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近世百物語・第九十四夜「播磨御式神内」

 播磨はりま御式神内こしきうちは播磨陰陽道で使う武術です。この武術は霊術とセットになっていて、われわれ播磨陰陽師は武術を大切にしています。それは武家の子孫だからであり、霊的なものを扱うには武術が欠かせないからです。
 私は、幼い頃から柔道や合気道を学び、播磨御式神内の伝承を受けました。子供の頃から大東流合気柔術も学びました。播磨御式神内は合気道と同じ流れをくむ武術なので、合気道、大東流合気柔術、播磨御式神内と古くなるにつれて攻撃的で、しかも、少しづつ技も違っていて面白いです。
 昔はたくさんの強い侍がいたので、彼らを従わせるためには強くなければなりませんでした。
——いくら霊術がどうこうとか、不思議な術を使うとか言っても、数人で取り囲んで後ろから斬ってしまえば死ぬだろう。
 と考える侍が多かったようです。今も昔も変わりませんね。実力だけがものを言う世界なのです。
 そして、
——いくら怖ろしい播磨陰陽師とは言え、われらの敵ではないな。
 と、たかくくっていた田舎いなか侍たちと何度か衝突したようです。
 そのたびに、
——怖ろしい播磨陰陽師たちが来る。
 と伝説が残されてゆきました。
 播磨陰陽道には、
——予め考えられるトラブルはすべて予測して対応する。
 と言った思想があります。ですので、最初から数人で取り囲み後ろから斬って来るような敵を、素手で倒す種類の武術を伝えているのです。しかし、その多くは手品か催眠術のような技です。武術的な運動能力を必要とする技が、いくつか含まれているだけなのかも知れません。
 にわか霊能者の皆さんの中には、
「霊能者や陰陽師には武術は必要ない」
 と言う人がおります。それでは、たとえば狐が憑依した人をどうやって祓うと言うのでしょうか?
 憑依されたかどうかは別として、凶暴で残忍な性格に変貌する人がいます。それは二重人格等の精神病理学の世界かも知れません。でも、それらの人はとにかく力が強いのです。筋肉の限界まで力を出し切る傾向があります。そして、慈悲も持たず極めて凶暴です。そんな相手が数人いたら、祓うとか言ってる余裕もなく物理的に命が危険にさらされます。そう言った危険を伴うのが祓いの現場なのです。
「今日は相手が凶暴だから祓えない」
 など、口が裂けても言えません。また、普通の腕力では太刀打ち出来ないほど、憑依された人間は強くなっているのです。
 霊の仕業であろうと、それが精神病理学的な現象であろうと、戦わなければならないことに変わりはありません。それらに対応するために、先祖たちは子孫に播磨御式神内を残してくれたのです。
 この武術は手足を自在に動かすことにこだわります。手足が自在に動かなければ、心を自在に動かせるなど幻想に過ぎません。そして、心が自在に動かなければ、やがて手足もその自在を失うのです。
 つまり、
「人の肉体は、心の一部であり、そして、心も肉体の影響下にある」
 と言うことです。

 ある時、憑依されたか、狂ったかした人が、突然、暴れだしました。取り押さえると息が止まっています。しかし、そんなこととは無関係になおも暴れているのです。息をしないものが暴れるのは不気味なことです。
 播磨御式神内の中にも、こちらが息をせず、しかも、意識を失った後、手足だけが独自に動いて戦うと言う種類の技があります。
 この時に戦うのは、自分の防御のためですが、ただ、息をせずに暴れる人間はとても厄介です。自分の筋肉が限界を超えて、筋を痛めても無視して動くのです。これは、いわゆる〈火事場の馬鹿力〉です。火事場の馬鹿力なら火事の時にだけ活用して欲しいものです。その時は、相手の首を折りそうになって、その痛みで正気に戻ったようなので、殺さずに済みました。価値のないことで人を殺し、投獄されるか死刑になるとしたら、武術を伝えた先祖たちが浮かばれません。

 また、ある時は、これもやはり憑依された人が、私ののどに噛み付こうとしてきました。この時は、相手の鼻先で拍手かしわでを打って、ひるんだすきに後ろにまわり、そのまま取り押さえて祓いました。これはどちらかと言うと、ただの憑依ですが、
——他の霊能者が祓う時は危険はないのだろうか?
 と思います。祓いはそれほど危険な現場なのです。
 テレビで見る種類のものは、危険性の低い現場を祓っているように見えます。われわれなら一瞬で終わるような祓いを、テレビでは永遠とやっています。
——やっぱりあれは、そう言う演出なのかも知れない。
 と、時々、テレビの心霊特集を見て思うのです。いちいちテレビの撮影ごときで人が死んだりしていては洒落にもなりません。

 以前、播磨御式神内を教えるセミナーをやっていました。やはり霊力の強い人はその技も強い傾向があります。また、良く覚え、活用されているようです。〈活用〉と言うのは、どこかで誰かと戦うと言う意味ではありません。播磨御式神内は、自分の心を強くするために、そして霊力をアップするために活用することが出来るのです。作られた最初から播磨御式神内の目的はそれでした。人と戦うことは二次的な物事に過ぎません。
 播磨陰陽道には、

——人と戦うのは敵となる者の心の内に生まれる悪い魂を祓うことである。

 と伝わっています。ですので、実際に戦わなくても、戦う前に祓ってしまえればそれで良いのです。そのためには、自分の中から来る怖れと自ら戦って、それ以上、不安や恐怖が強くならないよう、そして冷静に物事を判断出来るように、体を鍛え心そのものを鍛えてゆくのです。
 人は腕の付け根の筋肉を鍛えるだけで心は強くなります。これは人がまだ、野生の生き物だった頃のなごりです。四つ足の生き物だった頃、人の祖先は狩りをして生きていました。やがて、二足歩行となり両手を自由に使えるようになったため、文明を築きましたが、それと引き換えに心は弱くなってゆきました。狩られる側になったのです。人は食物連鎖の頂点にいると思われています。しかし、それはあくまでも弱い生き物と比較してのことです。虎や熊のような凶暴な野生生物の前では、人は狩られるしかないのです。そして、人は霊的な食物連鎖の世界では常に狩られる側にしかいることが出来ません。あなたも心を強くしたければ、木刀のような物を振って、腕の付け根の筋肉を鍛えてください。体感出来れば分かると思います。

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