変化の時に起こる事~抵抗の根と未来~
前回の記事
「カスタマーハラスメントしない・させない
幸せに働く組織になるために」
にも繋がる、変化を起こそうとした時に起こる反応と願いの話です。
おそらく誰もが覚えのある事だと思いますが、学生でも社会人でも集団の中で新しく何かを“始めようとした時”“変えようとした時”必ずそこには賛成と反対の対立が生まれます。
この対立が
「なるほど、そのやり方でやってみよう」「OK、これで改善が見込めるね」
という賛成と
「そのプランにはこういう見落としがある」「この悪影響が懸念される」
といった反対の対立、つまり互いに結果を求めて意見を戦わせる対立であれば、私はそれをとても価値のあるものだと思います。
得るべき結果に対して、互いに真摯に向き合っているのだから。
疑問点と説明を出し合いながら進む議論は、さぞ有意義なものになるでしょう。
…ただ、現実に対立が起こるとき、必ずしもこのような賛成or反対の構図ではありませんよね?
むしろ
「まぁ一応言ってはみるけどさ、
結局は上が決めるからねぇor下からも特に問題は聞いてないしねぇ」
といった、最終的な決定権がどこにあるのかすら有耶無耶な停滞ムードや
「キミの言う事も分かるんだけどさ、ウチにはウチのやり方があるんだ」
という、内容よりも
“変化する事それ自体を嫌った反対”
の姿勢を、多く見ると思います。
これは健全な議論とは遠い、とても厄介な反応ですね。
今回は何故こんな反応が起こるのか、そしてどうなって欲しいのかという願いの話をしたいと思います。
1・変化はそれ自体がストレス
そもそも何かの提案が有ったとして、必ず賛成と反対に意見が分かれて議論や合意のプロセスが必要になるのは何故でしょうか?
人それぞれ意見や信念が違うから
持っている知識や経験が違うから
こういう側面は確かに有ると思います。
しかし何だかそれだけにしては、議論に妙な労力がかかる事が多いのではないでしょうか?
その大きな原因として挙げられるのが、まず
変化それ自体が大きなストレス
だという事です。
古くは1968年に発表された『ホームズとレイの社会的再適応評価尺度』という表でも示されている通り、人間は良い・悪いに関わらず“変わる”事それ自体にストレスを感じます。
配偶者の死もストレスならクリスマスの訪れもストレス。
レベルで言えば解雇よりも結婚の方がストレスの強度は高いくらいです。
そして人間の脳は直感的にストレスを嫌い、避けようとします。
すなわち直感的・本能的に変化を避ける。
これがいかなる変化に対しても反対が根強く息をする大きな理由です。
至極真っ当な理由ですね。
我々は遺伝子レベルで変化が嫌いなのです。
2・後押しする認知的不協和
さらに本能的な拒否感に加えて、現代社会では認知的不協和を伴った学習の積み重ねが変化を厭う行動を後押ししていると考えられます。
認知的不協和とは、アメリカの心理学者レオン・フェスティンガーによって提唱された社会心理学の用語ですね。
具体例として分かりやすいのは、イソップ童話のすっぱい葡萄。
葡萄を食べたいキツネがアレコレ手を尽くして葡萄を取ろうとするのだけど結局取れず、最後には「どうせあの葡萄は酸っぱいんだ」と負け惜しみを吐いて終わるというお話ですね。
この時キツネ心の中でどんなメカニズムが働いているかを解説すると、以下のようになります。
まず美味しそうな葡萄を見つけます。
美味しそうな葡萄だから「葡萄を食べたい(食べるべき)」という認知(物事の捉え方)が生まれます。
そして「食べる」という行動を実行しようとします。
しかし実際には葡萄が取れない=「食べない」を選択した状態になっています。
「食べたい」という認知と「食べない」という行動が不協和(一致しない)状態になるわけです。
この認知と行動が一致しない、不協和の状態に我々はストレスを感じます。
このストレスを解消するためには、どうしたら良いでしょう?
簡単です。
認知と行動を一致させれば良い。
すなわち
「食べたい(認知)」と思って「食べる(行動)」
か
「食べたくない(認知)」と思って「食べない(行動)」
か、です。
キツネくんも最初は「食べたい(認知)」に合わせて「食べる(行動)」を実行しようとして努力していました。
でも実現できない。
「食べない(行動)」しか選択できていない状態なのです。
このままではキツネくんの心はストレスまみれ。
ではどうするか?
「食べない(行動)」が変えられないのなら「食べたい(認知)」を変えれば良いのです。
「食べたくない(認知)」から「食べない(行動)」
であれば認知と行動は一致してストレスは発生しないわけですから。
でも本当は「食べたい(認知)」わけですよね?
しかし「食べたくない(認知)」と思わないとストレスが止まらない。
だからどうにかして
「食べたい(認知)」を
「食べたくない」に正当化する必要があるのです。
そのためにキツネが使ったのが「どうせ酸っぱい」という道具です。
食べて美味しい葡萄だから食べたいのであって、酸っぱくて美味しくない葡萄なら「食べたくない(認知)」になるのが当然です。
そうやって実現できなかった行動の価値を落とす事で
「酸っぱいなら別に我慢して食べなくて良い」
「酸っぱくて美味しくないなら食べないのが当然だ」
という“変えられない行動と一致させ得る認知”を作り出して認知的不協和の状態を脱出。
ストレスを回避したわけです。
これがキツネくんの中で起こった認知的不協和と、その解消の道のりですね。
ここまでの一連の流れを自分の心を守る装置、防衛機制のひとつ
『合理化』と呼んだりします。
3・現実にどう影響しているの?
前置きが長くなりましたが、何故この認知的不協和が変化への反対という行動を起こすトリガーになっているのか、です。
実感を伴ってご存知の方も多いと思いますが、ここ数十年の日本では残念な事に、かなり乱暴で封建的な社会体制や教育が維持されてきました。
ようやくパワハラ・セクハラが問題視され始めたのも、振り返ってみればここ10年くらいの話。
2000年代はまだまだ、教育と名付けられた暴力が幅を利かせていた時代でした。(JR福知山線の事故で日勤教育が有名になったのは2007年)
大勢の前でこき下ろし、吊るし上げ、意見を聞くのはフリだけで、文句が有れば上司の奢りで一杯飲ませてハイおしまい。
叱るとなれば公開処刑のような扱いを是としていた企業も多いのが現実です。
「何度電車に飛び込もうと思ったか分からない」
そういう記憶をお持ちの方も多いでしょう。
ああいう時の線路って、まるで磁力が働いているかのように自分を吸い寄せる力がありますよね。
吸い込まれなくて良かったと思います。
さて、何が言いたいかと言うと、そうした文化が浸透していた時代に社会に参加していた方の多くが、理不尽な暴力に曝され続けていたという事です。
「なんでここまで言われなきゃいけないんだ」
「やめて欲しいけど言ったらどうなるか分からないから言えない」
「どうしたら良いのか分からないけど、少なくともこれは違う」
そんな思いを何度も何度も繰り返しながら
「やめて欲しい・こんなやり方は違うと言いたい」という認知と
「怖くて言えない」という行動の不協和を積み重ねていました。
その結果起こるのは、酸っぱい葡萄と同じ“正当化”です。
認知と行動を一致させる事ができなかった時、キツネは「どうせ酸っぱい」という道具で葡萄を食べられないストレスを回避し
人間は「どうせ言ったって変わらない」という道具で、理不尽な暴力に抗えないストレスを回避していた、というお話です。
もちろん完全に回避はできませんし、ストレスのレベルも葡萄とパワハラでは比較にならないので、もっと大きな認知の歪曲が必要になります。
例えば、本当は「こんなのは違う・もう耐えられない」と思っていたはずの理不尽な暴力を「必要な試練だ」と思うようになる等もその1つですね。
人の心が自分を守るために備えた、当たり前の性質です。
しかしこの当たり前が繰り返され「こうやって耐えるしか無いのだ」という学習が深まってくると、非常にマズい事も起こります。
4・防衛としての拒否
「耐えるしかない」「耐えるのが賢い・正しい」という学習が深まっていく事の何がマズいのでしょうか?
答えは、この学習を少し掘り下げた所にあります。
“自分の受けた暴力を正しい物と認知し続けるために、何が必要か?”
という所。
理論を学び理解に支えられた信念であれば、特に努力は必要無いかもしれません。
しかし身を守るための防衛機制として認知を歪めているだけならば、維持には多大な努力が必要です。
何せ自分でも本当は間違っていると思っているのですから。
行動による認知の上塗りは常に必要とされ、例えば
自分よりも下の立場の者に指示を出す時、真っ先に
「出来ないと評価が下がるよ」「あの人に怒られるよ」
「嫌な事が起こるぞ」
と、否定的な材料を示して緊張感や忌避感を動機付けにしようとする。
あるいは同じ成果に対して、他者から提示された“苦痛を伴わない方法”
“今までより楽な方法”を受け容れない。
といった反応が分かりやすいと思います。
これも考えてみれば当たり前ですよね。
もし自分が受けた、暴力による調教とは違うやり方を受け容れてしまったら
すなわち、やり方を変える必要があると認めてしまったら
自分の受けた暴力が、必要の無い物だったと認めてしまう事になるのです。
何とか過去に折り合いをつけて来られたのは、暴力を正当化していたから。
本当は撥ね付けたかった暴力を
「必要な試練だった(認知)」
だから
「耐えた(行動)のだ」
と、認知と行動を無理やり一致させてきたからです。
もし、そうではなかった、理不尽に苦しめられたのだと認めてしまったら?
莫大な不協和の生み出すストレスが、自分に襲い掛かってきます。
そして前述の通り、人間の脳は直感的にストレスを嫌います。
結果として生まれるのは、自分信じるやり方の外側にある物を、遮二無二拒否して、どうにか馴染んだ方法でやり過ごそうとするベテランです。
注)原因は認知的不協和だけでなく複数の要因が絡み合う
※脳の器質的変化
長期間、抗えない暴力に曝され続けた脳は偏桃体が変質し、不安や恐怖に異常に敏感になる。
5・連動する権威主義的人格の形成
また質の悪い事に、脅威・権威に対してとにかく従うという方法で安心を得ていると、人格形成にも良くない影響が出ます。
権威主義的人格という呼び方もあるのですが、
自分にとっての権威(自分を怒る権利を持った人)に
褒められる(怒られないかどうか)が
自分の行動の判断基準になってしまうのです。
この際問題なのは、相手(権威側)がどんな人かは問われない事です。
倫理的or合理的に正しいかどうかではなく、その人が気に入るかが最優先。
権威に基づいて特定の相手を妄信する状態になってしまうのです。
相手の正しさが立証されないまま、相手の好みが自分の行動の規範になってしまう。
恐ろしい状態ですね。
そしてこの状態の何より恐ろしい所は、この状態に陥った人がパワハラや差別の根源になってしまう所です。
権威主義的人格の持ち主は権威におもねる事が最優先になっているため、倫理や論理よりも、その瞬間安心を得られる方法を優先します。
パターンを覚えて、場当たり的に恐怖に反応しているとも言えますね。
だから何らかの理由もって変化をもたらそうとする者を
“いつもの安心パターンを奪う危険なもの”と認識しがちになります。
そして危険なもの=脅威に対しては「闘争or逃走」が人間の本能です。
支配できそうなら攻撃して支配を試みますし
支配が困難なら逃げるか、見なくて済むように環境からの排除を試みます。
またこの反応は歪んでいるとはいえ防衛反応のため、ただ「ヤメロ」と言われた所で辞められません。
そしてあらゆる変化を押し留め、個人にも組織にも害を成してしまう。
今の日本に横たわる、とても大きな問題ですね。
6・未来のカギは『教育』
こうした問題に対して、しかし解決の方法もまた、手の届く所にあります。
その方法の名前は、『教育』。
先に述べた権威主義的人格にしても、『僅かなりとも存在の許されない悪』という訳ではありません。
なぜなら最初は誰もが、権威主義的な行動規範から始まるからです。
幼い頃を思い出してみて下さい。
自分が何かを決める基準は
「お父さん・お母さんが喜んでくれるから」
ではなかったでしょうか?
もう少し成長した頃なら
「部活の先輩が・学校の先生が褒めてくれるから」
だったかもしれません。
最初は誰でもここから始まるのです。
ある人に、ある集団に育てられ、そこに褒められようとして頑張る。
それは当たり前の成長過程であって、悪ではありません。
しかし永遠にそこに留まり続けてしまう事は、正しくはないでしょう。
倫理や論理よりも、嗅ぎ取った『偉い人=自分にとっての環境の支配者』の好みを優先するようになってしまうから。
最初は褒められるために、しかしそこから知識や経験を蓄えて
自分の信念
自分の倫理観
自分の欲求
に、いかにシフトしていくかが重要なのです。
それが出来るのが教育であり、各分野の専門家です。
クレーム対応ひとつとっても、30年前
「ご無理ごもっとも。申し訳ございません」で謝り倒すしか方法が無い!
といった、お客様を仮想敵と想定するかのような方法が広まっていたものが
今ではアンガーマネジメントやアサーティブコミュニケーションを組み込んだ、ずっと安全で信頼関係の築ける方法に、少しずつ置き換わっています。
パワハラ・セクハラに対応するコンサルティング会社
怒りの問題を扱う日本アンガーマネジメント協会
病に罹れば精神科の病院
「コレどうにか出来ますか?」と聞けば、答えてくれる人は大勢居ます。
どうか躊躇わずに、身近な『教育』を頼って下さい。
そして頼る事、助けを求める事が
「恥ずかしい事ではない」「弱さを意味したりはしない」
という事を、ご自身の周りに知らせて下さい。
もしかするとそれが最も大事な『教育』かもしれません。
手の届く所に有る『教育』を頼ってもらえるだけで、状況は劇的に変わります。
そうして1歩踏み出してくれた人と一緒に、幸せに働ける社会を築く事が、今の私の願いです。
どうか1人でも多くの人が、幸せに自己実現できる社会になりますように。
今回も最後までお読みいただいて、ありがとうございました。
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