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"noise in the shadow" 友人の個展を訪ねて

同郷で日本画家の友人が、ロンドンで初めての個展を開催中とのことで、昨日は日中に一人でふらりと、今日は夕方に家族と一緒に、2日続けてロンドン中心部にあるギャラリーを訪ねてきた。

"noise in the shadow"
この個展のタイトルである。その言葉通り、ひとつひとつの作品から、静かに音が流れているのを感じた。風に煽られる和紙の音、筆と紙が擦れる音、顔料を溶かす音、飛び散る音、友人(画家)の息遣いや足音といったような、明確な旋律やハーモニーを持った音楽ではなく、純粋な空気の振動としての音を。

いくつかのテーマに分けて展示してある中で、私はギャラリーの1番奥に並べられた4枚の作品に強く惹かれた。昨日、最初にその絵の前に立ったとき、頬にふうっと風が触れるのを感じた。それは暖かなそよ風ではなく、雲ひとつない夜空に吹いた、冷たいけれど心地良い夜風だった。その感覚を抱いたまま隣の絵に目を移すと、今度はその夜風が、薄い雲を運んで来た。雲の向こうには星の瞬きが見える。雲の流れを目で追っていくと、そこには三日月。冴え冴えとした夜空に鋭く光る三日月は、猫の爪のように私の心を引っ掻いて、何かを伝えようとしている。その何かを掴もうとするのだけれど、掴めない。そうこうしているうちに、月は雲に隠れ、静かに雨が降り始めた。結局、三日月は私に何を伝えたかったのだろうか。そんなことを考えるともなく感じながら、私はその4枚の絵としばらく対峙していた。初めて観た絵のはずなのに、なんとなく前から知っていたような不思議な感覚を抱かせる絵だった。

昨日は、その三日月が私に伝えようとしているものが何なのか、その絵に抱いた不思議な感覚が何なのかがわからないままだった。しかし今日、もう一度ギャラリーを訪れ、同じ絵に再び対峙してわかった。私はその4枚の絵に、白川静氏による"闇"という漢字の読み解きを見ていたのだった。
白川静氏によると、"闇"という漢字は、門構えの中に"音"という文字があり、この"音"は、おとなひ、気配であり、神のおとずれ=音連れ=訪れ、を意味するそうだ。神は夜の暗がりの中、闇の中に、音として現れるのだという。夜は音の世界であり、神の世界なのだ。
私が昨日、強く惹きつけられた4枚の絵を見つめていたとき、夜の暗がりの中に吹く風のうなり、風が揺らす木々の葉音、地面を打つ雨音を聴いていた。まさに、闇の中に立ち現れる音、"noise in the shadow"を、神のおとなひを、その絵の中に聴いていたのだ。
昨日その答えを出せず、今日それに気づくことができたのは、ギャラリーを訪れた時間の違いによるものだ。昨日は昼過ぎに訪問したので、行きも帰りも外は明るかった。しかし今日は夕方17時半頃に訪問したため、既にとっぷりと日は暮れていた。街中のギャラリーではあるけれど、にぎやかな大通りからは一本外れた場所に位置しているため、周りは十分暗かった。その暗さが、昨日の日中にはわからなかった"闇"に気づかせてくれたのだ。

作者自身は、この作品の制作にあたり、白川静氏の漢字の解釈を念頭に置いていたわけではないだろう。これは完全なる私の妄想にすぎない。しかし、こうして観る者に五感で語りかけ、ストーリーや繋がりを想像させる作品であったことは事実である。そうした作品を生み出すことができる彼女の才能を本当に素晴らしいと感じたし、その作品に直に触れる機会に恵まれたことを、何より嬉しく思った。

娘は「抽象画ってよくわからないけれど、この絵は好き。モネなんかよりもこっちの方が断然好き」という感想を述べていた。彼女らしい素直な受け止め方だと思った。そして、娘が一番気に入ったという作品は、均整がとれているようで、絶妙なアンバランスさを持った、1/fゆらぎのような作品で、あぁなるほど、好きだろうな、と納得するものだった。

私は芸術には疎い。良し悪しはよくわからない。しかし、直感的に好き、という作品はある。彼女の作品は、まさにそういう直感的に好きと感じるものだったし、娘にとっても同じだったようだ。
これまで、せっかくロンドンに住んでいるのだし、ゴッホ、モネ、ピカソ、フェルメール、など名だたる世界的名画を見せておこうと、こどもたちをナショナル・ギャラリーなどの美術館へ連れて行ったりしていた。もちろん、今しかできない貴重な経験として、これからもそうした場所へ彼らを連れて行くだろうけれど、そうした有名な作家による作品ばかりでなく、街中にひっそりと佇むギャラリーに展示される市井の画家(と言っては失礼だが)の作品にも、積極的に触れてみようと思った。そんなきっかけを与えてくれた友人に、とても感謝している。