パワハラやセクハラ、暴力の構造について

 とっくの昔に、か弱い女の子じゃなくなっていたことに今気づいた。私は今年24歳になる。まだまだ自分では未熟なつもりでいるけれど、10代の子にとって私は年長者であるというだけで脅威たりうる。

 子供の頃、高校生は大人だと思っていたし、高校生の頃はもっと歳を重ねれば自動的に大人になれるものだと思っていた。逆に言えば、ただ歳をとったというだけで、幼い彼らにとって私は大人で、正しく、力を持った存在なのだ。事実としてそれほどの責任ある立場にいながら、これまで自覚がなかったことが恐ろしい。

 いつまでも、母の漕ぐ自転車に乗せてもらっていたお嬢ちゃんではいられなかった。守られるべき未成年の制服姿もとうの昔に失った。自分にそのつもりがなくても、こわくて強い大人に見えるようになってしまった。私たちは、男であるだけで女を怯えさせ、大人であるだけで子供を萎縮させる。そんな風に生まれたのは、私たち自身のせいではないのに。

 私たちは、例え社会的弱者という肩書きをどこかの側面に持っていたとしても、誰かの目には強者に映る。100%の弱者も少数派もこの世には存在しない。全ての人が常にどこかの面で助けを求めているし、同時に常に他者を脅かしている。セクハラやパワハラや、顔見知り同士での性犯罪が人の関心をこれほど集めているにも関わらずなくならないのは、規制の動きが強くなっているからではない。精神的DVやセクハラ・パワハラ加害者、そして多くの性犯罪者たちに足りなかったのは、自分が他者を威圧しうるという可能性への意識だ。

 暴力の構造上、「暴力的でないようにしよう」と思っている内はだめで、「自分は自分の力ではどうしようもないことのために暴力的であるし、加害しているそのときに気づくことはできない」ということを自覚しなければならない。

自分が強いということを理解していなければ、誰でも加害者になりうる。強者の持つ対等の意識は傲慢だ。対等なものか。自分が対等に振る舞っているつもりだから対等でいられているだろうというのはあまりにも、他者の目線を欠く。

 しつこいようだけれど「対等であろう」と言いたいのではなく、どう頑張っても対等であれない事実を意識しようと呼びかけたいのだ。

 後輩に対して、先輩後輩は気にしていないよと寄り添おうとしたとする。なんでも言い合える関係だよねと互いに了承があったとする。その上で、立場が違うことによる怯えが相手の潜在意識から拭えなければ?相手が自分の意思より場の空気を優先する性格で、実は傷ついていたら?対等なつもりでいたら、そんなことにも気づけない。力関係が不均衡である場面はいくらでも想像できて、恋人同士なら相手の方が自分に惚れているときは自分の意見が通るに決まっている。過剰同調性のある人には、期待を匂わせるだけで圧力になる。相手の感じ方だから、自分がどういうつもりで接するかは関係ない。相手の性格や感じ方を矯正する必要があると思うなら、あなたは何も理解しておらず、相手の尊厳をいっそう踏みにじっているとしか言いようがない。相手の心はコントロールできないから、構造を認め受け入れるほかない。私は、これまでどれだけの人の尊厳を殺してきたのだろうか。

 いつまでも未熟なつもり、子供のつもり、立場が下のつもりでいたら、人を傷つけていることにも気づかない。きっと、自分が歳を重ねることによって、他の人を萎縮させうるほどに強くなってしまったと気づくことが、大人になるということだ。自分の言葉が子供にとって疑いようもなく正しく、ときに強迫的な意味まで持ちうると気づくことが、親になるということだ。しかし、その心構えができているかどうかに関わらず、年を取ることはできるし、子供を産むこともできる。私にはこのことが恐ろしくてたまらない。

 傷つけることへの怯えと、自分が暴力の構造の中にいて逃れられないことへの気づきがあれば、生きて人と関わることは悲しい。もう、誰かを脅かすことを恐れずに純粋に楽しく生きたくなんかない。そういう前向きさなら要らない。暴力行為の加害者であることに目をつぶるくらいなら、この悲しみの純度をどこまでも高めて、消えてしまったほうがましだと思うのだ。


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