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こんな夢を見た

1.こんな夢を見た

愉気の会の日の夜、こんな夢を見ました。(2017年秋のこと)

それぞれ悩みを抱えたいろんなヘンテコな仲間たちが、2~30人くらいで真っ白い教会のようなところで、いろんなワークをしながら一緒に暮らしているのです。

ヘンテコな仲間たちというのは、人間だけじゃないからです。クマのぬいぐるみや、他にもなんやかんやといろいろいるのです。(詳しいことは目覚めたら覚束なくなってしまって忘れてしまいました…)

そのなかで特に印象に残っているのは、そのクマのぬいぐるみです。彼はからだじゅうの毛が抜けかけてボロボロに剥げていました。

そして自分の言いたいことが上手く言えないので、他人と上手くコミュニケーションが取れずに、つい乱暴にぶつかっていってしまって、みんなから何となく嫌がられていました。

あるワークをしているときに、彼はまわりの仲間にガンガン当たりながら、ずんずん突き進んでいきました。そしてずんずん突き進みながらどんどんと高いところに登ってゆくのです。

仲間だけでなく、いろんな物にもぶつかりながら真っ白い教会のてっぺんの方までずんずん突き進んでいって、そして一番高いてっぺんのところまで行ったときに、彼はそこで死んでしまうのです。(どうやって死んだのか詳しいことは…(略))

私は何故かそこで彼が死んだのをぼんやり見ていました。

「ああ、死んでしまった…。可哀相に…。みんなに知らせなくちゃ…」と考えながら、とぼとぼと真っ白い階段を降りてゆくのです。

下まで降りてゆくと、何故か仲間たちがそのことを知っていて、階段下の真っ白い大きなホールにゆっくり集まってきています。

みんな彼のことはそんなに好きではありませんでしたから、何とも言えない表情で黙ったままでした。

死んでしまったことは悲しいし可哀相だと思うけど、どこかちょっとホッとした気持ちもあって、そんな矛盾した感情に罪悪感を感じて戸惑っているような、そんな様子です。

すると一人の女の子が、彼のことを歌い始めたのです。

「どうして私は彼のことをもう少し分かってあげられなかったんだろう。もしもう少し分かってあげられたなら、彼のボロボロのからだにも柔らかい毛が生えてきたのに。そしてふわふわの毛皮になってギュッと抱っこして、お互い気持ち良くなれたのに…」

とか何とか、そんなような歌詞の歌です。(詳しいことは…(略))

するとその場にいたみんなも、じょじょにその子の歌に合わせて歌い始め、やがて大きな歌声の合唱となって、その真っ白い教会の中に響き渡っていったのです。

そうやってみんなが彼の死を悼んで合唱している姿を見て、私は本当にホッとして「ああ、良かった…」と思っているところで、目が覚めました。

2.ワークが夢になる

私はふだんあまり夢を見ないので、久しぶりにきちんと物語になっている夢で、目覚めてすぐに「ああ、これは昨日のワークだな」と思いました。

何かというと、今月の愉気の会では先日のソマフェスで参加したハコミセラピーの講座で行なったワークを、みんなで実践してみたのです。

どんなワークかというと、気になることを考えているときの自分のからだの変化を感じ、そこに手を当ててもらうというものです。

そしてしばらく味わったら、今度はその手が自分に語りかけてくれている言葉、ふと思いつく言葉を相手に伝え、その言葉を相手に語りかけてもらいながら手を当ててもらうのです。

とてもシンプルなワークでありながら、非常に満足感の深い丁寧なワークだったので、さっそく参加者のみなさんと一緒にやってみたのですが、みんなふわーっとゆるんだ様子で自然と笑みがこぼれていました。

それでいつも愉気の会のときには、妻のかさねにアシスタントとして手伝ってもらったりしているのですが、講座も終わって家に帰り、家族で夕飯を食べた後に数日前に買ったカヴァを夫婦で愉しんでいたら、少し顔の赤くなった妻が「今日のワークを家族でやりたい!」と言い出したのです。

「え?子どもには難しいんじゃない?」とも思ったのですが、酔った妻の提案を断るというのは決して得策ではありません(笑)。

「よし、やろう」と言って、遊んでいた子どもたちを寝室に呼び寄せました。

3.家族でワーク

「なに?なに?なにするの?」と興味津々な顔をしてやってきた子どもたちに「これからみんなでお互いに手当てのワークをします!」と言って、みんなでワークをし始めたのです。

はじめに大人が子どもに手当てをし、次に子どもが大人に手当てをしました。

案の定、自分のからだの変化を感じるというのは子どもにはちょっと難しかったようでしたが、とにかく手を当ててもらいたいところをリクエストして、と言って手当てをしてみました。

私は上の小5(当時)の子に手当てしていたのですが、子どもも自分の言ってもらいたい言葉を掛けてもらいながら手を当ててもらうのはやっぱりとっても嬉しいらしく、やたら顔の筋肉がゆるんで、嬉しそうな恥ずかしそうなデレッとした顔になって受けていました。

下の5歳の子とワークしている妻の方をちらっと見てみると、二人でチュッチュチュッチュして幸せそうにやっています(笑)。

それでその後交替して、今度は私が子どもに手当てをしてもらいました。

子どもに背中に手を当ててもらいながらしばらく味わっていたら、ふと「やりたいことをやってね」という言葉が浮かんできたので、子どもにそれを伝えて手当てをしつつ言葉掛けをしてもらいました。

すると、子どもに「やりたいことをやってね」という言葉を掛けてもらっていると、その言葉がじわじわ沁みて、お腹がグワーッと熱くなってくるのです。手を当ててもらっているのは背中なのにお腹がグワーッと熱くなる。

家族のような身近な関係の間柄で、余計なことを取っ払った素直な言葉を掛けてもらうというのは、ふだんあんまり機会の無いことかもしれませんが、改めてとてもとてもからだに響くものだと思いました。

そういう言葉は、あたまでもなく、こころでもなく、ダイレクトにからだに響くのです。

だから何か思ったり感じたりするよりも前に、パッといきなり涙がこぼれたりするのです。いきなり涙が出て「あれ?」と思って、あとからこころが動き出すのです。

私もお腹がグワーッと熱くなってきて、それを味わっていると「ああ、そうだ。やりたいことをやるんだ」と改めてしっかり意識できました。

それがきっと何か私の深いところにまで届いたのでしょう。それで珍しくはっきりした夢を見たのです。それが冒頭の夢です。

4.夢見るからだ

野口晴哉は、からだを見た人がその晩どんな夢を見るか当ててみせたそうですが、夢とからだというものはかなり近いところでつながっています。というより私は夢そのものだと言ってしまいたいくらいです。

だからからだが変わると、それが夢に現われたりすることがあります。その夢がどんなことを現わしているのか、そういう解釈は他の人に任せます。私はただその夢を感じるだけです。

冒頭の夢も、私はとてもしっくりきました。そうだ、こういうことなんだと。そして同時にこのようなワークを家族でやる意味というものを考えました。

今回、妻の思いつきでいきなり始まった家族のワークでしたが、酔った妻というものは、男にとっては大事なご神託を授ける巫女のような存在ですね。

その場の見えないところで動いているうねりのようなエネルギーの高まりに、女性はそのからだを通していのちとカタチを与え、表に現わしてくれるのです。

そして今回のワーク自体もまた、そんな入り口の一つでしょう。

そんなに難しいワークではありません。でも行なってみればきっと何かが変わる、そんなワークだと思います。興味があればぜひやってみてもらえたら私も嬉しく思います。

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