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小説_読書感想文『何がなんでも新人賞獲らせます!』

 736枚書いた。そして494枚にした。もちろん小説だ。
 その小説を完成させる過程で『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、たいへん役に立った。それはこの本に書かれている様々な小説創作の技術についてだけのことではない。過去に読んだ同じ系統の本に書かれていた内容を、再度理解させてくれるという意味でも役立った。過去にそれを目にしながら、浅い理解しかできなかった様々なことが見えるようになってきたということだ。
 非常に乱暴な言い方をすれば、小説技法について書かれた本というのは、
「内容が似ている。あるいは基本的に同じことを語っている」
 と、わたしには思える。それはつまり、小説創作の秘訣のようなものが、そこに集約されるということなのだろう。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、その秘訣ともいうべきあたりのことを、わかりやすく書いてくれている。ここに書かれていることを職業作家としての適性を持った人が実践すれば(心構えも含めて)、おそらく新人賞を獲れるのだろうと思う。筒井康隆さんだったか、世にある小説作法の類を読んでも作家にはなれない。そんなもの読まなくても作家になれる人はなれるし、読んでもなれない人はなれないとどこかで書いていた。巨人筒井康隆がそういうのだから間違いはないと思いつつも、然るべき適性を持った人が、技術解説書を読むことで、作家になるのに5年かかるところが2年になるということはありえる話だろうと思う。
 ただし、わたしが読んで、その内容を実践したとしても、新人賞を獲れるかどうかはわからない。そこは冷静に心にとどめておこう。それでも、『何がなんでも新人賞獲らせます!』というタイトルに偽りはないと思う。ただこのタイトルは、この本を読んで、小説を書こうというわたしのような者への問いかけにもなっていて、実はそこが肝であるようにわたしには思える。
 いずれにしても、この本は、わたしのように、ほぼこれから長編小説を書きはじめようという素人にも、小説を書くということはどういうことか、わかるように、それこそ噛んで含めるように書いている。この本の目的について著者は、《「プロの娯楽小説家を目指す」ひとのための本》だと書いている。わたしは勝手に「広く小説家を目指す人のための本」と読み替えた。身銭を切ってこの本を買ったのはわたしだから、そこは勝手にさせてもらう(笑)。理由は一応ある。わたしは娯楽小説が苦手だ。そもそも出発から間違えているよといわれればその通りだが、ここはひとつ「すべてを師とする」という宮本武蔵の心構えを参考にする。
 もうひとつ、この本を読んで学んだことがある。小説作法の類は、小説の実作とセットになって初めて理解できるということだ。今回の体験を通してようやく理解できた。わたしは確かに利口ではない。
 自己弁護ではないが、小説作法の類は、読み物としても結構面白く、本気で小説に取り組もうとしなかったわたしのようなものにも、楽しい読書体験を与えてくれた。それを書いた小説家の小説に対する考え方のようなものがわかって、変な言い方だが、映画のメイキングを観ているような気分なのだ。だから、わたしは作家(この中にはシナリオ作家も含まれる)以外の方が書いた、この種の本を読んだことがない。
 それから、わたしはこの本の著者が主催している小説教室の生徒ではない。個人的な関係があるわけでもない。どこにでもいる一読者であるから、これをほめることでわたしの人生に何らかのメリットがあるわけでもない。これは、長編小説を書こうとして、書き上げることができたわたしの感想である。わたし以外の方がこれを読んでどう思うかはまた別の話だ。とにかく、わたしには大いに役立つ本だった。それは間違いない。

 いまさら自己紹介でもないが、わたしは森カーラを名乗って小説のようなものを書いている。X(旧Twitter)のプロフィールで、思いついて小説を書き始めたというようなことを書いているが、それは嘘だ。極めて事実に近いが事実そのものではない。
 過去に2度長編小説を書こうとしたことがあった。だが、いずれも完成させることができなかった。それはわたしにとってコンプレックスになっていたと思う。
 はじめて小説を書こうとしたのは、大学生だった20歳のころだ。小説を書こうとした理由はいろいろだが、それはまあいいとして、とにかく書こうとした。
《だいたい150枚くらいで書くことがなくなり、行き詰まります》と、『何がなんでも新人賞獲らせます!』の中にある。さすがである。素人の力量のほどはよくわかっている。わたしの第1作はもう少し長く、200枚手前まで書いたが、そのあとがどうにも続かなくなった。
 同じころにちょっとした人生の挫折があった。世間的にはありふれたことなのだが、20歳のわたしにとっては、世界が崩壊するような、あるいは空が落ちてくるような出来事だった。世間知らずのわたしは、いよいよ小説など書いている気分ではなくなった。いまにして思えば、その挫折がなくても、わたしは小説を完成させることはできなかっただろう。なぜ? わたしには結局、小説に書くことがなかったからだ。
 小説を書くためには、小説を書こうとする意志と持続する意思が必要だ。そして何よりも、《書くことがなければ小説は書けない》ということだ。いずれも『何がなんでも新人賞獲らせます!』のなかに書かれている。やはり技術だけでどうこうできるものではないらしい。20歳のわたしには、どうしても書かねばならないことがなかった。なんとなく小説が書けてしまったという天才もいるのだろうが、わたしはフランソワーズ・サガンでなかったということだ。
 大学を卒業して、社会人になったときわたしの人生に大きな変化が起きた。運に恵まれて就職できた会社だった。運は尽きておらず、たまたま仕事がうまくいった。こういうのをビギナーズラックというのだろう。平凡だったわたしがにわかに非凡な人間になってしまった。またまた宮本武蔵だが「ものごとは拍子だ」と『五輪の書』に書いている。あれは本当だとつくづく思う。社会人一年生、わたしは自分の意思とは無関係に、物事がうまくいく拍子に乗ってしまった。
 あの頃の自分に出会えば、絶対に近づきたくない。たまさか運に恵まれて仕事がうまくいったばかりに、有頂天になり、舞い上がっていた。自分は平凡だと思っていたころのわたしは万事控えめだった。だが、できる人間になったとたん、上から目線で傲慢なことをいう、いやな奴になった。なお悪いことに、運と実力をはき違え、できないやつは努力が足りない、そんなやつらは淘汰されても仕方がないと心の底から考え、考えるだけではなく発言するようにさえなっていた。さながら歩くヘイトマシーンのようなやつだったと思う。
 そんないやなやつのわたしは、30歳になったとき、また小説を書こうとした。テーマは不倫。できる妻子持ちの上司とできる年若い女性の部下が、不倫関係になり、何もかも捨てて旅立っていくという、なんとも身勝手な物語だが、当時のわたしには素晴らしい物語に思えた。物語、あるいは願望だ。実際に、わたしは上司と不倫関係にあった。仕事はとびきり順調、かっこいい年上の彼がいて、そのまま行けば、早晩それなりの地位が組織内で、わたしに与えられそうな気配もあった。物語の中で旅立ったわたしたちは、自分たちで起業し、成功するという未来も与えていた。自分は何をやってもできると勘違いしていたわたしは、20代で挫折した小説もこの今なら書けると、これまた勘違いしていた。
 しかし、それも結局、完成できなかった。理由はよくわからない。書いている途中で、なにかが違うように思えてきた、としか言いようがない。このときは250枚くらい書いて筆がとまった。そのうちにまた続きを書こうと思っていたが、小説どころではない出来事が起きた。
 不倫が奥さんにばれたのである。怒り狂った奥さんが会社に乗り込んできた。あれは、人生の中で最悪の瞬間だった。結果、彼は降格処分を受けて、異動になった。わたしは会社を辞めた。辞めたというよりも、それは事実上の解雇のようなものだった。もう小説どころではなかった。それもこれも身から出た錆だ。
 わたしは実家に戻り、それから2年間、引きこもり状態で過ごした。その2年間は思考停止状態だった。わたしが救われたのは、家族が何も言わず、ただ見守ってくれたからだ。
 2年が過ぎて、なんとなくまた働こうという気持ちになった。何をしていいのかわからず母に相談したところ、あっさりと、
「わたしの仕事をしてみる?」
 と、言われた。当時、母は福祉の仕事をしていた(実は今も母は、パートで福祉の現場に立っている)。福祉の仕事などそれまでしたこともなかったし、果たして自分にできるかどうかわからなかったが、近所にあった特別養護老人ホームの職員になった。

 気がつくと十数年が過ぎていた。
 すでにわたしも40代の後半だ。介護福祉士と介護支援専門員の資格を持っていた。いまは某社会福祉法人で介護支援専門員として勤務している。
 わたしがまた小説について考え始めたのは、40歳も半ばになったころだった。チャンドラーが処女作『脅迫者は撃たない』を世に出したのは1933年。チャンドラーは45歳だった。小説についてまた考え始めたわたしと同い年だ。当時のアメリカ人の平均寿命は60歳に近い59歳。いまの日本女性の平均寿命は87歳と少し。早いとも言えないが遅いとも言えない出発だ。年齢の話はまあいいとして、いろいろと理由はあったのだが、わたしはまた小説を書こうと思った。30歳のとき、不倫がばれて職場を追われて以来、小説のことなど考えもしなかった。というか小説のことをできるだけ考えまいとしていた。不倫がばれる直前まで、わたしは小説を書いていたのだ。小説と苦すぎる思い出は、セットになっていた。時はすべての勝者だというがあれは本当だ。10年以上かかったが、苦すぎる過去も思い出になったのだろう。
 そこでnoteに森カーラの名前で、わたしは自分のページを作った。いまから3年前、2020年の8月だ。その時点ではどこかの賞に応募してという気持ちはなかった。それどころか自分のページを開設した2020年8月に「試し書き」はしたものの、小説には至らなかった。もとより長編小説を書こうという気はなかった。短いものから書きはじめればいいと思い、それ以上のことは考えなかった。というか、仕事に追われ、小説という趣味は後回しにしたというのが実情だ。介護支援専門員はけっこう忙しい。
 短編小説を書きはじめたのは、それから3年後の2023年の3月だった。そして、長編小説。これまでの人生で2度挫折した長編小説を、また書いてみようかと思ったのは5月ごろだ。上手いか下手かは別にして、短い話をいくつか書いて何かいけそうな気がしはじめたのである。わたしの得意とする勘違いということはもちろんあった。3度目の挑戦もまた挫折で終わるかもしれないという思いもあった。
 しかし、とにかく書き始めた。挫折への不安はあったが、それよりも書いてみたいという気持ちの方が強かった。つまり、今回は書きたいことがあったのだ。
 書きはじめたのが6月だった。その時点での目標はただひとつ。書き上げること。今度は逃げ切りたかった。『何がなんでも新人賞獲らせます!』の中でもとにかく原稿を埋めることが大切だと書いている。原稿を埋める。言葉にすればそれだけのことだが、これはたいへんな力技だ。できなかったわたしだからよくわかる。まともに長編小説を完成させられなかったわたしからすれば、どんなトンデモなお話でも、とにかくひとつの長編作品を書き上げることができたという方は十分称賛に値する。最初の1行を書いて、最後の1行を書くまで、何百枚もの原稿を書けるということは、その出来不出来に関係なく、もはや才能だ。
 だから、《原稿を埋められてよかったですね》と、この本の著者が生徒にいう言葉には重みがある。わたしからすれば、それは立派な誉め言葉だ。そういう方が、倦まず弛まずに努力を続ければ、たとえ今はだめでもいつか世に出るのではないかと思う。それほど一本の長い話を書くということは、わたしにとって大変なことだった。

 今回、小説を書くにあたって、最初に参考にしたのは、S・キングの『小説作法(電子書籍では『書くことについて』)だった。理由は特にない。その本が手近にあったということだ。キングが書いた小説の書き方を読んでも、キングになれないことはさすがにわかっていたが、参考にしたのは、
「ドアを閉めきって頭の中にあるものを原稿用紙にダウンロードする間、指の動く限りに急いで苦痛を意識することがない」
 あるいは、
「取りかかった作品は、完成するまでペースを落とさずに書き続ける。毎日きちんと書かないと、頭の中で人物がはりをなくす。……(中略)……なお悪いことに、話を紡ぎ出す感覚そのものが色褪せる」
 という部分だ。だから今回はとにかく細かい所には目をつむり、ひたすら書くことだけに集中することにした。
 特に、「ドアを閉めきって」のくだりは、これから長編小説を書こうというわたしに対して、あの偉大なキングが、
「今度こそ逃げ切りたいのなら、腹を括るしかない」
 と、真顔で言っているのだと思うことにした。この時点で『何がなんでも新人賞獲らせます!』はまだ視野に入っていない。わたしは雑音を無視して、つまり書いている間は決してドアを開けず、ひたすら書くことを自分に義務づけた。考えてみると過去の失敗はそれもあった気がした。ドアの外から聞こえてくる誘惑の声に抗し難く、ドアを開けてしまったのだ。この場合の誘惑の声というのは、遊びの誘いではない。
「ここに小説の書き方を記した本があるから、参考にしたら?」
 という親切な誰かの声だ。これまでわたしは、書いている途中で行き詰まると、小説の書き方について論じている本のページを開いた。すると、自分の書いているものが薄っぺらで、力強さに欠け、このまま書き続けてもものにならないように思えてくるのである。
 自己懐疑の影がいったんさしてくると逃げ切ることは難しかった。これはいったん立ち止まり、もう一度見直した方がいいんじゃないだろうか。そんなふうに思えてくる。そして、書く速度はにぶり、そのうちにっちもさっちも動かなくなり、これはだめだ、最初から書き直そうとなって、結局、投げ出してしまうわけである。今回、その轍は踏みたくなかった。だから、どんな誘惑の声が閉ざしたドアの向こうから聞こえてきても決してドアを開けず、ひたすら前進した。
 80枚ほど書き進んだところで、今回の読書感想文に選んだ『何がなんでも新人賞獲らせます!』をひょんなことで手に入れてしまった。その時点では、第一稿を書いている間、一切小説作法について書かれた本を読まないということが、良いことなのか、悪いことなのか、判断できなかった。キングはそういっていても、あちらは天才、こちらはただの福祉関係者だ。同じようには考えられない。正直、ここまでのタイトルをつけるからには、なにか素晴らしい小説の書き方に関する方法が書かれているのかもしれないという気がした。この著者にはプロの作家を送り出した実績もあるという。と、なれば、小説一本書きあげる秘訣のようなものが、ほんとうに書かれているかもしれない。それは、キングに従うか、自分に従うかという選択でもあった。わたしはキングに従って、よそ見はしないことを選んだ。
 少し前に自己懐疑と書いた。長い小説を書くというのは(プロは知らないが)わたしには、不安との戦いという面がある。長編小説の執筆は風呂桶で大西洋を横断するようなもので、自己懐疑の影がさす、とキングも書いている。あれは本当だ。あのキングでさえそうなのだ。わたしごときが不安にかられ、やっぱりこれはやめようか、となっても少しも不思議ではない。不安になるのは、みんな同じ、だからそのまま突っ走ることにした。そうやって、これでいいのか、このままでいいのかという不安と戦いつつ書き進めていくと、ふとあることに気づいた。
「変な欲を出すから不安になる」
 最初から完全なものを書こうというその心根がそもそも間違っている。開き直って、駄作でいいや、とにかく書いて後のことは後で考えよう、それでいいじゃないかと開き直れば不安はずいぶん薄らいだ。少なくともわたしには仕事があり、資格もあって、明日の食事には困らない。だったらどんなむちゃくちゃなものでもとにかく書いてしまう。ということで、ひたすら書き続けた。先を急ぎ、人物造形が途中で変わろうが、筋立てに矛盾が生じようが、細かいことには一切目をつむり、先へ先へと進んでいった。
 そして、完成した。736枚。とうとう書ききった。いや、逃げ切った。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』を読み始めたのは、そこからだった。

 しかし、小説作法の要諦はひとつしかない。
 たくさん読んで、たくさん書く。
 正直に告白する。この部分は丸谷才一さんのへたくそな模倣だ。
「しかし、文章上達の秘訣はただ一つしかない。あるいは、そのただ一つが要諦であって……(中略)……観念するしかない。作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、それに尽きる」
 たくさんではないが小説創作技法に関する本はいくつか読んだが、そこで語られていることはすべてそれだった。先の丸谷才一さんの本は『文章読本』だが、基本的にそれは創作にも応用できるように書かれている。小説が日本語の文章でできている以上当たり前と言えば当たり前だが、とにかく、どの本もいっていることは「たくさん読んで、たくさん書け」だ。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、第一稿を開き直って書ききった後で読み始めた。
 そこに書かれていたのは、
《たくさん読んでたくさん書き》
 と、いうことだった。そしてさらに、
《たくさん応募してたくさん落選する》
 それがしなければならない、
《最小限の努力》
 と言い切っている。
 うまい話はないものだとつくづく思う。しかし、考えてみれば当たり前の話で、ちょいちょいと書いてプロデビューして、一発あてて印税生活、などという方法があれば、世の中はベストセラー作家だらけになる。そういう現象が起きていないところを見ると、つまりそういう方法はないということだし、そんな大それたことを望まなくても「簡単にものになる小説の完全な書き方」などというものもないということだ。
 これまでにわたしが読んだ小説創作の技法に関する書籍の一部だが、ざっと次のようなものだ。筒井康隆氏が子供向けに書いた『SF教室』。これはポプラ社が刊行したものだった。この本の中で筒井康隆氏はアイデアよりもテーマが大切だと書いていた記憶がある。都築道夫氏の『ミステリ指南』。この中で都築氏は極めて残酷なことを書いている。
「自分には才能がはっきりあると自覚したものでなければ小説は書くことはできないのではないかという疑問が起こってくるだろうと思います。これはごく冷酷ないい方をすれば、その通りなんです」
 そのほかでは、豊田有恒氏の『あなたもSF作家になれるわけではない』、ディーン・R・クーンツの『ベストセラー小説の書き方』、シナリオ関係では宝島社の『ハリウッド脚本術(タイトルはちがったかも)』、新井一さんの『シナリオの基礎技術』、文章技術に関する本なら先にも触れた丸谷才一さんの『文章読本』、井上ひさしさんの『私家版日本語文法』『自家製文章読本』、『井上ひさしの作文教室』も読んだ。もちろんS・キングの『小説作法』もそうだ。『私という小説家の作り方』とか『小説のたくらみ、知の楽しみ』も創作関係に入れていいかもしれない。それらの多くは父の書斎にあった。谷崎潤一郎、三島由紀夫、そういった古典的な文豪の書いた文章読本も当然あった。わたしが10歳のときに家を出て行った父だったが、その父が小説を書こうとしていたらしいことは母から聞いていた。父は、小説を技術的につかもうとしていたのだろうか。
 もちろん新しい作家さんの書いた小説作法関係の本も読んだ。40歳のころからなんとなくまた小説を書いてみたいと思いはじめたこともあり、ちょこちょこ買って読んでいた。
 余談ながら、『ハリウッド脚本術』では物語の始め方について、始まる前の場面を書いてみることを勧めていた。物語が始まる前にも当然、物語はある。同じことを、新作執筆中の又吉直樹さんがNHKの番組の中で話していた。又吉さんも、物語が始まる前の場面から書き始めるらしい。
 素人にわかるように書くということは、実は大変なことだと思う。自分のことを、右も左もわからない素人だと思っている人はいったいどのくらいいるのだろうと思うことがある。わたしの場合、20歳のときはともかく30歳で2度目の長編小説チャレンジをはじめたとき、なぜか自信だけはあった。これだけ仕事ができるわたしだから、小説くらいはちょいちょいと書けると思っていたのである。本当に思っていたのだから驚く、というかどうかしている。傲慢は人を狂わせるというのは本当のことらしい。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』の第1章は《書かない人ほど自信に満ちている》だが、その通りだと思う。ここを読んだとき、昔、ジョージ秋山さんが何かの作品の中で、
「歌手と漫画家は誰でもなりたがるし、誰でもなれると思う。歌は誰でも歌えるし、絵は誰でも描ける」
 そんなことを主人公に語らせていたことを思いだした。あれは『新・日本列島蝦蟇蛙』だったろうか。声が出て歌が歌えれば歌手になれると思えるのなら、日本語の読み書きができれば小説くらいは書けると思って当然だ(いまどきは漫画家になろうと思う方が、ハードルは高いかもしれない)。
 素人という自覚を持っている素人が何人いるのか。わたしに自分が素人であるという自覚はなかった。わたしは小説を書くのは初めてでも、日本語の達人(とはさすがに思わないまでも)、達者くらいには思っていた。
 自分が素人であるという自覚を持つことは、わたしには難しかった。《執筆量と筆力は比例の関係にあり、執筆量と自信は反比例の関係にあります》とあるが、本当にその通りだ。この部分は痛みと共に読んだ。《途中で投げ出した作品は執筆量としてはゼロ》というなら、長編小説を書こうとして2度投げ出したわたしの場合、執筆量は限りなくゼロに近いということだ。
《たくさん書けば書くほど自分の作品と実力を冷静に見る目が肥えてきて、自分の筆力を知る根拠が見えてくる》ともあり、針でちくちくと刺されている気分になる。
 自分にできることとできないことがわからないから素人だとすれば、『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、大素人であるわたしにとって親切このうえない手引書だ。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』には本の読み方を懇切丁寧に書いてくれている部分まである。《たくさん読んで、たくさん書く》ための、「たくさん読む」の部分である。わたしが読んだものも読まなかったものも含めて、数多の作家が小説作法の類を書いている(と、思う)。だが、本を読まなくても小説家になれますと書いている本は、たぶんだが一冊もなく、まずは読むことから始まる。読む行為と書くという行為は不可分なのだ。直接、本を読めとは書いていなくても、小説を書きたいと思う人間が、本をほとんど読まないなどということは、まず考えられない。筒井康隆氏は『あなたも流行作家になれる』のなかで、本を読まなくてもいいからテレビを見るように勧めていたと思うが、あれは本当の話ではたぶんない。それはともかく、問題はどのように読むかである。
 わたしの場合、これまでろくに本を読んでこなかったということはない。一応読んでいる。かつて小説を書こうとしていたらしい父の蔵書は決して少ないとは言えなかった。だが、しっかりと読めていたのかといえば、はなはだ疑わしいと、『何がなんでも新人賞獲らせます!』を読みながら思った。
 その道で、というのは小説であれ何であれ、文筆家として生活している人の文章は、さらっと読めてしまう凄さがある。このあたりの感覚を平井和正さんは、「ベクトル感覚」と呼んでいたと思う。ある方向に向かって引っ張っていく文章力である。そういった文章に飲み込まれてしまうと、深く考える前に読まされて、わかっていなくてもわかった気分になる。そうさせられてしまうのである。非常に高度なことをしているのに、簡単そうにみえる。流暢性効果というらしい。
 一読者として読む分にはそれでいいのだろうが、小説を書くためにある作品をより深く知る、その作品を参考にするべく、解体して、分析するという読み方ではない。 
『何がなんでも新人賞獲らせます!』では、《カウンター読書法》という項目を設けて、懇切丁寧にその作品をより深く知るための本の読み方を説明してくれている。
 小説の読み方、学び方について、例えば丸谷才一さんは、
「人は好んで才能云々をしたがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能にほかならない」
 と、書いている。そう書かれると、ふむふむそういうことか、と納得するが、一方で「伝統の学び方」とは何ぞやという問題は未解決だ。『何がなんでも新人賞獲らせます!』ではその学び方について教えてくれるのである。丸谷才一さんの重厚な【きゅうかなづかひ】で書かれると、心底わかっていなくてもわかったような気になってしまう。いや、わたしほどの人間がこの程度のことがわからないでどうすると思いたい。しかし、感想文に取り上げた本では、素人に噛んで含めるように、こうやって学ぶんだ、勉強するんだよと教えてくれている。まことに親切である。
 書く方にも親切はあふれている。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』では国語文法に触れている。いままでわたしが目にした小説創作技法に関する本の中で、国語文法に触れたものが果たしてあったのかと考えてみる。井上ひさしさんの『私家版日本語文法』などは別にしても、なかったような気がする。考えてみると小説などという日本語の塊を書こうと考えている人間を前提に書かれたものに、いまさら文法について学習しなさいというようなことは、書く方にしても気が引けるのかもしれない。と、いうか小説を書こうというほどの相手なら、国語文法など当たり前のこととして身につけているはず、ということなのだろう。
 しかし、わたしの国語文法はかなり怪しい。わかっているつもりでわかっていないところが、たぶんある。
 北杜夫さんの作品に『白きたおやかな峰』という作品がある。これは文法的におかしいという指摘があった。有名な話だからご存じの方は多いと思う。北杜夫さんが『徹子の部屋』に出演したときもこのことを話していたらしい。
「白き」は文語だ。だから続く「たおやか」は「たおやかなる」にしなければおかしいというのである。指摘したのは三島由紀夫様だったという。だから本来は「白きたおやかなる峰」が正しいというわけだ。このことについて著者である北杜夫さんは、
「文法的にまちがっているが、これは小説だから許される」
 と、黒柳徹子さんに話されていた。知らずに間違った文法を使って、小説だからいいんだよ、と開き直るよりも、文法的に間違っているがより小説的であるために意図的にやったというほうがそれは高級だ。
 しかし、これは結構きつい。これから小説を書こうという人間が、国語文法とは、いささかなさけない気もするが、まあ仕方がないか。

 わたしが『何がなんでも新人賞獲らせます!』を読み始めたのは、推敲を行う段階になってからだった。
 第一稿はとにかく書き上げることがすべてと割り切って、細かい所は無視して書いた。ストーリーに多少矛盾があっても、起承転結も序破急もすべて忘れて、人物の性格がストーリーの関係で変わってしまっても、本当にこれでいいのかと不安を感じつつも目をつむって書ききった。文法的にも同じである。わーっという感じで書いていたこともあり、妙な具合になっているところもあるはずだったが、あとで直そうと考えていた。
 それを推敲と呼んでいいのか、書き直しと呼ぶべきなのかわからないが、第一稿を書き上げ、第二稿に取り掛かる段階になって、『何がなんでも新人賞獲らせます!』を読み始めた。わたしが自分のことを素人だとつくづく感じたのは、実は第二稿に取り掛かったころからだった。第一稿は書くことを優先させたと書いた。うまいか下手か、そんなことは考えもしなかった。要するに熱に浮かされたように書いたわけで、そんなときは冷静な判断などできない。正直に言うと、そんな状態で書いていると、実は私はかなりうまいのではないかという、あらぬ幻想にとらわれたりした。とにかく、そんなわけで頭に浮かんでくる場面を片っ端から書いていった。
 そして、変に冷静になった頭で読み返してみて、へこむことになる。まるで物語のコントロールが効いていないのだ。特に登場人物の性格が中盤あたりから自分でも、これは変だろうと思うくらいに変わっていた。性格どころか、体格や容貌まで変わっている登場人物もいて、コントロールが効いていないなどと気取った表現を捨ててしまえば、要するに支離滅裂だった。よい所を探すのが難しいと思えるような代物だったが、救いは、ストーリーで、これだけは一応、なんとか破綻せずに最後まで続いていたことだった。もちろん、寄り道をしたり、枝葉に当たる部分が肥大化したりと、何度もコースを踏み外しそうになっていたが、それでもまあ何とか持ちこたえていた。それはわたしの筆力、というよりも大方は運だったように思う。断っておくが内容は問うていない。A地点からはじまったものが、最終地点のZまでアルファベットの上をもたつきながらも歩いているという意味での運だ。アルファベットの上だけを歩いていて、ひらがなが途中で紛れ込まなかったという意味での運であって、アルファベットの並べ方が美しいとか、そういうことではない。
 それでも700枚を超えている。最低でも200枚は削らないと狙っている賞には応募できない。その枚数でも応募できるところはありそうだったが、初志貫徹で狙ったところに送るという目標は達成したかった。
 推敲が大切なことはよくわかっている。このわかっているは、字面としてわかっている程度のことで、ブルース・リーが言うところの、「考えるな、肌でつかめ」の肌でつかんだものではない。文豪オノレ・ド・バルザックは狂気的な推敲魔で、出版社からどれほど不利な条件を突きつけられても、過剰なまでの推敲をやめることはなかったという。そういう歴史的な事実は知っていても、わたしの場合、この推敲という作業に、なんとなく億劫な心根があり「できるだけ推敲作業は少なく」と、不埒なことを考えるところがあった。だが、今回だけは推敲をしないわけにはいかなかった。何せ200枚を削るのである。書き直しが絶対条件だ。
 しかし、推敲といっても、いったい何を手掛かりにその作業を進めればいいのか、そこがわからなかった。それまで持っていた推敲のイメージは、文章の手直しというものだったが、今回は全面的な修正だ。
『何がなんでも新人賞獲らせます!』を読むことになったのは(こんなことをいうと著者に叱られるかもしれないが)、必ずしも小説を書くための参考書を期待してのことではなかった。これは正直な気持ち。タイトルのもたらす印象というものがあって、ここからイメージするのは「株で儲けて、人生一発逆転する方法」的な印象である。不遜を恐れずにいえば、このくらいの本ならあっという間に読めるだろうくらいに考えていた。読み始める前の時点では、まだ自分に頼むところがあったということだ。修正という作業をどのように進めていいのかわからず、気分転換の軽い読書のつもりだった。
 読んでみて、この本の著者に途中で詫びたくなった。読んでいるうちに引き込まれた。何に引き込まれた。
 1ページ目、《はじめに》のところにこうある。《「最小限の努力と労力で小説家としてデビューする方法」》と。ああやっぱりこれだよなと思った。ようするに世にあふれている軽いビジネス本的な展開だと感じたのである。だが、読み進めるうちに、一筋縄ではいかない玄人の凄みのようなものを感じはじめた。何をどう書いていようと、この著者には小説家として四半世紀を生きてきたという裏付けがある。ご本人が書いているように、ヒット作の書き方も、ベストセラーの書き方も、歴史的名作の書き方も、そういったことは知らなくても、作家として生活してきた人間なのだということ。これはとても凄い。誰でも参加できる世界ではない。多くの人間が目指しながら、結局たどり着けなかった世界の住人であると同時に、気を抜けば振り落とされる厳しいプロの世界での四半世紀だ。一言でいうと、凄い! なのだ。
 そして、《たくさん読んでたくさん書き、たくさん応募してたくさん落選する》という一文に出会う。それこそが《しなければならない最小限の努力》だと言い切っている。タイトルにある若干の胡散臭さとは大いに異なる真面目さだ。この一文に出会って、タイトルはさておき、この著者は、小説家志望者のために本気で、自分がその経験から学んだことを伝えようとしているのだとわかってきた。そして、もしかしたらこの中に、どうしていいのかわからない推敲の仕方に関する手掛かりがあるような気がしてきた。

 そもそも推敲と考えるから駄目なんだ。わたしは考え方を改める。文章の読みづらい部分を修正する、あるいは表現に磨きを書ける、そういった文書修正術的なことではなく(確かに究極はそうであるにしても)、もっと根本的な部分、小説としての物語の部分にまで踏み込んで修正を加える、つまり、
「こうなれば腹を括って書き直すんだ」
 という覚悟を持つことにした。ただ、書き直すといっても、それはそれで、何を手掛かりに書き直せばいいのか、そこがいまひとつよくわからなかった。それは、小説におけるストーリーとは何かという問題と関係していた。大幅な加筆訂正を加えて、というのはよく見かける文言だが、何を基準に大幅に加筆訂正を加えるのかということが、小説というものがよくわかっていない素人には難しい。それは結局、小説におけるストーリーとは何かという本質的な問題にかかわってくる。面白いというのは何かということだ。確かに、わたしが面白いと感じるものはある。この本の著者にはまことに申し訳ないのだが、娯楽小説にあまり面白さを感じない質なので、純文学よりの小説ということになるのだが、それでも自分が面白いというその面白いものがいまひとつ掴みきれない。あれこれ考えているうちに迷路に迷いこみ、いよいよわからなくなってきた。
 直すにしても、いったい何を手掛かりにすればいいのか。才能があるとか天才とか呼ばれる人、さっさと書いてさっさと世に出た人は、もちろん努力もしているのだろうが、そういった小説の本質にかかわる部分を先天的に理解できる勘を持っているのだろう。わたしにはその勘がないか、あっても極めて鈍いのだろう。確かに何かが手の届きそうなところにあるようには思えるのだが、その何かにどうしても手が、指先が届かないのである。非常にもどかしかった。
 正直な話をすると、自分がここまで小説にのめりこむとは思っていなかった。いまわたしは介護支援専門員を職業としている。職場にさまざまな問題はあるが、それでも耐え難いとは感じない。つまり、わたしは追い詰められたJ・K・ローリングではなかった。それでもなお、小説を書ききりたいと思った自分がいて、その動機は何なのか、今もってよくわからない。というか考えていない。とにかく、今書いている小説を書ききりたいという思いだけがあった。今書いているものだけではない。小説というものを一度でいいから真剣に書ききってみたいという気分というかそういうものだ。
 どこかにあるはずの、書き直しの手掛かりを求めて、『何がなんでも新人賞獲らせます!』を、わたしは読み進んでいった。この本なら、どこかにそれがあるという気がした。著者がそういったことを意識していなくてもどこかにあるはずだと直感が教えてくれているような気がした。
 そして見つけた。
《ストーリーは登場する人と人との葛藤から生まれる》
 正直「あ!」と思った。もちろん、その前後に長い解説があるのだが、そこは省く。ずっと読み進めてきて、この部分にであったとき、手が届きそうで手が届かなかったものの正体が見えた気がした。わずか三度目の挑戦でようやく書き上げた長編小説。評価されるほどの内容など最初から期待はできないにしても、だめはだめなりの形があるはずだった。その、だめなりの形にさえたどり着けていないと自分で感じる理由が、登場人物の造形の弱さにあると、『何がなんでも新人賞獲らせます!』が教えてくれていた。ようするにストーリーが優先されて、その都合で登場人物の性格が物語の途中で変わったり、はなはだしいのは容貌まで変わったりという珍事が、当たり前のように、わたしの書いた小説の中では起きていた。そのことに気づくと、これまで読んだ小説の創作技法に関する本の中で、数多く語られていたことを思い出した。
「原稿をよみかえしたときに見つかる大きな間違いは、登場人物の動機であることが多い」
「物語は人に寄生する形でしか存在しない」
「ある性格の人物をある状況に放り込めば、自然に物語は動き始める」
「登場人物のすべてを知りつくせ」
「島田勘兵衛に至ってはノート一冊に経歴がびっしりと書き込まれていた」
「『呪われた町』の登場人物たちは多面的に描かれている。そして非常に人間味にあふれているばかりでなく、細部にわたって矛盾がない。つまりすぐれた性格描写が作品の信憑性を高めるのに大いに役立っているのである」
 ほかにもあるが過去に読んだことのある創作技法に関する本に書かれていたことを思い出し、同時にずっと昔から登場人物の造形についての重要さを説かれ続けていたのにそのことに気づけなかった自分の不明を恥じた。
 そうだ、『何がなんでも新人賞獲らせます!』とほぼ同じことを書いている創作技法に関する本もあった。それはこんな風に書かれていた。
「小説を書き始めるにあたって、神経を集中し、個々の登場人物の細かい性格をリストアップする」
 さらに、
「正直いって、わたしを含めて多くの中堅作家たちは、この種の包括的なリストをつくる労をはぶいている。が、性格描写にまだ不慣れな新進作家の場合は、第一章の冒頭の文字を書きだす前に、こうしたリストを作っておけば、統一性を保つ……」
『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、負けず劣らずの詳細な人物造形法を書いている。かつて読んだ創作技術関係の本にも、人物造形の大切さと、その具体的な方法は書かれていた。それを読んでいながら、全く気づかなかったということは、わたしにそれだけの見る目がなかったということだ。真剣さが足りなかったということでもある。凡人であるということでもある。自分が凡人であるということを、知り抜くことはかなり難しいことではあるにしても、才能が豊かでない者はしっかりと肝に銘じるべきだ。「初心忘れるべからず」とはよくいったものである。
 ようするに、見る気がなければ何も見えないということを、わたしは思い知らされた。それが本当に必要だと思わない限り、目の前にたとえダイヤモンドが落ちていても、ガラス球に見えるのだ。わたしのレベルはその程度だったということなのだ。本は読める、ある程度の文章力はある、そういった思い上がりが、目というか意識を曇らせていた。才能の問題はあるにしても、やはり本気度の問題はとてつもなく大きい。
 わたしは人物の履歴書AとBを再度作り直した。書き始める前に、ある程度人物の履歴書的なものは作ってあったが、それをもとにAとBを作った。その過程で、見えなかったストーリーが見えてきたような気がした。それを作った後、再度ストーリーを見直し、というかその登場人物が紡ぎ出すはずの葛藤からストーリーを見直した。
 その作業については詳しく書かないが、とにかくそんな過程を経て、登場人物の行動に不自然さはなくなったように思えた(あくまでもわたしレベルが感じる不自然さだ)。『何がなんでも新人賞獲らせます!』のなかで《小説は書かれていることと書かれていないことから出来ている》という部分がある。ストーリーそのものについて語っている部分ではないのだが、これと似た感じのことが『シナリオの基礎技術』にも書かれていた。「表と裏の問題」と題された章の中にあって、要約すると、とかく初心者は物語の中で主人公だけを一生懸命に追う傾向があるが、それでは物語が単調になってしまう。主人公が活動している場面を表の場面だとすると裏には、主人公に関連する登場人物たちの場面が動いている。プロの作家は、常に登場人物の裏の生活を考えているらしい。ある場面がどうも面白くないと考えたとき、わたしはその場面に至る前の場面、主人公のものではない登場人物たちの動きを別枠で書いてみたりした。
 また長すぎる話をまとめるために、《長編プロットの階層管理》が役だった。
 そんなふうにしてストーリーを修正した。結果、第二稿でかなり物語を短くすることができたが、それでもまだ50枚ほど長さは超過していた。第一稿と第二稿はエディタで書き上げた。第三稿は作成したテキストをワードに落とし、読み上げ機能を使い、不自然だと感じた部分を修正した。その過程で文章がずいぶん変わった。心のどこかにあった、流麗な文章で物語を語るというできもしない幻想を捨てて、わかりやすく、読みやすく、短期記憶の枠をできるだけ超えない短文で全体を構成するようになった。最終的に自分で(かなり恥ずかしかったが)声にだして読んでみた。
 そして、10月中旬、小説は494枚になった。その小説はある賞に送った。結果については期待していない。人生三度目の挑戦でやっと書いた長編小説が、評価を受けるなどということはありえない。人生はそれほど不公平にできていないはずだ。ようやく始められそうだという、これはその第一歩にすぎない。

 とにかく、長編小説は書いた。というか書けた。
 書いた通り第二稿を書く段階から読み始めた『何がなんでも新人賞獲らせます!』は役に立った。書かれていることは、過去に読んだ小説創作にかかわる技術に関する本と本質的に同じ内容であっても、わたしのような者にわかりやすく書かれていた。わかりやすいというのは、つくづく大切なものだと思う。わかりやすいものを読むことで、過去に読んだものの本当の意味がわかることもあるのだ。わかりやすく書ける能力というのは才能というよりも訓練なのだろう。
 ただ、この本にある通りにすれば、本当に新人賞は獲れるのか、ということになると、あくまでも個人的な意見ではあるが、獲れないだろう。獲れるか獲れないかは、結局、個人の能力による。当たり前のことだ。たくさん書いて、たくさん応募して、たくさん落ちる、という経験を経ても、一万枚を書いても、なれない人はやはりなれない。わたしの得た結論だ。
 このままめげずに書き続ければ、わたしはもっと小説がうまくなると思う。しかし、うまくなったからといって職業としての小説家を選べるのは、たぶんほんの一握りだ。多分ではない、間違いなく一握りの選ばれた人間だけだろう。わたしがその一握りに入ることができる可能性は、たぶん高くはないと思う。
 職業作家になるための適性の問題については、『何がなんでも新人賞獲らせます!』のなかでも《小説家になるためにはもちろん適性が必要であります》とちゃんと語っている。
 ここにあることを守って書いても、大半の人間は職業小説家にはなれないと感じているわたしがいても、何も気にすることはない。わたしは作家として生活している人間ではない。森カーラは一般人である。名のある作家でもないわたしが、なれない人は絶対になれないと書いたところで、嫌味にはなるまい。筒井康隆さんが書くのとはわけが違う。そもそも一万枚も書いたことのないわたしがいっているのだから、これほどあてにならない話もない。ただ、小説家ではないが、職業人として一応30年以上やってきたわたしが、そう感じているだけのことだ。たとえば小説が日常的に必要なものであれば、技術を磨けば、それはある程度のところまで行き、その世界で食っていくことも可能だろう。小説家の、末席のそのまた末席に座ることができる人間の数はぐんと増えるかもしれない。名人上手ではない普通の職人さんは世に数多いて、実際はその普通の職人さんが世の中を支えている。
 わたしは小説と縁もゆかりもない介護福祉の世界に生息するグロテスクな生き物のひとりだ。わたしのいる世界は小説家に比べればはるかに入り口は広い。ときに下層の仕事として嘲笑されるこの仕事であっても(わたし自身は下層の仕事などと思っていないが)、適性が必要だ。人手不足は待遇の問題が大きいにしても、適性の問題もかなりある。動機は様々だが、この業界に入ってきても、やっていけなかった人を何人も見ている。まして選びに選ばれる小説家の世界だ。
 この本が職業作家を目指すための指南書だとすれば、この通りにすれば結果は出ると思う。だが、この通りにやっても、結果は露骨な差となって現れるのではないだろうか。芸術家になるなどと大それた望みなど持たず、職業としての小説家を選ぼうとしても実際、芸術家とか職人とか、人間としての勘が大きくものをいう作業は、いやでも人を選別する。
『シナリオの基礎技術』の中にも恐るべき一文があった。
「シナリオを書くための基礎の技術と、実作に当って、初心者の誤りやすい点を指摘してきました。もしこれが忠実に守れたとするならば、極めて欠陥の少ないシナリオを書くことができることになります。
(中略)しかし、私たちがこれから書こうとするシナリオは、完全に欠陥なく書けたからといっていいものではありません。
 その作品が面白くなければ、どんなに人物が活躍しようが、ストーリーが波瀾万丈であろうが、使い道にならないのです」
 親切に書いてくださっているだけに残酷でもある。この通りにすれば一定水準のものは書ける。でも、だからどうしたという話だ。
 とはいえ、表現にかかわる人間作業は、何が面白いかを定義づけることが難しい。それはさすがの素人であるわたしにも一応わかっている。暗黒小説の大家、J・エルロイが『わが母なる暗黒』のなかで「石板」という言葉を使って、小説家としての適性(エルロイくらいになると才能といったほうがいいのだろうが)について語っていた記憶がある。小説を書こうと思い立ちはしたが、はたして自分がその「石板」を持っているのかどうかわからない、そんな感じではなかっただろうか。最初の一歩を踏み出すとき、誰だって自分が(エルロイ風にいえば)「石板」を与えられているのかどうかなどわからない。わからなくて普通なのだろう。
 わたしは多くの人間は作家になれないだろうと書いた。素人の戯言である。皆すぐに忘れてしまう。ではあるのだが、覚悟は持っていた方がいいと思う。『何がなんでも新人賞獲らせます!』は、よくある実用書的なタイトルとは裏腹に、大真面目に、
「あんたには報われないかもしれないことをやり続ける覚悟はあるのか?」
 と、問いかけてきている。
「やり方は教えよう、プロとしてのコツは出し惜しみすることなく教える。だが結局はあんただ。そこまでして小説を書きたいのか?」
 わたしはどうだろう。そこまでの覚悟を持っているのだろうか? 職業作家に憧れて、結局なれなかった自分を想像することは、恐ろしくもある。このあたりのことについて、マルセ太郎さんが、背筋が冷たくなるようなことを語っておられるが、ここでは触れない。覚悟があるのかないのか、自分のことではあるが、よくわからない。わかっていることは、今回の長編小説を書くという作業は、とても楽しかったということだ。
 だからいま、次の長編小説を書き始めている。

 追伸。
 準備はとても大切だということも学んだ。今度はしっかりと準備をしてから書きはじめよう。

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