暮らしの体育
野口整体は「療術」ではなく「体育」というのがその立ち位置なのですが、創始者である野口晴哉(はるちか)は、たびたび「女子の体育」ということを提唱していました。
現代の日本で「体育」あるいは「運動」と言ったときに、多くの方がイメージされるのは「競技体育」のイメージではないかと思います。
「競技体育」というのは、それぞれが持てる体力や技術を出し合って競い合い、その優劣をつけて愉しみ、そして切磋琢磨し合う、そのようなからだを育てようという体育です。
それはある意味「競うからだ」「戦うからだ」を育てていくということで、厳しい自然環境を克服し、競争相手との生存競争に勝って生き延びてゆくということを考えたときには、非常に大切な体育であるでしょう。
ただそのような体育は、その性質上アグレッシブで攻撃的な傾向が強くなります。
「子どもの時に嫌いな教科は何でしたか?」というアンケートを採れば、「体育」という教科はおそらく上位三位に必ず食い込んでくるのではないかと私は勝手に空想しているのですが、そんな「体育が嫌い」という人の中には、「からだを動かす運動が苦手だった」という人の他に、「人と競うのが嫌だった」という人もあるのではないでしょうか。
私もそういうところがあるのですが、「競う」とか「戦う」とか「出し抜く」とか、そういうことが苦手な人もあると思うのです。
ドッジボールをやればすぐに外野に回りたいし、サッカーをやればセンター辺りをウロウロしながらパスだけ回したいし、マラソンをやればのんびり景色を眺めながら走りたい、というより散歩がいい、そんな呑気な人もあると思うのです。(かくいう私ですが)
「からだを動かすこと」と「人と競うこと」は、本来別物です。
からだを動かす目的として、人と競ってゲームにすると楽しかったりするから、それがスポーツのような競技運動となるわけですが、競うことがあまり好きではない人からすれば、「くっつけないでよ」と思うかもしれません。
「ボクはただゆったりのんびり動きを味わいながら、自分のペースでからだを動かしたいんだ」という、くまのプーさんみたいな人もあると思うのです。(かくいう私ですが)
そんな人は「競争」と「勝敗」を基調とした運動ではなく、「協調」と「感応」を基調とした運動であったなら楽しめるかもしれません。あるいは「探求」と「発見」の運動とか。
「それじゃ筋力や体力がつかないから体育にはならない」と思う方もあるかもしれませんが、「筋力や体力をつけるのが体育である」という価値観自体が、すでに競技体育的な発想なのです。
「どこでも寝れる」とか「転んでもすぐ立ち直れる」とか「熱が出てても超元気」とか「その人がいるだけで愉しくなる」とか「危険をすぐ察知できる」とか、そんなさまざまな指標を持った体育があっても良いのではないでしょうか。
野口晴哉が「女子の体育」と言ったときにどんなことをイメージしていたかというと、健やかに妊娠し、健やかに出産し、健やかに子育てのできる「からだ育て」です。
そこで求められるのは、競ったり戦ったりするからだではなく、共感し慈しんで育むことのできるからだです。自分の意志を貫き通すからだというよりも、相手の要求を感じ取れるからだです。
それはある意味、内観的で対話的で融和的なからだと言えるでしょう。そのような考えに基づいた体育が欠けているのではないか、それが野口晴哉の言い分でした。
野口晴哉は「女子の体育」と言いましたが、もちろん今の時代それは女子にだけ必要なわけではありません。むしろ男子にも大いに必要となってきていますし、そのような男子も増えてきているように思います。
「妊娠・出産」に関してだけは、これは決して男性が取って代わることのできない部分でありますが、家族を形成し、子どもを育てる事に関しては、これはすでに性別によって役割分担する時代ではなく、個性や適性によって、そして何より本人同士の対話を通して決めていく時代です。
ですから「女子の体育」という言い方ではなく、「競技体育」に対する体育として、「生活体育」とか「健康体育」とか「暮らしの体育」とか、何か別の言い方で呼ぶのがふさわしいかもしれませんが、ともかくそのような「育むからだ」を育てる体育というものを考えていく必要があると思うのです。
たとえばかつては家庭や共同体の中で、大人の仕事のお手伝いという形で行なわれていた「暮らしの体育」がありました。
それは、餅つきのときの餅を返す手のように、毛糸を巻くときの毛糸を繰り出す手のように、受け取った藁の束をホイッとパスする手のように、仕事をする大人の息に合わせて合いの手を打つような、家族や共同体の持つリズムに同調し、それに合わせて動けるからだ育てです。
そこで育まれるのは、「感応するからだ」であり、「協調するからだ」です。それは周囲の人間や暮らしというものと協調しながら自己実現を果たそうとする、そんなからだでもあります。
そのように元々は「暮らし」と「体育」がもっともっと寄り添っていました。「暮らすこと」がそのまま「からだ育て」だったのです。
そうやって、暮らしがからだを育て、そのからだが暮らしを充ちたものにしていました。
現代は「暮らすこと」と「生きること」が乖離しています。もっと正確に言えば「生きること」が「暮らすこと」から脱却しようとばかりしています。
「暮らすこと」にまつわるあらゆる体操をAIなどに任せて外部化し、自身は自己実現のための「生きること」に専念したい、とそう願っているのかも知れません。
でもその道は、幸せに近づくように見えて、感覚的には進むほどに蜃気楼のように遠ざかっていくような、そんな気がしてなりません。
何故なら、本来からして「暮らすこと」と「生きること」は同一のこと(living)だからです。
暮らしの中にあるさまざまな体操に充実感を持って取り組み、暮らしそのものに幸福感を感じることのできる、そんなからだを育てる体育というものがもう少しあっても良いのではないかと、そんなことを思うのですよね。
私も「魔女修行」とか言って変なことをやったりしていますが、じつは私にとって「ホウキを持った魔女」というのは、そのアイコンなのです。
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