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まったく同じ、ではないから続く今があるのか。

こんばんは、いえもんです。

『花束みたいな恋をした』

鑑賞後に思い出すたび胸がきゅっとなって

涙が出そうになる。

映画鑑賞中は坂元裕二だからって全肯定で見ちゃいかん
フラットに観よう、そんな持ってかれまい。

そんな思いで鑑賞していたけど、(失礼)

完全に気持ちを、身体を持っていかれた。

絹と麦が過ごす日々の一瞬一瞬に、

絹と麦が発する言葉一言一言に、

痛いくらいに共感が呼び起こされて、

気づいたらファミレスのシーンで泣いていた。

それでもあくまでもこれはフィクションだった。

こんなに趣味と価値観が合致しまくる出会いはそうそうない。

このような経験する人のほうが少ないのではないか。

好きな小説家が同じ。
じゃんけんのルールが理解できないのも同じ。
映画の半券をしおりにするのも同じ。

そんな「同じ」の多さも相まって惹かれあった二人は、
「違い」を実感していくことで離れていく。

そんな映画のなかの二人を観ながら、

まったく「同じ」じゃないから今隣にいる人と続いているのかな

そう思った。

あれだけ同じものばかりだったらそりゃ違いが生まれたときに苦しいよね。
「全部同じ」からスタートしたら「違い」は常にマイナスに作用する。
だから二人は離れる結末を選んだんだね。

と鑑賞後の帰り道パートナーと話していた。

パートナーとは育った環境も違うし、癖も、好きな音楽も違う。

「違い」を前提に付き合っているから、未来のことも考えられるのかもしれない。
そう思った。

それでも小さな衝突がある。

どうしてシャワーの水を出しっぱなしにするの?
どうしてリビングデスクにものを散らかすの?
どうしてごはんを残すの?

そんな日常のイライラもあるし。

麦と絹のやり取りであった、
もっと大きい音でゼルダやっていいよ
からの
麦イヤホン装着

みたいな冷ややかな否定の態度みたいなものもある。

でもそれは違う人間だから、
自分とは違う行動をする。

それをわかって歩み寄っていくのが、二人で生きていくことなのかな。

とか終焉を迎えた大恋愛の一幕をみて思った。

最近Twitterでも

お互いの違いを知るのが面白い とか

自分との価値観の違いを楽しんでいる とか

自分以外の視点を得られるのが新鮮 とか

そういうふうに書かれた夫婦系・恋愛系ツイートが

美談としてバズったりしているような気がしている。

(例に出せるツイートはないが。)

こんなふうにずっと頭を占拠される作品です。

『花束みたいな恋をした』は。

>サイトウ
映画観て考えたことを書いてみたけどうまく書けません。
飲みながら語らいたいです。LINE通話しよう。カメラはこの際いらない。

>きっちゃん
大事な話、私も苦手です。
喫茶店使ってみます。
ハンバーグはこの一度限りしか作っていないので、
ナツメグは永遠に入れるようにします。

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