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御伽怪談第ニ集・第五話「不名誉な噂〈後編〉」

  五

 次郎兵衛の友人・秀吉しゅうきちが、いきなり叫んだ。
「それは、いってぇ、どう言う了簡だぁ。ろくろ首などいる筈もないやないか」
 そう申すのも無理はなかった。不思議なことに……ろくろ首は関東か、西日本でも日本海側の一部の地域に限定された現象だったのである。伊勢生まれの秀吉は、現実の〈ろくろ首〉を見聞きしたことがなかった。
 もちろん、ろくろ首がいることは存じていた。だが、ただの迷信だと思っていた。彼にとっての〈ろくろ首〉は、お伊勢参りのついでに見せる、怪しげな見せ物小屋の産物でしかなかったのである。
 秀吉が続けた。
「例え、そんなものがあったとしても、だ。何を怖れる? ろくろ首やからゆうて、どうでもえぇやん」
 それから、笑いながら、
「考えてもみぃや。このまま少ない元手で、貧しい貸本屋なんぞして、虚しく一生を終えるつもりなんか?」
 と、たしなめた。
 次郎兵衛は腕組みして考えた。
 秀吉は説得を続けた。
「せっかくの良縁。これを逃したら、一生、後悔するでぇ。まったく、代わって欲しいくらいやわ」
 などと、色々進めるのであった。次郎兵衛には棚からぼた餅的な偶然であった。
 秀吉は、さらに続けた。
「昔から、好機、いっすべからずと申すことわさわもある。こないだ借りた本に、そう書いてあったやろ」
 次郎兵衛はうなづいた。
「なら、さっそく了承して、明日にでも浜松へ行ったれや」
 この番頭、森伊勢屋と言うだけあって、親しい者と話すと、時々、伊勢弁でまくし立てる癖があった。だが、それが良かった。次郎兵衛も決心して、
——いよいよ婿に行こう。
 と思い立ったのである。

 家に帰ると、兄と母親に訳を話した。
「……と申すこともあり、とりあえず、その田舎を訪ねてみようと思うが……」
 兄は、ふたつ返事で喜んだ。
「それはまたとないことじゃ。母のことは心配するな」
 母も、
「これでようやく……」
 と袖を涙で濡らしたのであった。
 ここで母親が泣いたのには訳があった。
 次郎兵衛の父親は、元々、サムライの生まれであった。それが様々な不幸に見舞われ、やがてお家は取り潰し。浪人に落ちて、流浪の民となったのである。家の貧しさは極度に達し、まさしく赤貧洗うがごとくの暮らしぶりであった。没落した武家ほど哀れなものはない。
 父親は、江戸の神田にたどり着いて野垂れ死に。今際の際に、吐くように残した言葉は、
——正しくさえ生きていれば、いつかは報われる。
 涙ながらの言葉であった。
 次郎兵衛は、それを信じて正直に生きて来た。貧しい貸本屋をしているのは、正しく生きたいからであった。
——たくさん本を読んでいれば、いつか知恵が溜まり、何か分かるかも知れない。
 と思ってのことでもあった。
 話し合いの結果、足の悪い母親は兄に任せることとなった。だが、次郎兵衛は、ろくろ首のことは言わなかった。別に隠している訳ではなかったが、何となく言いそびれてしまったのである。


   六

 翌日、次郎兵衛は挨拶のため、朝から佐治兵衛の旅籠はたごを訪れた。
 話を聞くと、佐治兵衛はすぐさま喜んで、慌ててあちこちに連絡した。衣類・脇差・荷駄にだその他を大袈裟に整え、その日の内に次郎兵衛を伴って浜松の気賀けが宿へと向かうのであった。

 江戸から気賀宿まで一週間ほど歩くことになる。途中、東海道の景勝地・金沢八景を巡りながら、次郎兵衛を大切にもてなした。
 さすがは音に聞こえた金沢八景である。その美しい風景は、まるで錦絵から抜き出たようであった。金沢八景が浮世絵に描かれて有名になるのは、この物語から百年ほど後のことである。それは、洲崎の晴嵐、瀬戸の秋月、小泉の夜雨、乙舳おっとも帰帆きはん称名しょうみょうの晩鐘、平潟の落雁、野島の夕照、内川の暮雪の八景で広重が描いたが、当時も有名であることに代わりはなかった。

 美しい景色を案内されながら、次郎兵衛は、
——こんなに幸せで良いのだろうか?
 と、下へも置かぬもてなしに、貧しかった江戸での日々を照らし合わせていた。
 気賀の宿場へ到着すると、明日はいよいよ村へ入る。
 後で次郎兵衛は、
「その夜は、期待と不安で胸が一杯になり、落ち着いて眠ることも出来なかった」
 と、ポツリと申しておったと言う。

 翌日のことであった。昼間は佐治兵衛に気賀宿を案内された。二宮神社の御神木は地元でも知らぬ者のない名所であった。大きな古木があった。説明では、ナギの木とホルトの木だと言う。ホルトとは、ポルトガルから来た珍しい樹木のことであるとのこと。気賀にはとにかく大木が多かった。縁起の良い社殿も多く見られた。
 夕方、ふたりが村外れに着くと、お駒の両親も知らせを聞いて出迎えてくれていた。
 大勢が村外れに集まっていた。半数は名主の家の者。後の半数は、
――ろくろ首に婿が来る。
 との噂を耳にした、鵜の目鷹の目の野次馬たちであった。

 屋敷に通されると、次郎兵衛は少しの食事を与えられて、しばらく待たされた。やがて夜となり、屋敷はガヤガヤと騒がしかった。何かの準備をしている様子に、
——はて、祭りでもあるのか?
 と思ったと言う。
 しびれを切らした頃、佐治兵衛が顔を見せた。
「すまんが、これにお着替えを……」
 新しい着物を渡された。着替えが済むと、奥座敷に通された。そこは、さすがに名主のお屋敷だけあって広い広い座敷であった。
 座敷の奥には、どどんと金屏風が置かれていた。その後ろの床の間には、翁の面と、おうなの掛け軸が見えた。鶴亀の置物も置かれていて、次郎兵衛が屏風の前に座ると、たくさんの人々が座敷に正装して座りはじめた。横の座布団に、白無垢の花嫁が現れて座ったと思ったら、突然のうたいが響いた。
——高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて。月、もろともに出潮いでしおの、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや、住之江に着きにけり……。
 播磨の国、高砂の松の神が、住之江の松の神と夫婦であることを祝して、末永く夫婦仲良くとのことで祈りを捧げる謡であった。
 次郎兵衛とお駒の祝言がはじまったのである。


   七

 次郎兵衛は、その時になって、やっとお駒の姿を目にしたと言う。しかし、角隠しに覆われた新妻の顔は、何だか真っ白で見えなかった。三三九度を終えると、どんどん酒が目の前につがれ、
「ささ、婿殿、まずは一杯」
 勧められるままに飲み干して、何人もが、次々に酒を勧めた。田舎のドブロクのようであったが、空きっ腹によく回る。その内、ぐでんぐでんに酔っぱらって、ついには気を失ってしまった。

 翌朝、次郎兵衛は蝉の鳴く声で目が覚めた。その時、はじめてお駒の顔を目にした。朝日の中で朝食を手伝うお駒の姿は美しく輝いて見えた。
——この娘が、妻、なのか?
 そう思うと、不思議な気持ちがした。
 朝食の後、はじめて言葉を交わした。
「あのぉ……」
 とお駒が申すので、
「て、手前どもは、次郎兵衛と申してござんす」
「お江戸訛りが……」
 とお駒が小声で笑った。
 その後、名主様の……お駒の両親の待つ座敷に通された。
 父親が、深々と頭を下げ、
「参左衛門でごぜぇます。何かと昨日は忙しく、ご挨拶も中途半端なこっで、まずまず婿殿、この度は、おありがとうごぜぇました」
 それから一頻ひとしきり、娘の身の上や、村での扱いのことを語り、しばらく涙した。
 母親は、終始、泣いてばかりいた。
 次郎兵衛は、ゆっくりとお駒を見てから、両親に、頭を下げ、
「ろくろ首など、この世にある筈もないと存じやす。もし、仮に、本当のことだとしても、手前どもが婿となる上は、ご安心くだされ。家もお駒様のことも、必ずお守りいたしやす」
 と答えたのであった。
 端に座っていた佐治兵衛に母親が、
「まったく、ありがたきことに存じまする。これで、わらわも思い残すことはござりません」
 と、両手をついて頭をさげた。
 佐治兵衛は慌てて、
「姉様、めっそうもない。両手をお上げくだされ」
 と申し、その言葉に母親も喜んでいた。お駒も微笑んでいた。

 それからのこと。両親も、娘ともども喜んで、次郎兵衛を婿としての扱いにはしなかった。まるで客人でも、もてなすかのように、大切に大切に扱ったのである。
 元より娘は、ろくろ首らしき怪しいところはなかった。それからは、夫婦仲良く鴛鴦えんおうの契り。誠にめでたく栄えたが、時として、妻を疑ったこともあった。
 次郎兵衛は、森伊勢屋の番頭の元へ行った時、
「人目を怖れてか、江戸表へは参らず。これのみに難儀した」
 と、申していたそうである。

 やがて次郎兵衛も村に馴染み、誰もが一目置く名主となっていた。元より賢い男であった。馬鹿がつくほどの正直者で、しかもたくさんの本を読んでいる。話も面白く、村人の悩みの多くを解決して、誰もが信頼し、たよる存在になっていた。
 いつしかお駒にられた男のことも知り、次郎兵衛はその男に、ある和歌を読んで聞かせた。


   八

 次郎兵衛が申した。
「愚かなる、涙ぞ袖に玉離す。せきあえず、たぎつ瀬なれば……とは、小野小町が男を袖にした時に申した言葉。小町草紙の受け売りじゃが……」
 男には意味が分からなかった。
「な、何を、言いやがる」
 すると次郎兵衛は、
「わが女房に何をか言わんや。すでに、ろくろ首は治しておる。おぬしの愚かな陰口は、村はおろか、近郷近在までも知れ渡っておるぞ」
 と、珍しく小さな嘘をついた。嘘も方便である。心の中では、亡き父にこの嘘を深く詫びていた。
 もちろん、唐国からくにに飛頭蛮を治す薬があることは知っていた。しかし、いくら知識があるからと言って、薬が手に入るとは限らなかった。
 次郎兵衛は、村の者にろくろ首のことなど、何も告げていなかった。しかし、誰もが見たこともないことと、次郎兵衛を信頼し切っていたことなどで、すでに噂は消え、差別もなくなっていた。

 この男との会話を聞いていた村人も、
「何やら名主様が、尊い本に書いてある、難しい言葉をおっしゃりまして、やつめも太刀打ち出来ぬと悟ったものか、深々と詫びて、性根を入れ替えたようで……」
 と噂していた。
「さすがは名主様。偉いもんじゃ。この村にかような婿殿が来てくれて、お駒様と言い、村のほまれじゃ」
 と、感謝の念も絶えなかったと言う。

 それから十年ほど過ぎて、次郎兵衛の女房殿も江戸表へ何度か下り、今は男女の子も生まれたと言う。ある日、次郎兵衛が森伊勢屋の秀吉を訪ねて来て、
「江戸表に出ることも許された故、あれからのことを……」
 と、感謝しながら物語って行った。

 この話は、森伊勢屋の番頭・秀吉が予の屋敷に商いで来た時、ちょうど同席していた予の友人・森本翁へ語っていたものである。
 最後に番頭は、
「女房も、もう差別されることはなく、正直に生きたことで得られた幸福でもあるのか? 一族共々、喜んでおると申しておりやした」
 と笑っていた。
 森本翁もその昔、神田の佐柄木町《さえきまち》に住んでおり、
「貸本屋のことは良く覚えておる」
 と、予のために詳細を物語ってくれたのである。『耳嚢』より。

 かつて、ろくろ首と言う噂だけで差別され、敬遠される社会があった。今はなくなったようにも感じるが、コロナと言う噂だけで差別され、敬遠される現代社会を知る度に、あまり代わっていないとも思う。これらの差別は、実はろくろ首に対してから、やがて霊能者に対するものへと姿を変え、江戸から明治・大正と続いた。そして昭和の終わり頃まで残ってゆく。今はもう、霊能者に対する差別は少なくなったと思っていたら、そうでもないようである。
 自分と違うと言うだけで、他の人々に対しての、いわれのない差別が、また、繰り返されている。
 差別のほとんどは、結局、無知から来る不安によって生まれるものでしかない。無知な者ほど、ひどい差別を行うと言う。しかも偽の正義感を振りかざすものだ。〈了〉

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