見出し画像

私は、〇〇派

今日、私宛にNHS(英国政府が運営する国営医療サービス事業)から、新型コロナウイルスワクチン接種の案内状が届いた。イギリスでは、高齢者から順番に接種が始まっており、40歳手前の私にも、ようやくその順番が回ってきたというわけだ。

しかし、現時点では、私はワクチンを接種するつもりはない。もちろん、新型コロナに罹患する可能性はあると思っている。かかってしまって、周囲に迷惑をかけてしまうことになるかもしれない。
でも、そのリスクよりも、1年にも満たない治験のみでスタートしたワクチンがもたらす副反応、特に、打ってすぐ~数週間で出るようなものではなく、数年、数十年ともっと長い目で見たときに、遺伝子や自己免疫に何らかの作用をもたらす可能性のある、しかも何が起こるか全くわからない副反応の方に、とても大きなリスクを感じているから。

今回のワクチンに限らず、"科学的なエビデンス"というものが、非常に重要な要素だということは理解している。"ワクチンは効果がある"という科学的エビデンスも、"ワクチンは効果がない"という科学的エビデンスも、どちらも示されている。そして、そのエビデンスというものは、どちらの立場であるにせよ、測定条件が曖昧だったり、データがねつ造されていたり、ということがよくある。特に、今回のような開発途上のものであれば、尚さらだろう。
そんな状況であるからこそ、どのエビデンス(情報)を信じて、どんな選択をするかということは、個人の判断に委ねられるものだから、私はワクチン推進派も否定派もどちらのエビデンスも見た上で、"現時点では打たない"という選択をして、私とは異なるエビデンスを信じた人は"打つ"という選択をしたのだろう。
この選択は、どちらが正しいかという是非を問うものではないし、ましてやどちらか一方の選択を強要されるものではないと思う。そして、その選択をすることで、どちらかが利益を得て、もう一方が不利益をこうむるような状況というのは、どう考えてもおかしいと思うのだ。

極端な例え話をすれば、"犬派か猫派か"、"朝はパン派かごはん派"か、"つぶあん派かこしあん派か"、"海派か山派か"、"京都派か奈良派か"と同じレベルで、"ワクチンを打つ派か打たない派か"という選択であっていいと思うのだ。Aさんは犬派で、Bさんは猫派。そのどちらが正しいわけでもないし、相手を責めることもなければ、迷惑をかけることも、不平等なことも何もない。
同じく、Aさんは打つ派で、Bさんは打たない派。それぞれお互いの意志による自由な選択。それではいけないんだろうか。どうしてそれを強要したり、その選択を非難したりするんだろうか。
実際にたくさんの人が亡くなったり傷付いたりしているんだから、そんなレベルの低い話ではないのだろう。でも、私はそんな風に感じている。

また、GACKT氏が、以前は「日本は危機感が足りない」と言っていたのに、一転して今は「もうよくないすか?ただの風邪ですよ」と発言したことでバッシングを受けているというニュースを目にした。彼の発言の真意は知る由もないし、GACKT氏を擁護するつもりもないけれど、ある物事に対して、それについての知識や情報が増えたり、見る立ち位置が変わったりしたことで、考え方が変わることは、当たり前のことではないのだろうか。一度発言した自分の考えは、二度と変えてはいけないのだろうか。それすらも、許されない世の中なのだろうか。

私は上に"現時点では、打たない"と書いた。なぜなら、今後、ワクチン接種のメリットがデメリットを上回ると自分が判断すれば打つ可能性もあるし、国のルールとして、接種が義務付けられたなら(そうならないことを切に祈るが)、そのルールに従って打つだろう。だからあえて"現時点では"と書いたのだ。

今回のコロナ禍では、いろいろと思うことがありすぎて、なかなか自分の考えをはっきりと表明してこなかったが、今日、ワクチン接種の案内状が届いたことで、改めて自分の現時点での考え、選択を表明してみることにした。

ちなみに、私は犬派だけれど猫も好きだし(顔はどちらかというとキツネ顔)、基本的には朝はごはん派だけれどたまにはパンも食べるし(というかそもそも最近は朝ごはん食べない派)、つぶあんもこしあんもどちらも好きだから決められないし(このお菓子にはこっち!と決めた職人さんの判断に委ねたい)、海に行きたい気分のときもあれば、山に行きたい気分のときもある(今は海に行きたい)。
そして今までは、奈良に住んでいたので、断然、奈良派だったけれど、今後もし、京都に住むことがあれば、「いや〜奈良も良かったけど、やっぱり京都でしょ」と、あっさり京都派に鞍替えするかもしれない。現時点では、そんなことはないだろうと思っているけれど、先のことなんてわからない。