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テレビドラマ見て初めて泣き笑いさせられた(「anone」第3話、単体での芸術性について)

「anone」第3話はもう、これ単体で芸術作品としてまとめても良いような気がする。

テレビドラマというものは第1話から始まって最終話で終わる。その全てで一つの作品となるわけで、もちろんこの「anone」もそのルールに則っているのだが、何かもう、そういうのはいいからこの第3話は単体で芸術だった。本当に一つの作品としてえげつなかった。

まず私は、今までテレビドラマを見ながら一度もしたことがない変な顔をしてこの第3話を見た。言うなれば笑い泣きってやつだろうか。

第3話は持本(阿部サダヲ)の同級生、西海の半生を見ることになる。銃で持元やハリカ(広瀬すず)を脅す姿は、よく見る犯人像と比べるとどことなく滑稽だ。逆に、人を一人殺していることは事実、そう伝える報道が横滑りするような気持ちになってくる。犯罪の現場はドラマでしか見たことがないが、実際はこんな風に危なっかしかったりするのだろうか、とそんなことを考えてしまった。

身代金が偽札と知った西海の人生への絶望を嘆く姿も、それをなだめて励ます持本(阿部サダヲ)も酷く子供染みている。「嫌なんだよ、もう45なのにー」と駄々っ子のように泣き叫ぶ姿は100%シリアスに見るにはあまりにも子供っぽくて、でも馬鹿にするにはちょっとリアルが効きすぎている。ドラマというよりも変なドキュメンタリーを見ているみたいで、気がついたら半笑い半泣きみたいな変な顔で見ていた。今までこんな表情、ドラマ見ながらしたことがない。そんな表情で見てしまったことの新鮮さも物凄くて、でもこの新鮮さはこの第3話の悲劇的な結末を知ってしまった私は二度と味わうことがない。西海と持本のシーンから、第3話のラストまで。この数分の刹那に感じたドラマに対する新しい感情は心に刻むしかない。そして忘れてはいけないのは、このラストシーンが「心のこもった言葉の数々は、最期を選ぼうとする誰かをきっと救う」というテレビドラマの「作法」をあっさりと、そして残酷に破りきったことだ。

第1話から第3話にかけて、トーンの小刻みな移り変わりにずっと注目してきたが、ここにきて思ったことは、実はそれがリアルなのだということ。先ほども書いたが、気がつくと風変わりなドキュメンタリーを見せられているような気分になる。世界のどこかで起きている、喜劇のような悲劇のようなリアル。あまりにも偶然が重なり合う展開はドラマそのものなのに、なぜこれがリアルなのか。それは結局自分の気持ちも人生も、本当は小刻みに移り変わっているからじゃないだろうか。数分前、社会への激怒をスマホで綴った自分は、気づけば流れてくるハリネズミの入浴動画に癒されているし、さっきまで人生最高!と仲間と写真を撮っていた自分は、すぐに取るに足らない自己に果てしなくげんなりする。それは外に見せているよりも実際はずっとスパンが短くて、1日に何度も何度も喜怒哀楽のトーンを行き来しながら、それを平均化して外に見せておいたり、自己分析したりしているわけである。「明るい人間」「乱暴な人間」「優しい人間」なんていうのはそもそも存在せず、ある一瞬を切り取った人物像でしかない。このドラマが喜怒哀楽のパーセンテージをすごい勢いで変化させていくのは、不自然なようで実は人の本質からすると自然なのではという気がしてきた。中から見れば自然、でもドラマとして外から見ている私たちは、通常外から見ている他人の心情変化ペースに慣れているから、このリアルの心情変化の速さにただただ唖然とする。

ラスト、河川敷で倒れた西海の足元から封筒を奪っていく展開にはかなりシビれた。悲劇のトーンに巻き込まれることもなく淡々と封筒を奪っていく彼の心境、その薄気味悪さと予想される物悲しさが激しく期待を煽る。

そして忘れてはならない名シーンは林田亜乃音(田中裕子)と青羽るい子(小林聡美)の喫煙シーン。ここ10年ほどでほとんどテレビドラマで見なくなった喫煙シーン。2018年、平成も終わるというこの年のテレビドラマにおける喫煙シーンはこれなのだ…ともう筆舌しがたい思いが湧き上がる。90年代、男女共に喫煙シーンがガンガン流れ、サラリーマンの休憩シーンとしての喫煙は鉄板。昨今のアンチ喫煙時勢ですっかり見なくなったこのシーンを、しかも中年の女二人、さらには屋内でやらせるこの粋を何と表現したら良いものか。躊躇なく床に投げ捨て、靴の裏で火を揉み消す、あのカットには心の底からシビれた。

第3話は一言で言うとエグかった。読み解ききれない重層な作品性。次回までに2回ほど見直す必要がありそうだ。

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