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御伽怪談第四集・第一話「磔女の頼みごと」

  一

 江戸時代のはじめの頃、九州で島原の乱があった。その中で一番の手柄を立てた知恵伊豆と呼ばれたサムライがいた。この物語は、その知恵伊豆が知る由もないところで関わった事件である。
 島原から遥かに離れた関東の秩父に出かけたサムライが、ある日、ふと、出会った亡霊により、知恵伊豆とこのサムライの運命が変わってゆくのであった。

 江戸時代のはじめ、武州・川越の住人に入間いるま和田わだ右衛門えもんと申すサムライがいた。この物語は、彼が仕官を辞めてのんびりしていた頃のことである。
 ある七月の暑い日に、川越から秩父へ旅立ち、夜に入って涼しくなって荒川を渡たり、向こう岸に到着した。ここで遅れた下僕・三太を待っていた時のことである。
 風が強く吹いていた。せせらぎの音も大きく、普段なら聞こえる筈の虫のもなかった。
「これでは三太の足音も聞こえんな」
 ひとりつぶやく和田右衛門は、近くで風に揺れるはりつけの木を見た。
「死んでもまだ晒されておるのか。無惨なことじゃ」
 河原の処刑場に、逆さに磔された女の死体が放置してあった。男の場合と違って、女の時は足が開かないようにくくられていた。
 逆さ磔は見せしめの刑罰である。中でも最も残酷なものとされ、江戸時代のはじめまではあったものの、それ以降はあまり見られなかった。
 逆さに磔にされた者は、頭に血が昇り鬱血うっけつして腫れ上がり、目は飛び出して、口や鼻から血を吹きながら、三日も苦しみが続いたと言う。死んでからも死体が晒され続けると言う見るも無残な仕打ちであった。

 和田右衛門は、着物がれる磔の影を見て、
「いかなる罪人つみひとか、哀れなものじゃ」
 と、両の手を合わせた。すると磔女が動いた。風に動いたようには見えなかった。音もせず、したとしても風の音で分からなかっただろう。ただ、磔の木から逆さまのまま降りて来て、愚かにも逆立ちしたままの姿で、両手を器用に使って歩いて来たのである。
 女は確かに死んでいた。目は飛び出して、折れた首の骨とともにブラブラしていた。くくらない髪の毛が地面に引きづられ、時々、何かに引っかかるのか、頭が引っ張られては、むりやり元に戻していた。その姿は怖ろしくもあり、少し滑稽でもあった。
 近くまで来た逆さ女を、和田右衛門はキッと睨んだ。
「おのれ、何奴なにやつ。迷い出たか?」
 刀に手をかけて叫ぶと、女は飛び出した目玉を和田右衛門に向け、ボソボソと答えた。
「わらわは未練をこの世に残す者。祟りなどではあらねば、聞き給えかし」
「化けて出たものであろう」
「死して成仏出来ぬ身を哀れと思って、まず、聞き給え」
 和田右衛門は豪胆なサムライであった。目の前に明らかな亡霊が出て来たとしても平気の平左である。
 和田右衛門は、手をかけた刀の鯉口を切って叫んだ。
「そなたは化け物か?」
 もし化け物なら退治しなければならない。それがこの世に武士とし産まれた者の宿命であった。
 女は首を左右に振り、
「いえいえ、恥ずかしき姿なれど、わらわは化け物にはあらず。亡霊の片端かたはしに属するもの……」
 和田右衛門はその言葉に少し安心した。


  二

 相手が亡霊ならば退治する必要などなかったからである。
「ならば、申すことを聞いて使わす。さっそくに申してみよ」
 和田右衛門が告げると、磔女は喜んで、
「他には頼む人もなし。この川を渡り、向うの家の門に貼っている祈祷札きとうふだめくり給え」
 と言った。
 不思議なことに激しい風の音の中で、女の声だけがハッキリと耳に届いた。しかも、女の口が動いていない様子に、和田右衛門はいよいよ怪しんだ。だからと言って驚きはしなかった。
 和田右衛門は顔をしかめて、
「今、向こう側から、せっかくこの川を越えて来たばかりであると申すに、戻ることはむずかしい……」
 と頼みを拒んだ。それから、
「今に、誰か向こうへ行く者が来るであろう。それに頼めば良い」
 と突き放すと、女はポロポロと大粒の涙を流した。
 逆さまになったままの磔女が申した。
「世の人は、わが姿に怖気おじけ付き、近付くこともない。言葉を交わすべき頼りもなし」
 女の涙は頬を伝うことなく、逆さになったまま額を伝い、髪を濡らしていった。
 和田右衛門は、もうその場を去りたかったが、無下むげに突き放す訳にもゆかず、
「そなたが化け物のような姿をしておるからであろう」
 と、呆れていた。
 女は逆立ちのまま、
「かような仕打ちで死んだとあれば、仕方なきこと。苦しみに満ち満ちた刑罰であった」
 女の涙が、目玉から出るものなか、それとも目の穴から出るものかも分からなかった。血と言わず、汚い汁と言わず、あちこちから流れ落ちるものがみ出ていたのである。
 女は、口を動かさないまま言葉を続けた。
「あまつさえ、死んで後まで晒されるなど、死に勝る恥辱ちじょく
 和田右衛門は、死に恥の辛さを良く知っていた。武士の身分にある者は、皆、生き恥を嫌う。だが、死に恥はそれに勝る屈辱であった。
 黙ってしまった和田右衛門に、女が言葉を続けた。
「人として産まれながら修羅の道に長く沈む苦患くげんを、どうか救い給え……」
 泣き崩れると、逆さの頭が地面について泥まみれになった。
 和田右衛門も、いたく哀れに思い、
「では……」
 と、背中を向けてしゃがむと、女は嬉しそうに逆立ちをやめ、身を取り直して和田右衛門の肩におぶさった。
 女の足は荒縄で括られたままであった。このままでは歩けもしまいと思っての、せめてもの優しさであった。
 背負った体は妙に冷たく、身の毛もよだつ思いがした。あちこち当たると、ゴツゴツとして固く軽かった。しかも、嗅く穢らわしい乱れ髪が、和田右衛門の顔を覆っていたのである。不快さに耐えながらも和田右衛門は不吉な夜の川を注意して渡ることとなった。
「いったい、何の因果であろう?」
 和田右衛門は歯を噛み締めて耐えながら、我慢して夜の川を渡っていた。
 まだ、風が強かった。このまま足をとられて屍人しびとと流されては、末代までの恥であろう。そのことを考えると、しっかりした足取りで、一歩一歩、確実に歩むしかなかった。
 川は浅く、せいぜい腰くらいの深さであろう。着物のすそまくり上げれば濡らすことはない。


  三

 だが、濡れることに気を取られて足を滑らせば、溺れ死ぬのは確実であろう。和田右衛門が用心しながら川の真ん中あたりにつくと、下僕の三太が向こうから歩いて来るのが見えた。
 三太は、着物を畳んで頭に乗せ、右の手で押さえながら、下帯だけの姿で提灯ちょうちんを携えていた。三太が風に揺れる提灯を振り、嬉しそうに近づいて来た。
「へぇ、旦那さま、お迎えに来ていただけたので?」
「いや、急な用事が出来て、戻るところじゃ。先に渡って待っておれ……」
「へぇ、その背中の女性にょしょうは……ひぇ」
 三太は悲鳴をあげると、その場でガタガタと震え出した。
 和田右衛門が、そんな三太を見て申した。
「怖がるものではない。ただの亡霊であるぞ」
「ぼ、亡霊……化け物?」
「化け物ではござらぬ。これでも哀れな亡霊であるぞ。心配するでない。祟りなどはない故」
 しかし三太は、座り込んで胸まで川に浸かってしまった。水面に着物が流れるのを端をくわえて押さえていた。
 夏とは言え、夜の川は冷たかった。三太のように胸まで水に浸かると、内臓まで冷えることだろう。
 和田右衛門は、
「そこでは風邪をひくであろう。風邪は万病の元ならば、今度はそちが亡霊となっては笑うに笑えぬ。はやく、向こう岸に向かい給え」
 と三太に告げると、ゆっくりとした歩みで、こちらの岸へと向うのであった。三太は、もう何が何だか分からなくなって、和田右衛門の指示に従うしかなかった。ゆっくりと、震える足を立て直して、着物を引きづりながら岸へ向かった。

 和田右衛門は、やっとの思いで岸につくと、背中の亡霊の申すまま、とある家の前に着いた。家の門には、祈祷札きとうふだが貼られていた。
 亡霊に言われるままに、和田右衛門が門の札をめくると、この女はケタケタと笑いながら門の暗闇に消えた。すると、たちまちに家の中が騒がしくなった。和田右衛門が様子を眺めていると、女の生首をくわえた磔女が、足も動かさず、先程の川を渡って行くのが見えた。水面に浮かんだまま、ゆっくりと動いていたのである。
「何だ、ひとりで渡れたのでござるか」
 和田右衛門は興覚めしながら、また、慎重に川を渡り岸へ戻って行った。
 岸には三太が火を焚いて、着物を乾かし、ずぶ濡れとなった体を温めていた。夏とは言え河原は寒かった。すでに風はやんでいて、煙が真っ直ぐ昇っている。風の音もおさまり、あたりに虫の音《ね》が響いていた。
 三太が、
「お帰りやす」
 と笑っていたら、突然、白目を向いて気を失ってしまった。
 パチンと焚き木が弾ける音がした。遠くで犬の吠える声がする。
 和田右衛門が首を傾げて振り向くと、最前の磔女が後ろに立っていた。
 磔女は喰い千切られた生首をくわえたまま、
「お陰さまで、望みを遂げるとことが出来申した。ありがたきことは、言葉にも尽くし難し」
 と頭をさげた。やはり口は動いていなかった。
 それから、ことの経緯いきさつを語りはじめるのであった。磔女は口を動かさずに語り続けた。風に揺れる髪の毛を邪魔ともせず、口には女の生首をくわえたままであった。


  四

「わらわは、もと、かの家に召し使われた者であるが、女家主にあるじと心をかよわしたと疑われ、無実の罪に身をおとされ、かかる苦しみの死を迎えた者でありまするぞ」
 よよと泣き声をあげた。
 和田右衛門も哀れに思い、
「それは無残な……」
「来世に罪を植える深い恨みを晴らせたこと、浅からぬご恩と思いまする。わが一念の力をもって、ご返礼したく思いまする。なんぞ望みを申されよ」
 と、申した。
 しかし、和田右衛門は、
「拙者は、亡霊の礼を受けるつもりは、しかも頼まれたとは言え、人の命を奪ったとあれば、罪の深さはいかばかりであろう」
 と少し怒っていた。
「恨みを晴らすことは悪と?」
 磔女は目をむいた。
 和田右衛門は、
「覚悟をした者ならば、それは仇討ちにも通じるであろう。だが、しかし……」
「しかし?」
「命を持たぬ亡霊が、生きる者をあやめたとあれば、話は別」
「どこが違うと?」
「死んだ者が生きた者を殺してゆけば、この世は、たいへんなことになるであろう」
「死んだら恨みは晴らすなと?」
「いや、そうは申しておらぬ。ただ、人をあやめる亡霊に、知らなかったとは言え手を貸したことに、いきどおりを感じておるだけじゃ」
 亡霊は黙っていた。
 和田右衛門は、自分の頭をでて、
「これを発心ほっしんとして、世を捨て、その者の菩提を弔らおうと思ってござる」
 そう申すと、亡霊がくわえる生首に両手を合わせた。それから、少し考えてつぶやいた。
「身共には恩義ある主人あるじがおる。もし、汝にまだ恩返しの気持ちがあれば、その御方の武運を守ってくれ……」
 すると、亡霊は、
「かしこまってござりまする」
 と、深々と頭をさげ、かき消すように姿を消した。
 残された和田右衛門は、三太に気付け薬を与え、色々と介抱して、ほどなく三太は意識を取り戻した。
「だ、旦那? ここはどこで?」
「三太、しっかりしろ。亡霊はもうおらぬ」
「亡霊? なんのことで?」
 三太は亡霊のことを、すでに忘れている様子であった。
 和田右衛門はそれより剃髪ていはつし、染衣そめごろもの身となったが、三太も僧侶となることを望み、ふたりで旅をすることとなった。一年の間、津の国・長柄の片隅にしばし行脚あんぎゃの笠を脱ぎ、和田右衛門は祖寛そかん法師と名乗り、三太はまだ見習いの寺男として死んだ者の菩提を弔いながら歩き続けた。

 それから何年かしてのことだった。かの島原の一揆の時、ひとりの備えの武士の旗に、逆さ磔の女の影が写ったと言う。この旗の武士が一番の手柄を立てることとなった。やがてその武士は川崎の城主となった。彼の子孫は、今の世に至るまで端午ののぼりにこの旗を飾ると聞き伝える。かの磔女のように、世に幽霊と言うものがあるのは、嘘偽りでもないと思った。
 この幟に逆さ磔の影がさしたサムライこそ、後に川越城主となる知恵伊豆こと、松平伊豆守いずのかみ信綱のぶつなである。彼が磔女の由来を知っていたかどうかは分からない。しかし、磔女の一念と和田右衛門の願いによって、武運を守られたことだけは確かである。『一夜船』より。〈了〉

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