『哀愁しんでれら』が私達に投げかける、生々しいほど不快な問いについて
『哀愁しんでれら』は現代版シンデレラストーリー?
不幸な人生を歩んできた女性が、理想の白馬の王子様と出会い、恋に落ち、結婚し、幸せに暮しました。めでたし、めでたし-このようなお伽話は、現代では女性を男性に従属した存在として描き、差別的であると考えられ、通用しなくなってしまった。では、どのような女性の物語なら許されるのだろうか。この問いに対するフラストレーションをありったけ詰め込み、グチャグチャに潰した状態のまま、観客に投げかける。『哀愁しんでれら』はそんな映画だ。
親のようにはなりたくない、誰もが大なり小なり一度は思ったことがあるのではないだろうか。主人公である小春は、幼少期に自分を捨てた母親に対するこのような思いが強過ぎ、彼女に呪いのようにつきまとっているのだが、自覚はないようだ。そんな彼女の前に現れるのは、「白馬に乗った王子様より、外車に乗ったお医者様」である大悟である。
私が困惑した理由と小春の人物像について
私は戸惑ってしまった。小春が自分の母親を乗り越えて行く過程が描かれているのではないため、この映画をどのような態度で受け止めれば良いのか、迷子になってしまったからだ。確かに小春は救いようがないほど不幸な女性だ。彼女の祖父が脳梗塞で倒れたので、病院に連れて行くために父は飲酒運転をし、事故を起こす。彼女と妹は、火の不始末により、父が経営していた自転車屋の店舗部分である、自宅一階が燃えてしまったことに気づく。小春は行くあてがなくなり、彼氏の家に泊まろうとするが、自分の先輩と浮気しているのを見てしまう。この冒頭だけでも、不幸はあまりにも連続して彼女に降りかかり、観客に1つ1つ消化する余裕を与えない。もはやあまりの急展開ぶりに笑いそうになるほどである。追い討ちをかけるように、どこかコミカルな挿入歌が流れる。この映画は観客に小春を可哀想だと嘆くことを、求めていないのだ。
さらに、小春に共感し、彼女の幸せを願う隙さえ与えない。母親のようになりたくないと思うきっかけとなった彼女の境遇は、充分理解できる。しかし、自分の思う、親のあるべき姿を仕事でも私生活でも他人に押し付け、母親への嫌悪感にも関わらず、結婚に希望を見出し、血のつながりのない大悟の娘、ヒカリの母親になろうとする様子は、その浅はかさに強い憎悪を抱くほどである。
大悟について
また、小春を自分のペースで支配していく大悟にも共感の余地はない。彼が小春に惹かれていく様子の描写が不足しているのだ。大悟は、41歳である自分の年齢を理由に、交際期間がほぼない状態で小春にプロポーズする。突然、シンデレラが王子様と踊るシーンを彷彿とさせる音楽に合わせて、大悟、小春、ヒカリで踊ると、すぐに結婚式を挙げてしまう。彼の小春へコントロールは結婚を機にどんどんエスカレートし、彼女を自分の理想とする家庭像に都合よく当てはめていることが分かる。
『哀愁しんでれら』=現代の「強い」女性像へのおどろおどろしい問題提起
と、ここで気づいた。どす黒い不快な気持ちを観客に残すことこそが、この映画の狙いなのではないか、と。そうすれば、登場人物の心情を表現しない、チグハグな台詞も、不穏な雰囲気を匂わせる、意味ありげな演出(小春の真っ赤なウエディングドレスや、ヒカリの靴など)も受け入れることが出来るのだ。
昨今の映画では、かつてのプリンセス映画で描写されてきた、白馬の王子様に依存し、従属的な存在であった女性像に対抗するものとして、男性と同じ、またはそれ以上に逞しく戦う女性や、輝かしいキャリアを重ね、仕事と家庭を両立する女性など「強い」女性が描かれてきた。
『哀愁しんでれら』は、そのような「強い」女性像を描く傾向を、嘲笑っているかのようだ。かつては「強い」女性も、白馬に乗った王子様を信じていたではないか、と。だからこそ、小春と大悟は、ある同級生殺しの容疑をかけられたヒカリを守るため、他の同級生全員のインフルエンザの予防接種をインシュリンにすり替え、殺す。さらには、大悟に買ってもらったシンデレラのようなドレスを着た小春が、誰もいなくなった教室で、大悟とヒカリに授業をするという、結末を迎えるのだ。現実世界を舞台としているのにも関わらず、警察車両や、救急車のサイレンは鳴り響かない。あまりにも現実味のないチープさである。だが、『哀愁しんでれら』の狙いが、底のない泥沼のような感情を観客に持ち帰らせ、「強い」女性像に一石を投じることなら、非常に挑戦的であると私は考えるのだ。
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