奴って思われて、また美幸を怒らせると思うけど、篤はあなたと二人でいるとき、とても素敵に見えたの。奥さんのいる男性って格好よく見えるときがあるの。それは奥さんが旦那さんを一生懸命磨くから。自分の旦那をかっこいい男性にしたいと思って、一生懸命手をかけている。ほんとうは、さほどでもない篤を美幸がかっこい篤にしていた。かっこいい副所長にしていた。
 わたしにはそれが羨ましかった。美幸は明るくて、優しい旦那様がいて、子どもがいて、ほんとうに羨ましかった。あんまり羨ましくて、そのうちいやらしい自分が出てきた。幸せそうな美幸に、わたしと同じ思いを味あわせてやりたいと思うようになった。
 ほんとうのことを教えてあげる。わたしの方から篤を誘った。ほんとうのところ、篤は優しいけれど、それほど利口じゃない。利口じゃないから、わたしの誘いに乗ってきた。体の関係ができると、わたしにのめり込んだ。でも、そうなると、わたしにとっても篤は特別な存在になった。かっこいい副所長でなくてもよくなった。ほんものの優しさじゃなくて、ただの優柔不断でもよくなった。キスもセックスも不器用でもよくなった。みーんな、どうでもよくなった。みっともない篤であっても、格好いい篤でも、関係なく、篤がいてくれるだけでよくなった。
 わかってる。わたしはひどい奴だって。
 美幸がさ、精神病院に入院したって聞いたとき、出てこなければいいと思った。美幸がいなければ、もう一度、篤とうまくやれるんじゃないかって思った。そうなると、もう自分を止めることができなかった。わたしはどうしての篤が欲しい。手に入れてみたら、どうってこともない人なのかもしれない。どうしてこんな人に熱を上げていたんだろうって思うかもしれない。そういうことは人生によくある。
 仮の話として、わたしが美幸を殺して篤を手に入れたとする。でも、ある朝突然、気づくの。どうしてこんなことをしたんだろうって。そして自分に問いかける。
『どうしてこんなつまらない男のために、あなたは親友を傷つけ、そして殺したの?』
 だってどうしても篤が欲しかったから。
『どうしても欲しくて殺して、それで結局どうなるの? 普通の男。こんなありふれた男のために親友を殺したの? どん底のあなたを助けてくれた美幸を殺したの?』
 かまわない、悔やんで、悲しんで、その後の人生を棒に振っても、わたしは今欲しいものを手に入れるの。わたしは篤を手に入れる。どんなことをしても手に入れるの。頭が割れそうに痛むけど、それでも手に入れる。篤はわたしのもの。
(ねえ落ち着いて)
 落ち着くってなに? 美幸は喋っていないよね。誰か知らないけれど、わたしは落ち着いてる。そんなことよりも、この頭痛。篤、助けてよ。この頭痛を何とかして。頭がいまにも爆発しそうなの。
(落ち着いて)
 落ち着いてるって!
 自分が何をしているかくらいわかってる! わたしは美幸を殺す! そして頭痛を直す! そこにいるみゆきを殺す! 殺して篤を手に入れる! あのぱっとしない男を手に入れる。篤を美幸のものにしておきたくない。篤はわたしのものにする。美幸を殺して、篤を手に入れて、つまらない男でも篤のために人生をかけるの。
 美幸、死んで!」
 わたしは美幸に飛びかかった。それははじまりのとき、美幸がわたしにしたことの、逆だった。
 頭痛!
 雷鳴!
 美幸、死んで!
 殺してやる!
 死ね、美幸。あんたは死ぬの。ここで死ぬの。わたしがあんたを殺す! 絶対に殺してやる!
 美幸は床に横たわっていた。わたしは美幸に馬乗りになり、首をぐいぐいと絞めていた。美幸を殺せる。美幸は死ぬ。篤はわたしのものになる。
 その時だった。強い力がわたしは美幸から引き離した。
 同時に極限の頭痛がわたしの頭のなかで爆発した。脳みそと頭蓋骨が飛び散り、目の前で火花が飛び、雷鳴が周囲で鳴り響き、落雷がリビングの中心で炸裂し、
「やめるんだ!」
 篤の声が聞こえた。
 わたしの意識は急速に薄れ、薄れゆく意識の中で、床に倒れている彼女を見て、
(どうして、雨霧主任が)
 と、考えていた。

「首、大丈夫ですか」
 篤は訊いた。
「はい、大丈夫です」
 雨霧忍は答えた。
「まさかここでお会いするとは思っていませんでした」
「わたしもです。精神病院で会うなんてね」
「奥さんのお見舞いですか」
「そうなんですが、彼女のことも気になりますから」
「奥さんはかなり良くなってきているようですね」
「はい、おかげさまで。彼女が入院したという話を聞いたころから少しずつ良くなってきたと聞いています。今日も普通に、ってまあわたしにはよくわからないことなんですが、前の美幸に戻ってきているような気がします。
 しかしあの日、どうしてグループホームに来られたんですか?」
「わたしですか? あの日、遅番職員から彼女の様子がおかしいと連絡があったんです。頭痛もあって顔色も悪くて、心配だと。
 そこへもってきて、あの雨でしょう。心配になって様子を見に行ったんです。もしかしたら彼女が倒れているんじゃないかと思って。それであんなことになりました。あのとき、末永さんがきてくれなければどうなっていたのかわかりません」
「あの出来事があったとき、彼女と少し話をしました。あの日、実は電話をしたんですよ」
「そうなんですか」
「ええ。電話をして、美幸が病院を抜け出したということを、彼女に伝えました。病院を抜け出した美幸が、もしかしたら彼女のところに行くんじゃないかと心配だったものですから。
 まさかとは思ったのですが、その想像は半ばあたっていました。美幸は国道を中郷市に向かって歩いているところを発見されましたからね。病院のある猪垣市から中郷市まで二十キロと少し。美幸が発見されたのは、ちょうど中間でした。猪垣市から中郷市に帰る人がいて、車内から凄まじい雷雨の中を歩いていた美幸を発見して、警察に通報してくれました。それで保護されたんです。発見されたとき、美幸は裸足でした。
 その連絡がぼくのところにくるのは少し遅れた。ぼくがグループホームに行ったのは、胸騒ぎがしたからでした。まさかほんとうに美幸が彼女のところに行くとは思っていなかったのですが、でも万が一のことがあってはと思って駆け付けました。そこで、彼女が雨霧主任の首を絞めているところに出くわしたというわけです」
「ありがとうございました。
 でも、奥様はどうやって病院を抜け出したんでしょう。精神病院は簡単に抜け出せるところではないですよね」
「そこなんです。病院側も調べているようですが、いまひとつわからないようなんです。美幸は保護室に入っていましたから、簡単に抜け出せるはずがないんです。でも当直の看護師によれば気がつくと姿が消えていたということでした。
 病院内の監視カメラには、廊下を歩いて行く美幸の姿が映っていました。保護室から普通に出てきて、廊下を歩き、施錠されている扉を開けて、非常階段から外に出たと言われました。話を聞かされたときは、信じられませんでした。ぼくもその映像を見せてもらいましたが、本当にそうでした。
 正直に言うと、気味が悪いです。いったい何が起きたのか。まるで美幸は超能力か何かを使ったみたいでした」
「そうなんですか。不思議ですね。けれど末永主任、よく輝の電子錠の暗証番号をご存じでしたね」
「ぼくはグループホームの開設メンバーのひとりなんですよ」
「そうなんですか」
「そうなんです。だから暗証番号を知っていました。ほんとうに今回のことは運がよかった」
「あのとき彼女、何を言っていたんでしょう。声が大きくなったり小さくなったりして、よく聞き取れなかったんです。断片的に、美幸さんの名前を言っていたようですが」
「わかりません。わかりませんが、もしかしたら主任のことを、美幸だと思っていたのかもしれませんね」
「そうですね。あの、ちょっと気になることがあるんですが」
「何ですか」
「こんなことを聞いていいのかどうかわかりませんが、彼女、lineメッセージを見て、あなたとの関係を知ったとか言っていました」
「そうなんですか」
 篤は立ち止まった。
「ごめんなさい。変なことを言って」
「いえ、かまいません。そのことをもう少し詳しく聞かせていただけませんか」
「はい。あのとき彼女は、なんというか、ひとり芝居のような感じで話し続けていました。一人二役というか、そんな感じです。その中で、lineメッセージを見たことで、美幸さんは、あなたと彼女の関係を知ったと言っていました。呟くような感じで、はっきりとは聞き取れませんでしたが、確かにそう言っていたように思います。
 そういった話を、彼女にされたんですか」
 篤は少し不安そうな表情を浮かべた。少し黙り、それから、
「美幸がぼくと彼女の関係を知ったのは、ぼくのスマホを偶然見たことでした。ぼくと彼女のlineのやり取りを見て、知ったんです。でも、ぼくはそのことを彼女に話したことはありません」
 篤と忍はじっと見つめあった。そのまま数秒が過ぎて篤が、
「こんな話をすると、ちょっと変に思われるかもしれないので、気が引けるんですが」
「なんでも仰ってください」
「美幸には昔から、ちょっと変わったところがありまして」
「どんなところですか」
「たとえばぼくが物をなくしたりするじゃないですか。そういうことって、誰にでもありますよね」
「はい」
「美幸の言うところを探すと必ず見つかるんです。それならあそこにあるわよとか、車の中に落ちているはずだからもう一度さがしてみてって、そんな感じですね。不思議だと思うこともありましたが、今回のことは、もしかすると、そのことと関係しているのかもしれません。そんなふうに思うことがあります」
 ふたりはしばらく見つめあっていた。やがて、どちらからともなく笑った。忍が、
「やめましょうか、この話は。もう済んだことですし」
「そうですね、もうすんだことです」
 二人は再び歩きはじめた。
「今回のことは何もかも、ぼくの軽率な行動が原因です。結局、ふたりの人間を不幸にした」
「そうかもしれませんが、考えないでおきましょう。人は間違いをおかします。失敗はどう取り戻すかです」
「そうですね、そう考えるようにします」
 忍は立ち止まった。
「どうしました?」
 忍は少し考え、ぱっと笑顔を作り、
「今度食事に行きませんか」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?