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御伽怪談第三集・第七話「唐津の水妖怪」

  一

 正徳(1711)の頃のことである。九州は唐津の城の裏壕うらほりに化け物が出ると噂されていた。出会った者は、皆、気を失なうため、ハッキリと見た者はいなかった。どのような化け物が出るのかすら分からなかった。さらに悪いことに、化け物に出会った者は、皆、記憶を失っていた。サムライの多くも被害に合ったと言うが、情けない限りである。サムライとして生きる者が、たかだか化け物に驚いて、すごすごと尻込みしたのである。町人の間にもそのことは知れ渡っていた。笑われていたのである。これは武士として護憲に関わる物事だと、城でも対応策が話し合われるようになっていた。しかし、雲を掴むような化け物のこと、大した結論も出ないまま無駄な時間ばかりが過ぎて行った。
 唐津の城は別名〈舞鶴城〉と呼ばれるほど美しい城であった。唐津と言えば焼き物が盛んに作られた土地である。背面が海に面しており、大きな船が出入りして、唐津焼きで他藩と貿易していた。その城の裏に怖ろしい化け物がいるとの噂は、城にとってばかりではなく、唐津全体の問題であった。交通の要に誰も近づかないのである。化け物を怖れ、わざわざ遠回りして行く船や人々の姿がたえることはなかった。
 その頃、唐津城の殿様は土井侯どいこうの代であった。儒学の三宅みあけ尚斎しょうさい先生の高弟に、味地あじち茂兵衛もへえと申す豪胆な儒学者がおり、唐津城に仕えていた。

 ある初夏のこと、藩邸を歩いていた茂兵衛は同藩のサムライたちが噂するのを聞きつけた。
 その中のひとり片岡氏が申した。
「それはそうと、裏の噂はご存知か?」
 その言葉に春木氏が震えて答えた。
「あぁ、み、耳にしてござるが……」
 震えながら答えた春木氏は、怖い話が苦手であった。裏の……と言われただけで、城の裏手に河童が出る噂を想い浮かべた。誰も正体を確かめた訳ではなかったが、水に出る化け物は河童であろうと思っていた。
 片岡氏は、春木氏が怪談話を苦手としていることを存じていた。しかし、河童などどこにでもいるものであるし、たいした噂でもないと思って話したのであった。
 ふたりの会話を耳にした儒学者の茂兵衛は、ふと、首を傾げた。
「何のことかや?」
「あっ、味地殿でござったか」
 ふたりとも頭をさげた。
 片岡氏が、
「味地殿は噂をご存知なかったでござるか?」
 その言葉に茂兵衛が眉をしかめた。
「存ぜぬが……どのような噂であるか?」
「裏のほりに、怖ろしい化け物が出ると、もっぱらの噂でござる」
 春木氏が笑った。
「河童でござるよ」
 片岡氏が申した。
「いや、河童なら、見た者が記憶を失うほど、怖ろしくもないであろう」
 その言葉に、茂兵衛が思わず笑って、
「河童にしろ、なきにしろ、化け物など虚言すらごつやろ」
 茂兵衛は儒学者であった。当時の最高の学びを教える儒学者としては、古い迷信などに惑わされる訳にはゆかなかった。しかも、迷信を聞くと、あからさまに唐津弁が出てしまうのだ。
 茂兵衛の目がふたりを睨んでいた。
 片岡氏らは先祖代々お城に仕える家柄である。彼らは江戸勤めの経験もあって城内で唐津弁を使うことはなかった。それに茂兵衛に睨まれたところで気にしなかった。


  二

 家柄の違いからか、心の中では茂兵衛を相手にしていなかったのかも知れない。
 片岡氏が続けた。
「出会った者もおおござるそうじゃ」
「み、皆、気を失って……記憶すら消えるそうでござる」
 すると、やはり茂兵衛がふたりを非難した。
「ぞーんわく(腹が立つ)。オイたちの城に化け物の噂を振りまくなど、な、なんたることか……」
 春木氏が焦って言い訳した。
「われらが振りまいた訳では……」
「か、勝手に噂されてござるもので……」
「こざにっかぁ(小憎らしい)。君侯くんこうのまします城に怪しげな噂なぞ、まったく、臣下としても恥ずべきこと」
 茂兵衛はもともと医者の小倅の生まれであった。努力して学者となり、苗字を賜って、武士の上に立てる身分となった。父は医者と言ってもただの町医者。幼い頃から貧乏暮らしをしていたのである。
 一方、片岡氏たちは、生まれながらの武士の身分。努力しなくても将来が保証されていた。子供の頃に少し頑張って、藩校で良い成績さえ残せば、あとは適当に生きてゆける身分であった。もちろん飢えた経験などなく、苦労や努力など一度もしたことはなかった。
 茂兵衛が叫んだ。
「そこまで申すなら真相を確かめるべし」
 春木氏は怖れて、
「いや、何も申したつもりは……」
 などと言い訳していたが、結局、三人で噂の真意を確かめることとなり、ほりへと向かった。
 唐津城の裏にある堀とは名ばかりで、ほとんど大きな川であった。しかも海に面した唐津城のことである。どこまでが川で、どこからが海なのかも分からなかった。その一角にあって、ひときは陰気な場所に、たぶん化け物が棲んでいるのだろうと、茂兵衛たちは考えていた。それは正解である。日の当たる陽気な場所に棲む化け物などいる筈もないのだから。堀はいかにも人家が遠くへだたっていて、もとより化け物を怖れてのことか、行き交う人もなかった。昼なお暗く、いかにも何か出そうな怖ろしげな雰囲気であった。
 空はあざやかに晴れて、蝉が激しく鳴いていた。柳の木が暗い雰囲気を醸し出しているのか、あたりは陰気な臭いばかりがした。
 茂兵衛は近く適当な石を見つけて腰掛けた。何本かの柳の木が風に揺れていた。春木氏は離れた柳の後ろに隠れ、大声で、
「せ、拙者は、実は苦手でござる」
「いくじがないのぉ」
 片岡氏が笑った。
「春木は、幼い頃から怖いものが……しかたないでござる」
 茂兵衛も呆れて見ていた。
 しばらくは何事もなく、蝉がしきりに鳴いていた。やがてのことである、黒雲が空を覆い、堀の水が波立って渦巻いた。その激しく渦巻く真ん中から、黒く大きな人影がゆっくりと立ち上がったのである。
 茂兵衛が叫んだ。
「出たな化け物」
 その人影は、大きいこと以外に特に変わったところはなかった。ただの黒い影にしか見えなかった。皆、不思議に思い首を傾げた。
 春木氏が遠くから震えながらつぶやいた。
「ば、化け物と申すものは、ただの黒いものでござるか?」
「目鼻立ちはおろか顔すらハッキリとは……」
 片岡氏も笑っていた。
 その時である。近くでカラスがギャーと鳴いた。


  三

 黒い大きな人影からガハハハと笑い声が響いた。声はいつまでもコダマし、その不気味なことと言ったら比べるものもなかった。
 次第に黒い顔の中心から、目鼻立ちがハッキリとしてくると、顔の色は藍より青く、眼は大きく光って人を射るように茂兵衛たちに向けられていた。
 体が現れると、袈裟を着た僧侶のように見えた。背丈は異様なほど高かった。その化け物が、茂兵衛たちを睨みながら見下ろしている。しかも、水の上に浮かぶように立っているではないか。
 片岡氏は腰が抜け、歩くことも出来ずに、
「助けて……」
 と繰り返していた。
 離れている筈の春木氏が一番驚き、すでに気を失って泡を吹いて倒れていた。
 そんな中で、茂兵衛はさすがに気丈な者である。化け物を睨み返して怒鳴った。
「ぞーんわく(腹が立つ)」
 茂兵衛は少しも怖れず、ゆっくり立ち上がると、鼻で笑った。
「ふん、高の知れた河童風情が何するものぞ」
 化け物は頭だけを大きくして茂兵衛を睨んだ。額は柘榴ざくろのようにはち切れんばかりで不気味であった。しかも陰気な臭いがした。
 光る目の中から目玉だけが飛び出して、触手のように伸びて来ると、片岡氏はもう声も出せず、春木氏をチラリと見た。
「拙者も気を失いたい……」
 小声で弱音を吐き、
「くわばら、くわばら……」
 と祈り続けた。
 茂兵衛が、
「それは雷避けじや」
 と、笑い、化け物を見返した。
 化け物は茂兵衛が驚かないことに腹をたてたものか……様々に力を尽くし、叫んだり、顔を近づけたりした。その叫び声は空気をうねらせた。化け物は、もとより変化へんげの物である。どのような怖ろしい姿にも変わることが出来た。ただし、人の心を読んで、その者が最も怖れるものにしか変化することは出来ない。怖いものがなければ、何にもなれないのである。
 化け物は、耳まで裂けた口で怖ろしい牙を噛み鳴らした。ガチガチと音がするたびに、雷が光った。頭がパックリと割れ、傷口からたくさんの目玉が出ると、それらは柘榴のように真っ赤であった。そして、長い舌を蛇のようにヒョロヒョロと操って、茂兵衛の体を締め付けた。しかし、どんなに迫力のある姿に化けたとしても、茂兵衛には通じなかった。
 茂兵衛が、馬鹿にするように鼻で笑って、涼しい顔で言い放った。
「しょせんは、ただの迷信。幻のごときものなど驚くほどのことでもござらぬ」
 そして大笑いして話を続けた。
「見せ物小屋の方が面白いであろう。怖れるほどもござらぬ」
 この言葉には、さすがの化け物も困り果てた。目玉をさげてシュンとした表情となり、肩を落としてしまったのである。
 化け物は、それでもしばらく化けてみせた。顔から炎を出して、茂兵衛を炙ってみたり、何匹もの蛇を吐き出したりした。しかし、茂兵衛は涼しい顔のまま、
「またまだでござる」
 と笑っていた。
 やがて化け物も諦めたのか、氷が溶けるごとく、あるいは涙に流れるがごとく、だんだんと消えて跡形もなくなってしまった。
 茂兵衛は震える片岡氏に声をかけた。
「もう、終わったでござる」
 片岡氏は、えっ? と首を傾げた。


  四

 片岡氏はあたりを見回して、ゴクリと生唾を飲んだ。
「さ、さっきのは、いったい?」
「何を見てござるか?」
 片岡氏は両手を広げ、足で何かを蹴るような仕草をした。
「たくさんの化け物が、あたり一面に湧き出して、春木氏の生首で蹴鞠けまりを……」
「ほぉ、生首をな」
「はい、可哀想なことに春木氏は死んでござる。化け物め、何たることを……」
 茂兵衛は近くを指差した。
「ほれ、春木殿は生きてござるぞ」
 春木氏がふたりの近くへよろよろと歩いて来た。また、蝉の声が響いた。
 片岡氏が春木氏に叫んだ。
「春木氏……」
 呼びかけられた春木氏は、何だか狐にでもつままれたような感じで、動きがぎこちなかった。少しして、ハッとして片岡氏に答えた。
「おぉ、片岡氏。先程の嵐はものすごうござったのぉ」
 片岡氏はその言葉に首を傾げた。
「はて、嵐など……それより化け物は見たか?」
「化け物? 何のことでござるか?」
 春木氏は納得しない様子で首を傾げていた。
 茂兵衛が笑った。
「拙者も化け物を目にしたが、あれは幻のごときもの」
 春木氏が調子良く笑った。
「残念、拙者も化け物を見たかったぞ」
 片岡氏は、まだ納得しないのか、しきりに腕組みをして首を傾げた。
 茂兵衛はふたりに強く申した。
「もし、本当に化け物がいたとしても、もう出ることはあるまい」
 そして大声で笑った。ふたりも何だか分からないまま一緒に笑っていた。
 それより後は、茂兵衛の申した通り、化け物が出ることはなくなった。しかも誰にも祟りすら起きなかった。片岡氏らはことの次第を城へ報告し褒美を貰うこととなった。
 しかし、茂兵衛は、
「城に仕える者としてすることをしたまででござる」
 と申して辞退したのである。
 おぉ、これこそ真の学者の姿と申すべき。迷信に惑わされることなく、真実を追求し、あまつさえ退散させるとは……。『思斉しさい漫録まんろく』より。

 この化け物は驚いた者から魂の一部を吸い取ろうとして脅かしていた。化け物の行動の中には、そのようなものが良く見られる。驚くことを、古くは〈魂消たまげる〉と言う。これは江戸弁で、正確には〈魂上たまがる〉と言う。
 この言葉は気が頭に上がることを意味しているが、その時に魂を吸われるのである。しかし、茂兵衛のように、少しも驚かなくでは、魂の吸い取りようもない。人を驚かすにはそれなりの努力が必要である。驚かない者を脅しても魂を回収することは出来ないので、化け物もさぞかし困ったことだろう。
 化け物が見せる世界は、人によって見るものの違う世界である。今回、片岡氏も茂兵衛も化け物を見ていたが、その内容は微妙に違っている。また、春木氏に至っては、化け物すら見ていない。忘れてしまったのかも知れないが、記憶していないのである。
 化け物は、人の心に取り憑いて、幻を見せる種類の術を使い人をたぶらかす。だから人ごとに見るものが違う訳である。何人かで同じ恐怖体験をしても、意見が異なるのは、このためである。〈了〉

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