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読書記録(10)谷崎潤一郎『痴人の愛』

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強烈。読んで良かった。

時代の違いを感じさせない点が素晴らしい。令和の今でも、たいして人間は進歩していないなと思わされる。進歩しない人間がアホなのか、人間の普遍性を描ける谷崎潤一郎がすごいのか。

高校の日本史の授業では「耽美派」という用語とセットで扱われる著者名及び作品名。その「耽美派」の語感からして、情交中の生々しい描写が満載のいわゆる「エロ小説」的なものを勝手に想像していたが、違った。そういう描写はほとんどない。ただ、作品に迸る狂気は想像以上で、おそろしかった。

品行方正・勤勉実直の主人公「譲治」の告白文という体裁で、魔性の女「ナオミ」との邂逅から現在までが語られる。譲治は、カフェ(現在のキャバクラに近い)で働く数え15才(満13~14歳)の幼い「ナオミ」を見初め、教養ある一流の才媛に育て上げることを企てる。二人の居を構え、欲しがるものは何でも与え、英語に音楽にダンスに…と、はじめは譲治の思いどおりに事が運んだが、そんな幸せな時間は玉響そのものだった。

こうしてナオミの欺瞞と堕落が始まっていくが、はじめは「こんな女にほだされて、譲治はバカだなぁ(笑)」と半笑いで読み進めていたのに、次第にナオミの筆舌に尽くしがたい蛮行が明らかになってきて、読んでいて背筋が凍った。

それでも譲治はナオミを切り捨てられない。こちらとしては、「頼む、目を覚ましてくれ」と思わずにはいられないが、譲治はナオミの甘美な色香に狂わされ、結局判断が鈍る。

それでも、終盤でようやく、譲治はナオミを切り捨てた。俗にいう「賢者タイム」のような透徹した境地。「よくやった!譲治!」と快哉を叫んだが、その時点でまだあと数十ページ残っている。「もしや…」と思っていると、突如、譲治の家にナオミが現れる。もはやホラー。戦慄。

そこから間もなく訪れるクライマックスシーンは圧巻。読んでいて気持ち悪くなる。なぜ気持ち悪くなるか。譲治がムカつくのか、ナオミがムカつくのかが、自分でも判別つかなくなるからだ。狂気と狂気のせめぎ合い。このシーンは忘れられそうにない。

ナオミの魔性は侮れない。男の理性を失わせる官能美と、それを自覚的かつ本能的に使いこなしてしまう天賦の才。あまりの無節操ぶりに、男たちからとんでもない蔑称で呼ばれていることが発覚するが(作中ではさすがにその蔑称の明言を避けているのに、巻末の注解ではあっさり「○○○○だろう」と書かれていて笑ってしまった)、それを知って幻滅したはずの譲治をも難なく制圧してしまう。

小説それ自体として十分面白いが、巻末に付された文芸評論家(磯田光一)の解説によると、譲治からナオミへの偏愛には、執筆された大正末頃に日本を蔽っていた西洋崇拝思想が仮託されているようで、それはそれで考えさせられる。西洋崇拝(ナオミ)を否定するのではなく、それに陶酔する譲治を通して、むしろ肯定的に捉える谷崎潤一郎。

谷崎は後に、日本的伝統美に傾斜していったらしい。なるほど、自分が先に読んだ『蓼食う虫』はその流れに位置するのか。その延長線上に『細雪』などがあるようで、それも是非読んでみたい。『春琴抄』も気になるが、あの句読点が省略された独特の文体は、本屋で試し読みしたが、やはり難しそうだった。

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