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読書記録(07)川端康成『山の音』

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語弊を恐れず言うと、『渡る世間は鬼ばかり』の川端康成版。もちろん、あんなに懇切丁寧に説明はしてくれないし、「家族って大変ですね」以外に、読み取るべきテーマが沢山ありそう。

■主な登場人物
信吾・・・主人公。60代。
ブサイク妻・・・信吾に家庭のゴタゴタを押し付ける。
イケメン息子・・・不倫する。
ブサイク娘・・・夫がダメ人間で離婚する。
菊子・・・イケメン息子の妻。美しい。
(以上全員、同居)
ブサイク妻の姉・・・最高に美しかったが、既に死去。

もの忘れが増えて耄碌してきた60代の「信吾」は、同居するイケメン息子の不倫や、離婚して出戻ってきたブサイク娘の処置に困る。信吾のブサイク妻も、信吾に責任を押し付けるだけで、解決に乗り出そうとしない。信吾は右顧左眄しながら行動を起こすものの、根本的な解決には至らない。

イケメン息子は、どうしようもない男(戦争の影響はあるが)。妻と愛人の両方を妊娠させ、両方に悲しい思いをさせる。妻は、夫の不倫がつづく間に子は産みたくないと、堕胎する。妻にそうまでさせておきながら、イケメン息子は愛人を妊娠させる。愛人は、信吾から手切れ金を受け取り、隠遁する。

ブサイク娘は、夫がどうしようもない男。麻薬中毒。離婚し、娘2人を連れて、父・信吾の家に戻ってきた。「あたしがこうなったのは、お父さん(信吾)のせいだ。もっとちゃんと相手のことを調べておいてくれたら。」と。

こんな世俗臭い、それこそ『渡鬼』的な事件が輻輳するなか、信吾は、イケメン息子の妻「菊子」の美しさにうつつを抜かしている。菊子だけではない。妻の姉の美しさが、亡くなった今でも信吾の心に重い楔となって刺さったままである。

信吾は、健忘症が進行し、人の名前や大事な出来事を忘れてしまうばかりか、終盤ではネクタイの締め方すら突如として忘れてしまうくらいだが、それに反比例するように、淫らな夢を見るようになる。信吾はその夢に、菊子や妻の姉を想う自分の卑しさを感じたりする。

『千羽鶴』『みずうみ』等と共通する、川端流の女性美への執着心が、この信吾にも見て取れる。ただ、『みずうみ』のように一方的な憧憬ではなく、イケメン息子の妻「菊子」もまた、信吾の想いに応えよう、あるいは誘惑するかのような言動をとる。作中ではあくまでプラトニックな関係のままだが、その後どうなることか。

この菊子は、表面的には夫(信吾のイケメン息子)の仕打ちに苦しむ可哀相な存在として描かれているが、なかなか曲者だと思う。その曲者ぶりに夫(信吾のイケメン息子)も気づいているような台詞が若干出てくる。

こんな信吾と菊子の微妙な関係性を、イケメン息子もブサイク娘もブサイク妻も察していて、全員、奥歯にものの挟まったような話し方をする。信吾とて、優しさからか逃げ腰からか、婉曲な話し方。ここに、この小説の難しさと面白さが表裏一体となって表れている気がする。一つのセリフのうらに複雑な感情が犇めいている。

なんとなく、「どうしようもないこと」がテーマとして通底している気がする。その「どうしようもないこと」を分解すると、「美を欲し醜を厭う本能」「男と女の分かり合えない壁」「戦争によって変わった価値観」等が検出できそう。まだあるかも。

表題「山の音」は、第一章で出てくる。その第一章で、信吾は、菊子から「西瓜西瓜」と呼ばれたのが聞こえない。一方、最終章のラストシーンでは、信吾から菊子に「菊子、からす瓜がさがって来てるよ。重いからね。」と呼びかけたが、菊子は聞こえない。こうした対照関係が他にも出てきているはずだが、それを調べるにはもっとじっくり読み込む必要がある。

『山の音』に限ることではないが、一二度読んだくらいでは十分に咀嚼できなさそう。また期間をおいて読み、新たに何か気づいたら、そのときに改めて感想を記そう。

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