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読書記録(11)川端康成『伊豆の踊子』

新潮文庫の令和4年7月1日新版(第3刷)。

旧制高校生の「私」は、一人で伊豆を旅していた。途中、旅芸人の一行を見かけ、美しい踊子から目が離せなくなる。大きな瞳を輝かせ、花のように笑う踊子。彼女と親しくなりたい。だが、「私」は声をかけられない……。そんなとき、偶然にも芸人たちから話しかけられ、「私」と踊子との忘れられない旅が始まった――。若き日の屈託と瑞瑞しい恋を描いた表題作。ほかに「温泉宿」「抒情歌」「禽獣」を収録。

(文庫本 裏表紙)

巻末の解説が、三者三様、読み応えあった。竹西寛子、三島由紀夫、重松清。これについては後述。



『伊豆の踊子』

ネット上に感想・批評・考察・研究が百出しているおかげで、浅学の私でもそれなりに理解度が深まる。初恋の話っぽく書かれているが、主人公(≒川端)の屈託が社会と融け合う過程を描いたエッセイとして読むべきかもしれない。

踊子の親類一座は、伊豆大島から渡って来ていた。少し調べたところでは、当時の大島は海上の要衝で、波浮港周辺はかなり栄えていたそう。物語の最後に、主人公が東京へ帰るのを踊子は見送る。踊子たちはその後、あまり日を置かず島に戻る予定らしい。14才くらいの踊子には恋心が芽生えていたようだが、もう主人公と会うことはないかもしれない。冬になったら主人公が伊豆大島を訪れる約束をしているが、果たしてどうなるか。

「伊豆大島」「若い娘」「恋」といえば、「アンコ椿は恋の花」という、都はるみさんの歌う名曲(1964年、昭和39年)がある。イントロだけで一気に、島の波間を揺蕩うような情緒を感じさせる市川昭介の作曲もさすがだが、星野哲郎の作詞も素晴らしい。

三日おくれの 便りをのせて
船が行く行く 波浮港
いくら好きでも あなたは遠い
波の彼方へ 云ったきり
あんこ便りは あんこ便りは
あゝ 片便り

三原山から 吹き出す煙
北へなびけば 思い出す
惚れちゃならない 都の人に
よせる思いが 灯ともえて
あんこ椿は あんこ椿は
あゝ すゝりなき

風にひらひら かすりの裾が
舞えばはずかし 十六の
長い黒髪 プッツリ切って
かえるカモメに たくしたや
あんこつぼみは あんこつぼみは
あゝ 恋の花

「アンコ椿は恋の花」(作詞:星野哲郎 作曲:市川昭介)

「便り」を書いているし、「十六」才だから、字が読めない14才の踊子の設定とは異なるのだが、「波の彼方へ 云ったきり」である「都の人」に寄せる恋心という意味では、符合するところも。

ただ、「伊豆の踊子」が下敷きになっているなどという話は聞いたことがないし、実際にもそんなことはないのだろう。それに、伊豆大島を舞台に作詞をすれば自ずとこういう感じになるだろうとも思うが、もし作詞したときの意識の根底にこの小説が刷り込まれていたのだと空想したら面白い。

いや待てよ…、もし主人公が1~2年後に踊子に会いに島を訪れたのだとすると、この歌詞はまさに…。星野先生は、ひょっとしたらそこまで考えて…などと想像をたくましくしてしまうのは恥ずかしいが、もはや私の頭の中ではリンクしてしまって引き離せない。

ちなみに、星野哲郎は山口県の周防大島出身で、島(今は橋が架かって陸続き)には星野哲郎記念館がある。2~3年前に行ってみたが、飄々とした本人の人柄が表れているような素朴な建物で、演歌ファンの客足が少ないながらも絶えなかった。「三百六十五歩のマーチ」(水前寺清子)、「男はつらいよ」(渥美清)、「みだれ髪」(美空ひばり)等。

『温泉宿』

登場人物の多さに加え、細かい説明を後回しにする川端氏特有の叙述法に惑わされ、一読しただけでは何が何やらさっぱり分からなかったが、二度三度読むとさすがに意味が分かってきた。

「彼女らは獣のように、白い裸で這い廻っていた。」

文庫本 P48

この出だしでいきなり「??」となったが、思えば、この1行で読者の注意は一気に作中に注がれることになるので、出色の書き出しだと思う。『片腕』も強烈だが、それに匹敵する。

世界の片隅で生きる人たちが、「どうしようもない」世の中で暮らすさまを描いた読み応えある作品だと思う。読み応えあるどころか、かなり頭を使わされた。「どうしようもない」は、一部の川端作品に共通する世界観だと思う。「魔界」に通じる?

『抒情歌』

独白・モノローグ形式が面白いだけでなく、不思議な予知能力に関する挿話がヒプノティックな雰囲気を醸し出していて、引き込まれる。こういう作品も書けるのか…。

『禽獣』

三島由紀夫は巻末解説文で、自分のしたこと(=子犬を死なせた)をよく分かっていない親犬の目を、作家(=川端)の目との対比で捉えている。子=作品に対して無責任でいられない作家の業(ごう)。

千花子も若い頃は「自分のしていることの意味を知らぬ例の顔つき」(P172)で、主人公の心中に付き合おうとしていた。その「虚無のありがたさに打たれた」(P172)彼は、「この女をありがたく思いつづけねばならない」(P173)と思うようになった。ふむふむ。

死んだ鳥(菊戴)が押入に入ったままになっている。川端は、書き終えた作品でも後から引っ張り出して書き変えたりするらしい。ということは、菊戴には、作家(=川端)の作品が寓意されている?


解説(重松清氏)

冒頭に書いたとおり、解説文が3名とも良いのだが、重松清氏の文章が特に良い。

JR特急「踊り子」号のとっつきやすい話から始まり、中盤から、川端の随筆『「伊豆の踊子」の作者』からの引用を交えて、川端の悩みを紹介する。あまりにも『伊豆の踊子』が人口に膾炙したことによって、世間のイメージは「川端康成=伊豆の踊子」となってしまい、その他の作品に光が当たらないことを嘆いていたそうだ。

川端康成ともあろう大家が、そのような俗人的な悩みをもつことが意外だった。あまたの歌手や俳優は、たったひとつの代表作のイメージばかりで語られるのを呪詛しているが、川端すら同じしがらみに苦しむということは、あの世界に生きる人たちにとっては、よほど普遍的な煩わしさなのだろう。代表作にすら恵まれない大多数の人にとっては、贅沢に映るかもしれないが。

この随筆『「伊豆の踊子」の作者』はぜひ原文が読んでみたくて、岩波文庫『川端康成随筆集』をamazonで発注。目次をみると、他の作家のことも書かれているようで、楽しみ。

そうした川端康成の悩みに寄り添いながら、しかし、重松氏は、そうした心配は杞憂だったし、『伊豆の踊子』以外の作品も後世の我々に堂々読み継がれていることを、泉下に語り掛ける。そして。

 とにかく、ここは玄関だ。上がり框に足をかけて最初の障子を開けると、本書所収の残り三編があなたを待っているはずだ。まずはそこから始めてみようか。魔界と呼ばれる川端文学が――すなわち『伊豆の踊子』なんて甘口の食前酒でしょ、とうそぶく作品がいくらでも控えている。
 ウェルカム。特急『踊り子』号に乗って、魔界へようこそ。

文庫本 P210

川端の「魔界」作品は、一度読んだだけでは読みこなせない。二度三度読み、そして期間を空けて再び読み、さらに他の作品と読み比べて、ようやく輪郭が見えてくるような気がする。特急『踊り子』号の先は長い。

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