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ゴッホのひまわりと夜の上野

傘をどんな角度に傾けていようとも粒が体に当たってしまう優しくてさらさらで霧のような雨が一番嫌いな雨だ。台風の、強風と一緒になった最強の雨は嫌いというより諦めがつく。そういう雨は傘も大活躍だし、建物内に入ったときに傘に乗った雨粒を振り落とすとき、達成感というか、ひとつの戦いから無事に帰還できた、くらいに思えてしまうからいい。

霧なのか雨なのかはっきりしないふわふわとした無数の粒の中を歩いていく。国立西洋美術館に入ったのは初めてで、その入り口に近付いたのも初めてだったから少し緊張していた。新型コロナウイルスの影響なのかはわからないが、日時指定の事前予約制だったから、人もそれなりに少ないんだろうと思っていたが違った。コロナに生活が侵される前の別の美術館での入り口の様子を思い出してしまうほど人が詰め込まれていく。
私自身、外出自粛期間もずっと換気の不十分な飲食店で働いていたような人間で、それでも来店する客、マスクをしない客、咳を口を抑えないでする客を見てきたからなんとなくわかるのだが、こういう場所は、いくら対策をしてもそれ以上に来館する人の意識が低くて自分たちもその感覚に慣れてしまうのだろう。
人がぐいぐい詰め込まれる館内に、私も数分したら慣れてしまった。本当にあった怖い話。

絵画に触れていても、私は特になにも感じたりしない人間だ。絵の描き方なんて、一点透視図法とか、点描とか、そんなレベルでしか語れない。それよりも、それを描いた人物の生まれてから死ぬまでの苦悩とか、この絵を描いているときに考えていたこととか、そういう、裏エピソード的なものに惹かれがち。
今日も正直、私と一緒に美術館へ行ってくれた友達含め、ゴッホのひまわりの前で瞬きを忘れかけそうだったあの人たちは全員、ゴッホのひまわりの何に惹かれていたんだろうと疑問に思う。
ゴッホのひまわりをこの目で、しかも上野というめちゃくちゃ近い場所で見れるということもあって、ここへ来る前にフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホのことを携帯でさらさらっと調べた。
さっきも言ったが私はだいたいの絵に惹かれたりはしない。彼らの人生に惹かれる。
平野啓一郎さんの著書にもゴッホについてのエピソードが載っていたものがあって、それを最近読んでいた(たまたま)こともあり、今回のゴッホのひまわりはけっこう楽しみだった。
ゴッホについては謎が多い。
私も、色んな人がゴッホについて語る記事や映像を観ながら、それは違うんじゃないのかなとか、それならこういう説のほうが正しいだろうなと思ったりすることが携帯でさらさら調べていただけなのにたくさんあった。

ただ、美術館内で、仕切りに区切られた壁の向こう側にゴッホのひまわりがチラッと見えてきたとき、彼の人生とか彼の思いとかそれに対する私の勝手な考察が全て吹き飛んだような気持ちになってその場にしばらく立ち尽くしていた。
この感覚のことを私もあんまり説明できない。だけどゴッホは、私たちと同じ人間なんだなという気持ちで胸がいっぱいになった。それだけなら言語化できる。
彼は死因について現代まであれやこれやと語り継がれることを望んでいたのではない。きっと。
ひまわりを描いていたときはただひたすらに明るい未来について友人と語っていたかったんだろうと思った。


たったそれだけなんだろうと。それだけが始まりだったんだろうと。

誰でも描けそうな絵。だけどその裏側に、彼の笑顔や幸せがあったらいいのにと漠然と思った。
確かにこの絵を前にゴッホは座っていて、絵筆を持っていて、歌を口ずさんでいたかもしれない。くしゃみをしたかも。
ゴッホは特別な人間ではなかったんだなと思う。
あの、渦を描きそうなほど力をみなぎらせた花弁の一枚一枚が、ゴッホの人生そのものであり、それはゴッホの隣の家のおばさんが送る人生とそっくり似ていたかもしれない。
...ということを考えていたら瞬きを忘れかけていた。みんなこんなこと考えてんだなと納得した。


美術館を出てもまだ雨はふわふわと体にぶつかってきた。
上野のアメ横が私はけっこう好きなのだけれど、それは雰囲気、というか、人々の貪欲さを垣間見させる声と言葉が好きだからだ。常に夏の夏祭りのあの湿った開放的な空気を思い出させてくれる。
アメ横を抜けて御徒町のUNIQLOとGUを見て、それでまたアメ横を通って、友達がコメダ珈琲店を見つけてそこへ入った。

コメダ珈琲店では友達がソフトクリームの乗ったメニューを二つも頼んでいて、寒くないのかなと心配をしたのだけれど、彼女は別になにも言い出さなかった。
前の職場で出会った友達で、彼女はまだその職場で働いているから、社員のあの人が異動するよとか、あの人がこの前あんなこと言ってたよとか、他愛ない話をしていたらお互い注文してたメニューを食べ(飲み)終えていたから店を出た。

「上野は、夜が好き」

と、ふと口にしたら友達も曖昧ではあったもののそうねえとか答えてくれた。
昼間はどれだけ一人でふらついていても一人になりきれない感覚があるけれど、夜はそのへんの店の看板だけが高く明るく輝いて人の影も光も消すから、初めてひとりぼっちになれる。
美術館が集まるあのあたりはちょっと上品な人が歩いていたりするんだけど、ちょっと離れればその雰囲気とは全く違う雰囲気の人たちが(具体的に言うと差別的に聞こえてしまうかもしれないので言えない)歩き出し、違う上野を作っている。
それが面白い。
何度来ても駅前(何改札なのかド忘れ)のあのUNIQLOはこぢんまりとしていて可愛いし、去年の今頃私が貧血で倒れたあのホームへ行くと、今でも私に声をかけてくれたグリーン車のお姉さんの顔を思い出す。


ゴッホに触れることはどう考えても無理なのだけど、私たちはあの四角い箱に入れられたひまわりの絵の、あの凹凸とか、筆を走らせたあの跡とかを見ては、ゴッホのなにかに触れることができたと感じるのだろう。

私が中学生の頃に教科書の隅に描いたひまわりの絵とどっちが上手だろうと考えては、いや、そんなことはどうでもよくて、この絵がどれほどの値段とか、いや、そっちのほうがどうでもよくて、ただ彼がこの絵を描きながら口ずさんだ歌が知りたい。
私はそれだけ。

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