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来る! 2

 聖書の話をしたからいい人とは限らない。それを言い出せば、福祉業界には福祉の意義や利用者への愛や寄り添う心について語りながら、やっていることは真逆という人間はざらにいる。たとえば堀川所長もそういうひとりだ。そういった人間の方が圧倒的に多いといってもいいくらいだった。
 わたしは真壁理事長の言葉を真に受けたが、真壁理事長の人柄まで信じたわけではなかった。辞めてはいけないとわたしを諭した真壁理事長の言葉は、真実に通じていたかもしれない。しかし、本音の部分で打算がなかったと言えるだろうか。この業界の人手不足は恒常的なものだ。わたしに辞められては困るという打算も、どこかで働いていたかもしれない。一点の曇りもなく立派な人間もいなければ、全てが真っ黒な悪人もいないということだ。夫を不倫で奪われたわたしが、親友の夫と不倫をした。絶対の善人も絶対の悪人にもいない。その時々で、加害者も被害者も入れ替わっていく。人間などどれもこれも同じなのかもしれない。
 わたしが退職を思いとどまったのは、真壁理事長がしてくれた聖書にある罪深い女の話を聞いたからではなかった。
 篤はまだここにいた。
 思えばそれが全てだった。
 十日間の出勤停止が終わった後、篤は主任に降格され、わたしたちがかつていた入所施設に戻された。所長から主任への降格。所長は課長級だから二階級降ろされたということだ。
 それでも篤は退職しなかった。なぜ辞めなかったのかわたしは知らない。あの事件以来、わたしは篤に連絡をしていなかった。篤からも連絡はなかった。しかしわたしにとって篤がここにいるということは、確かに重要だった。もしかすると篤とまた会えるかもしれない。そんな気持ちが、わたしのなかには確かにあった。真壁理事長に言われるまでもなく、わたしは自分が過ちを犯したことを知っていた。罪を犯したことを知っていた。聖書に登場する姦淫した女がわたしだ。姦淫した女は、イエスに救われた。イエスは女に言った。私もあなたを裁かない。行け、二度と過ちを犯すな。
 わたしは、しかし、機会があればふたたび過ちを犯そうとしていた。積極的に、過ちを犯そうとすることはないかもしれないが、機会が巡ってくれば、過ちを犯す危うさが、わたしのなかにあった。
 わたしは美幸を訴えなかった。それもあって美幸は釈放され、そのまま精神病院に入院した。それを知ったとき、暗い可能性をわたしは考えた。もし美幸がこのまま戻らなければ、あるいは、
(篤ともう一度)
 それを考えることが、どれほど罪深いことかわたしは理解していた。わたしは最低だった。最低だが、わたしがわたしであることから逃れることはできなかった。わたしは、いつか、篤と会えることを期待していた。ほんのかすかに、
(あるいは強く、強く、強く)
 わたしは罪を犯し、罰せられることを免れても、自ら罪の中に堕ちていく、救い難い人間だった。でも、篤が好きだというきもちはどうしようもなくわたしの中にあり、そこから逃れることはできなかった。たとえ親友の不幸を願っても、その気持ちを変えることはできなかった。
 新しい職場は、緑風会の敷地のはずれにあった。ちょっと前衛的な匂いのする建物で、正式名称は《高齢者グループホーム輝》といった。高齢者グループホーム。認知症対応型共同生活介護として介護保険法に位置付けられている。五人から九人という、少人数の認知症の高齢者を単位として、共同生活の形態でサービスを提供するというものだ。要するに小さな入所施設だった。
 輝は三つ部分からできていた。大きく片方に傾いた屋根を持つ建物とそこから伸びる二本の腕のような建物だ。真上から見ると、コの字型をした建物が輝だった。風変わりな屋根を持つ部分には、リビング、キッチン、職員室、浴室、リネン庫などがあった。そこから伸びる二本の腕の部分に入居者の居室があった。片側に五つの部屋があり、十室あったが、一室は職員の休憩室だった。ふたつの居室棟に挟まれる形で中庭があった。
 輝は大きな建物ではなかった。入居者は九人。職員も九人だ。しかし、職員九人を常勤換算という手法で計算すると、七.七人だった。常勤換算というのは実際に労働に従事している時間から人数を計算する方法だ。労働時間を人数として換算する。たとえば、所定労働時間が週四十時間の職員だと一人だ。所定労働時間が二十時間の職員は、〇.五人。そういった計算を行うと人数は九人でも、七.七人ということになる。わたしがはいって十人。わたしの場合は所定労働時間四十時間だから、一人と計算する。だから、八.七人だった。
 認知症高齢者グループホームが開設されたのは二年前だった。輝は緑風会の中でも最も新しく、最も小さい事業所だった。もしわたしに、罪を悔いて、やり直そうという素直な気持ちがあれば、再出発の場所としては最適な場所だったかもしれない。不安はもちろんあった。恥知らずにも、篤に対する未練を引きずっているわたしだったが、まだ自分の立場くらいは理解する理性は保持していた。理性というのが、口幅ったいなら、打算とか計算とかいう言葉に置き換えてもかまわない。
 少人数の職場は、それだけ露骨に憎悪が集中するリスクがある。人が大勢いれば、あらゆることが薄められる。人間の気分にも濃度があるのだ。この世界にきて、教えられたことだった
 少人数の場所では悪意が露骨に、しかも過激になる。大人数の場所では悪意も希釈される。
 では、善意はどうだろう。善意はどこであっても小さなものでしかなかった。人はつまり悪意の生き物だということだ。特に福祉の世界ではそうだ。
 人間こそパンドラの箱なのだ。悪意は果てしなく広く、深い。善意はいつだって小さな希望でしかない。福祉は、人間性が剥き出しになる世界だった。人が悪意に耐えられる条件は、今の悪意に耐えれば、自分の欲求を充足させられる可能性が大いにあると思えるときだった。今を我慢すれば、良いことがあると思えるとき、人は耐えることができた。しかし、自分の置かれた状況が、耐えるに値しないと思うとき、そこを逃げ出すか、あるいは、自分の中にある悪意をどこまでも増幅させ、共喰いを繰り返し、そして、悪意に飲み込まれ、得体のしれない怪物になっていく。要するに勝つか負けるかだ。弱者は惨く扱われ、強者は自らが怪物になり、弱者に牙をむく。救いのない無間地獄がそこにあった。
 福祉の世界に、ほんとうの善意などどこにもなかった。職業としてやっているわけだから、善意などそもそもないと言ってしまえばそれまでなのだが、それは情に流されない職業人としての冷静さだ。わたしが言いたいのは、職業意識という冷静さをこえて悪意が善意に勝っているということだった。福祉の世界には、無意味な悪意が満ちていた。たとえばわたしが不倫をしようがボランティア活動をしようが、それはわたしの問題であって、他人にはどうでもいいことだった。放っておいてよ。それがわたしの気持ちだ。しかし、この業界ではそうはいかない。わたしの罪はフィクションとなり、わたしは実際以上の悪として語られ、詰られ、謗られ、軽蔑され、わたしの犯した罪をはるかに超えた罰を与えられるのだ。もしかすると、わたしはいま怪物になろうとしていたのかもしれない。
 グループホームの玄関は二重になっていた。最初の扉があり、その先に一枚ガラスの扉がある。ふたつとも自動ドアだった。最初の扉は人が立てば普通に開く。だが、二つ目のドアは電子ロックで施錠されていて、開けるにはテンキーに暗証番号を入力しなければならなかった。暗証番号は教えられていた。緊張していたのだろう、一度目は失敗した。二度目でドアが開いた。
 わたしは中に入った。湿度の高い外から空調の聞いている室内に入ると、肌がひやりとした。高齢者の体調を考えてのことなのだろう。室温はさほど下げられていなかった。それでも心地よく感じられた。わたしが中にはいったとき、来客を告げるチャイムが鳴った。
「お待ちください」
 と、向こうから声がした。優しい声で、わたしは少しほっとした気持ちになった。入ってすぐは広いリビングになっていたが、目隠しの壁があり、視界は遮られていた。右側には小さな事務所があった。輝は前衛芸術を感じさせるようなモダンな感じの外観を持っていた。だが内部は、木の質感を基調にした落ち着いた感じの内装で、統一されていた。
 声の主はすぐに現れた。背の高い、バランスの取れた体形の女性だった。長い髪を後ろで束ねて団子にしていた。マスクをしていたが、彼女が非常に整った顔立ちの女性であることは、わずかに覗いている目元を見てもわかった。
 彼女は私の名前を確認してから、
「初めまして、雨霧忍です」
 と、頭を下げた。雨霧という一風変わった名前の主任がいることは聞かされていた。
「いまちょっとトイレ支援が重なって現場に入っていました。もう大丈夫ですから、どうぞ」
 雨霧主任の声は優しかった。
 わたしたちは事務所に入った。手狭な事務所だった。標準サイズの事務用デスクが三つ入っている関係で、余計に狭く感じられた。
「どうぞ、そちらのデスクを使ってください。これからそこを使っていただきますから」
 わたしは雨霧主任に言われた通りにした。
「あらためて、よろしくお願いいたします。雨霧って変な苗字でしょう」
「いえ」
「自分でも変な苗字だと思います。あまりいない名前で、すぐに覚えてもらえるのがいいところですけど、なんだか一年中雨が降っているみたいな名前で、自分でもおかしくなるときがあります」
 そう言って雨霧主任は笑った。わたしもつられて笑った。
「もう聞いておられると思いますが、ここの所長は総務部次長が兼務しておられます。ですので、こちらには常駐していません。週に一度くらいこちらに来られます。普段はわたしたちだけで働いています。一応、わたしは主任ということになっていますが、まあ形だけですね」
 雨霧主任の声には、かすかな笑いが含まれていた。目元も笑っていた。
 中に入る前の、冷たい視線が集まる想像は、その時点で解消された。しかし、他の職員がどうなのか。わたしのなかからまだ完全に不安がなくなったわけではなかった。
「グループホームのことはご存じでしたか」
「いえ、詳しくは知りません」
「そうですね、二年前にできたけれど、ここは離れた場所にありますし、ちょっと島流しにあった気分じゃないですか」
 それが冗談であることはわかっていた。わたしはちょっと笑いながら、
「そんなことはありませんが、普段ほとんどこちらに来たことがないのは確かです。
 緑風会は障害福祉が中心でしたから、介護系はなじみがなくて。わたしもケアマネージャーの資格は持っていますが、長いこと障害福祉の現場にいて、うまくできるかどうか不安なんです」
「大丈夫ですよ。人を相手にする仕事であることに変わりはありませんから。わたしの場合が逆に障害者支援の現場を知りません。色々と教えていただきたいと思っています」
「雨霧主任はずっと介護関係の仕事をしてこられたんですか」
「はい。ずっと介護の仕事をしてきました。今年四十七歳なんですけど」
「え、そうなんですか」
「はい」
「四十七歳には見えません。わたしと同い年くらいかと思っていました」
「あらいやだ。そんなにわかくみえますか、嬉しい。ありがとうございます。でも、正真正銘四十七歳です。わたしって能天気なところがあるから、きっと精神年齢が低いんですね。
 この仕事をはじめたのは今から十年前、三十七歳のときでした。離婚して、それまで専業主婦しかしたことがなかったんです。ずっと夫はそばにいてくれると思っていました。子どももいなくて、一人ぼっちになって、これからどうやって生活していこうかと思っていたとき、デイサービスの職員募集を目にしました。家の近所だったし、思い切って応募しました。それが始まりでした。家はね、彼が残していってくれました。わたしを捨てた、それが彼のせめてもの償いだったんでしょうか。今でもその家には残っています。いまは人に貸しています。
 だから、何か目的があって始めたわけではないんですよ、福祉の仕事は」
「わたしも同じです」
「そうなんですか」
「わたしも子どもがいませんでした」
「わたしたち、なんだか似ていますね。
 それもあったのかな、彼がわたしから離れていったのは。子どもはいなくても、ふたりで楽しく生きて行くんだと信じていました。疑いもしませんでしたね。でも、ある日突然彼から、
『別れてくれ』
 と、言われました。理由を訊きました。彼から、
『子どもができた』
 と、言われました。最初なにを言っているのかわかりませんでした。
『実はつきあっている人がいる。その人に子どもができた』
 彼に言われたとき、目の前が暗くなりました。絶望すると目の前が暗くなるって言うけれど、あれ本当ですね。目の前が暗くなって、気を失いそうになりました。
 子どもができたと聞かされて、そのあと何を話したのかよく覚えていません。わたしは取り乱して、泣き叫んで、別れないでくれと懇願して、わたしを捨てたら死んでやると言ったことを覚えています。
 ほんと、人生は残酷です。どれだけ欲しくても手に入らないものがあるということを思いしらされました。だったら最初から何も望まない方がいいのかもしれませんが、生きていれば何某かの望は持つものですから。
 とにかく、食べていくためにはじめた福祉の仕事ですが、気がつくと十年です。人間の忘れる力ってすごいなと思います。人手不足で忙しかったこともあります。目の前の仕事に追われているうちに、彼のことを忘れている自分に気づきました。人は忘れられるんですね。
 仕事に慣れて、この業界でやっていけそうだと思ったとき、この町に戻ってきました。わたしこの町の出身なんですよ。地元に戻った二年前、緑風会が新事業所、ここのことですけれど、職員募集をしていると知って、応募して、採用されました。
 故郷の町で生きなおそうって思ってます。ここは小さくて、静かで、とてもいいところです、私にとっては。でも、ときどき、昔のことを、何かのはずみで思い出すことはありますが、それでも普段は忘れているから、いいかなって思っています。いろいろなことがあったかもしれませんが、過去は過去です。新しく始めましょう、ここから」
 雨霧主任の人生は、わたしの人生だった。こんなことってあるのだろうか。わたしと同じ人生を送ってきた人が目の前にいる。気がつくとわたしは泣いていた。顔を伏せて、肩を震わせて。

 グループホームの日々は予想に反して平穏だった。
 誰からも冷たい目で見られ、針の筵、どころか生け花に使う剣山の上に座るようなものではないかと思っていたが、予想に反して職員は皆優しくわたしを迎えてくれた。
 わたしが何をして、ここに来たか、知らないはずはなかった。本心では何を思っているのか、それを想像すれば、椅子の座り心地も変わってくるのだろうが、そういった想像をさせないほどに、グループホームの職員たちは、普通にわたしに接してくれた。雨霧主任の存在は、やはり大きかった。
 わたしは雨霧主任に守られて働いているようなものだった。職員の雨霧主任に対する信頼は絶大で、主任というが事実上の管理者だった。
 わたしは小さな事務所でパソコンに向かう日が多かった。ケアマネージャーの資格は三年前に取っていた。しかし、輝にくるまで実務はしたことがなかった。障害福祉施設にいたころは、サービス管理責任者をしていた。これは障害福祉におけるケアマネージャーのようなものだった。障害福祉におけるサービス管理責任者と介護福祉におけるケアマネージャー業務は、確かに似ていた。というか基本的には同じだった。だから、対象が障害者か高齢者の違いだろうと、わたしは浅はかにも考えていた
 しかし、いざやってみるとこれは相当な違いがあった。アセスメント、支援計画書の案を作成する、サービス担当者会議を経て計画(案)を確定し、モニタリングを行ない、またアセスメントをして、という流れは同じでも、内容や考え方がまるで違ってくる。内容が違えば、手法も異なるということだった。
 何よりも、不慣れなことが大変さの理由だった。しかし、それ以外にも、入れ替わりにやめた前任のケアマネージャーが、ほとんど仕事をしていなかったということもあった。
 そう言い切ってしまうのは失礼かもしれないが、実際に、前副所長兼ケアマネージャーは、どう贔屓目に見ても、ケアマネージャーとしての仕事をほとんどしていなかった。かろうじて施設サービス計画書だけは作ってあったが、それも適当に作ったとしか思えない代物だった。内容は九人ともほぼ同じで、名前がなければどの計画が誰のものかわからなかった。わたしは全書類を、ほぼ一から作らなければならなかった。
 雨霧主任は、わたしに仕事をしやすい環境を、作ってくれた。雨霧主任というのはほんとうによくできた人だった。雨霧主任なら、未経験という障害福祉の現場に行っても、優秀な支援者になれただろう。
 支援者として優れているということは、たとえば、食事、排泄、更衣、入浴、移乗といった基本的な技術に優れているということではなかった。オムツ交換を手早く、しかも的確にできるということが、優秀な支援者の条件ではなかった。手早く、的確にできることは必要な技術ではあっても、それが全てではないし、そんなものは入り口に過ぎなかった。それもできたうえで、何ができるかが重要だった。早いことが大切ではなく、相手によって対応を変えられることが大切だった。雨霧主任はそれができた。
 雨霧主任は、ただ支援者として優秀というだけではなかった。部下職員に出す指示は、穏やかだが的確で、誰もが納得してその指示に従った。それだけの信頼がある雨霧主任が、わたしについて何事かを職員に言ってくれたから、穏やかにわたしは働けたのだろう。最初から雨霧主任を副所長にしておけばよかったのだ。場合によっては所長にしてもかまわなかったはずだ。雨霧主任の働きぶりはそれほど水際立っていた。
 前の副所長をわたしは知っていた。他法人から来た人物で、その法人でグループホームの管理者をしていた。緑風会は彼女をいずれ所長にするつもりだったと聞いたことがあった。
 緑風会の人を見る目は絶望的なほどなかった。なぜ、前任者のような無能な人物を副所長にして、いずれ所長にと考えたのかといえば、前の勤め先で管理者をしていたからという、ただそれだけの理由だった。緑風会は、立場が、その人の能力をあらわしていると考えるのだ。
 真面目で、穏やかで思慮深い理事長だが、深く人物を見る目を持たないという社会福祉法人特有の病に冒されていた。なぜ最初から雨霧主任を副所長にして、いずれ所長に昇格させようとしなかったのか。いつもこれでしくじるのである。経験から学ばないことも社会福祉法人特有の病だった。
 いずれにしても、わたしの周囲で時間は穏やかに過ぎていった。六月が終わり、七月になった。梅雨が明けた。暑い夏がやってきた。仕事にも慣れてきた。そんなふうに、全ては順調だった。
 ただひとつ、頭痛を別にすれば。

第3話


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